東漢時代400 献帝(八十二) 袁譚背反 204年(3)

今回は東漢献帝建安九年の続きです。
 
[(続き)] 九月、曹操が令を下しました「河北は袁氏の難に遭った(罹袁氏之難)。よって今年の租賦を出さないように命じる(今年の租賦を免除する)。」
 
また、豪強による土地の兼併を制限する法(豪彊兼并之法)を厳重にしたため、百姓が喜悦しました。
三国志武帝紀』裴松之注が曹操の令を載せています「国があり、家がある者は、少ないことを患いず不平等なことを患い、貧しいことを患いず不安定なことを患いる(不患寡而患不均,不患貧而患不安)。袁氏の治は、豪彊(豪強)に擅恣(専横放縦)させ、親戚に兼并させた。下民は貧弱なのに、租賦を代わりに出し(原文「下民貧弱代出租賦」。権力者の代わりに貧民が租税を負担したのだと思います)、家財を売り出しても、命に応じるには足りなかった(衒鬻家財,不足応命)。審配の宗族は罪人を隠匿して逃亡者の主になるに至った(至乃藏匿罪人為逋逃主)(このような状況で)百姓を親附させて甲兵(戦士)を彊盛(強盛)にしようと望み欲しても、どうしてそうできるだろう(豈可得邪)。よって一畝から四升の田租を徴収し、一戸から絹二匹と綿二斤を出させるのみとする。その他は勝手に徴発してはならない(他不得擅興発)。郡国の守相は明確にこれを検察し、彊民(強民)に隠藏(隠匿)させたり、弱民に兼賦(二倍の税を納めること)させてはならない。」
 
献帝が詔によって曹操を領冀州冀州牧兼任)にしました。
曹操は兗州(牧)を辞して返還しました。
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「当時、政令曹操から出ていた。任命を受け入れた場合は実際に受け入れたことになるが、辞退した場合は本当の辞退ではない(領則真領而讓非真讓也)。」
 
尚、『後漢書孝献帝紀』はこう書いています「秋八月戊寅(初二日)曹操袁尚を大破して冀州を平定し、自ら冀州牧を領した(自領冀州牧)」。
 
以下、『資治通鑑』からです。
以前、袁尚が従事安平の人牽招(牽が姓、招が名です)を派遣し、上党で軍糧を監督させました。
牽招が還る前に袁尚が中山に逃走したため、牽招は高幹(高幹は并州刺史、または并州牧です)を説得して、并州袁尚を迎え入れ、力を併せて変化を観ようとしました。
しかし高幹が従わなかったため、牽招は東に向かって曹操を訪ねます。
曹操は牽招を再び冀州従事にしました。
 
曹操が崔琰を招聘して別駕にしました。
曹操が崔琰に言いました「昨日、戸籍を考察したところ(昨按戸籍)、三十万の衆を得ることができる。だから冀州は)大州である。」
崔琰が応えて言いました「今は九州が幅裂(裂けた布のように分裂すること)しており、二袁兄弟が自ら干戈を用いたので(原文「二袁兄弟親尋干戈」。この「尋」は「用」の意味です)、冀方の蒸庶(民衆)は原野に骨を曝しています。まだ王師が風俗(民主の生活)を存問(慰問)して塗炭(窮地)から救ったとは聞いたことがないのに、甲兵を校計(計算)してこれだけを優先しています(唯此為先)。これがどうして鄙州(私の州。冀州の士女が明公に望んでいることでしょう(斯豈鄙州士女所望於明公哉)。」
曹操は容貌を正して謝りました。
 
許攸は功績を自負して驕嫚(驕慢)でした(許攸の進言のおかげで烏巣で大勝できました)
ある時、衆人が座っている中で曹操の小字(小名)を呼び、「某甲曹操は一名を「吉利」、小名を「阿瞞」といいます。ここでは「阿瞞」と呼んだはずですが、『資治通鑑』胡三省注によると、史書は直言を避けて(史隠其辞)、「某甲」と書いています)、卿は私がいなかったら冀州を得られなかった(卿非我不得冀州也)」と言いました。
曹操は笑って「汝の言の通りだ(汝言是也)」と言いましたが、内心では楽しまず、後に許攸を殺してしまいました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月、孛星(異星。彗星の一種)が東井(井宿。二十八宿、南方七宿の一つ)に現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
高幹が并州を挙げて曹操に降りました。
曹操は改めて高幹を并州刺史にしました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
曹操が鄴を包囲した時、袁譚がまた背反して甘陵、安平、勃海、河間を攻略しました。
更に、曹操に破れて中山に還った袁尚を攻撃します。
袁尚は敗れて故安に奔り、袁熙に従いました。
資治通鑑』胡三省注によると、故安県は涿郡に属します。
 
