東漢時代400 献帝(八十二) 袁譚背反 204年(3)
また、豪強による土地の兼併を制限する法(豪彊兼并之法)を厳重にしたため、百姓が喜悦しました。
『三国志・武帝紀』裴松之注が曹操の令を載せています「国があり、家がある者は、少ないことを患いず不平等なことを患い、貧しいことを患いず不安定なことを患いる(不患寡而患不均,不患貧而患不安)。袁氏の治は、豪彊(豪強)に擅恣(専横放縦)させ、親戚に兼并させた。下民は貧弱なのに、租賦を代わりに出し(原文「下民貧弱代出租賦」。権力者の代わりに貧民が租税を負担したのだと思います)、家財を売り出しても、命に応じるには足りなかった(衒鬻家財,不足応命)。審配の宗族は罪人を隠匿して逃亡者の主になるに至った(至乃藏匿罪人為逋逃主)。(このような状況で)百姓を親附させて甲兵(戦士)を彊盛(強盛)にしようと望み欲しても、どうしてそうできるだろう(豈可得邪)。よって一畝から四升の田租を徴収し、一戸から絹二匹と綿二斤を出させるのみとする。その他は勝手に徴発してはならない(他不得擅興発)。郡国の守相は明確にこれを検察し、彊民(強民)に隠藏(隠匿)させたり、弱民に兼賦(二倍の税を納めること)させてはならない。」
以下、『資治通鑑』からです。
しかし高幹が従わなかったため、牽招は東に向かって曹操を訪ねます。
曹操が崔琰を招聘して別駕にしました。
崔琰が応えて言いました「今は九州が幅裂(裂けた布のように分裂すること)しており、二袁兄弟が自ら干戈を用いたので(原文「二袁兄弟親尋干戈」。この「尋」は「用」の意味です)、冀方の蒸庶(民衆)は原野に骨を曝しています。まだ王師が風俗(民主の生活)を存問(慰問)して塗炭(窮地)から救ったとは聞いたことがないのに、甲兵を校計(計算)してこれだけを優先しています(唯此為先)。これがどうして鄙州(私の州。冀州)の士女が明公に望んでいることでしょう(斯豈鄙州士女所望於明公哉)。」
曹操は容貌を正して謝りました。
許攸は功績を自負して驕嫚(驕慢)でした(許攸の進言のおかげで烏巣で大勝できました)。
ある時、衆人が座っている中で曹操の小字(小名)を呼び、「某甲(曹操は一名を「吉利」、小名を「阿瞞」といいます。ここでは「阿瞞」と呼んだはずですが、『資治通鑑』胡三省注によると、史書は直言を避けて(史隠其辞)、「某甲」と書いています)、卿は私がいなかったら冀州を得られなかった(卿非我不得冀州也)」と言いました。
袁尚は敗れて故安に奔り、袁熙に従いました。
『資治通鑑』胡三省注によると、故安県は涿郡に属します。
その後、兵を進めて袁譚を攻めます。
『資治通鑑』胡三省注によると、清河は南皮県の西を流れます。
献帝が三公以下の官員にそれぞれ差をつけて金帛を下賜しました。
この後、三年に一回下賜するのが(三年一賜)常制になりました。
しかし公孫度はこう言いました「わしは遼東で王として君臨している。何が永寧だ(原文「我王遼東,何永寧也」。公孫度は献帝初平元年(190年)に遼東侯・平州牧を称しました。その後、いつ王を称したのかは分かりません)。」
そこで峭王は群長(各部落の長)を集めて大会を開きました。韓忠も同席します。
峭王が牽招に問いました「昔、袁公が『天子の命を受けてわしを単于にする』と言った(原文「言受天子之命假我為単于」。「假」は「印綬を授ける」「任命する」の意味だと思います)。今、曹公がまた『改めて天子に報告して、わしを真単于にする』と言った(曹公復言当更白天子假我真単于)。遼東もまた印綬を持って来た。このようであるが、誰が正しいのだろうか(如此誰当為正)?」
牽招が答えました「昔は袁公が承