袁譚袁尚の衆を全て収め、兵を還して龍湊に駐屯しました。
 
曹操袁譚に書を送って約束に背いたことを譴責し、婚姻関係を絶って袁譚の娘を還しました。
その後、兵を進めて袁譚を攻めます。
 
十二月、曹操が其門(地名)に駐軍しました。
袁譚は懼れて平原から抜け出し、南皮に走って守りを固めました。清河に臨んで駐屯します(譚抜平原走保南皮,臨清河而屯)
資治通鑑』胡三省注によると、清河は南皮県の西を流れます。
 
曹操は平原に入って諸県を略定(攻略平定)しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
献帝が三公以下の官員にそれぞれ差をつけて金帛を下賜しました。
この後、三年に一回下賜するのが(三年一賜)常制になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
曹操が上表して公孫度を武威将軍に任命し、永寧郷侯に封じました(恐らく本年の事ではありません)
しかし公孫度はこう言いました「わしは遼東で王として君臨している。何が永寧だ(原文「我王遼東,何永寧也」。公孫度献帝初平元年190年)に遼東侯平州牧を称しました。その後、いつ王を称したのかは分かりません)。」
公孫度印綬を武庫にしまいました。
 
本年、公孫度が死に、子の公孫康が位を継ぎました。弟の公孫恭を永寧郷侯に封じます。
 
牽招はかつて袁氏のために烏桓を領(管理)したことがありました。
資治通鑑』胡三省注によると、袁紹は牽招を招聘して督軍従事に任命し、併せて烏桓突騎を領させました(兼領烏桓突騎)
そこで曹操は牽招を派遣し、柳城を訪ねて烏桓を撫慰させました。
 
ちょうど烏桓峭王が五千騎を整えて(原文「厳五千騎」。この「厳」は整えることです)袁譚を助けようとしました。
また、公孫康も使者韓忠を派遣して峭王に単于印綬を授けました。
そこで峭王は群長(各部落の長)を集めて大会を開きました。韓忠も同席します。
 
峭王が牽招に問いました「昔、袁公が『天子の命を受けてわしを単于にする』と言った(原文「言受天子之命假我為単于」。「假」は「印綬を授ける」「任命する」の意味だと思います)。今、曹公がまた『改めて天子に報告して、わしを真単于にする』と言った(曹公復言当更白天子假我真単于。遼東もまた印綬を持って来た。このようであるが、誰が正しいのだろうか(如此誰当為正)?」
牽招が答えました「昔は袁公が承制(皇帝の代わりに命を出すこと)していたので、拝假(任命)することができたのです。しかし中間になって(その後になって)天子の命に違錯したので(背いたので)、曹公がこれに代わり、『天子に報告して改めて真単于にする』と言いました(言当白天子更假真単于。遼東の下郡(小郡)がどうして勝手に拝假(任命)を称せるでしょう。」
韓忠が言いました「我が遼東は滄海の東にあって兵百余万を擁しており、また、扶餘、濊貊の用がある(扶餘、濊貊が従っている。原文「有扶餘濊貊之用」)。当今の勢(形勢)においては、強者が右(上)となる。なぜ曹操だけが是となるのか(なぜ曹操だけが正しいと言えるのだ。原文「曹操何得独為是也」)。」
牽招が韓忠を叱責して言いました「曹公は允恭(信があって恭勤なこと)明哲で、天子を翼戴(補佐)しており、叛逆する者を討伐して帰服した者を懐柔し(伐叛柔服)、四海を寧静にさせた。汝等君臣は頑嚚(頑迷愚昧で姦悪なこと)で、今は険遠に恃んで王命に背違し、勝手に拝假(任命)しようと欲して神器(天子の権力)を侮弄している(侮って弄んでいる)。まさに屠戮されるべきであるのに、なぜ敢えて大人曹操を軽んじて誹謗するのか(何敢慢易咎毀大人)!」
牽招は韓忠の頭をつかんで地に押さえつけ、刀を抜いて斬ろうとしました。
峭王が驚き怖れて裸足で牽招を抱きかかえ、韓忠を救うために命乞いします。左右の者も色を失いました。
牽招はやっと席に戻りました。
 
その後、牽招が峭王等のために成敗の效(成果、結果)や誰に禍福が帰しているかを説きました。
皆、席を下りて跪伏し、謹んで敕教(朝廷の命令と訓戒)を受け入れます。
峭王は遼東の使者に別れを告げて、準備した騎兵を解散させました。
 
 
 
次回に続きます。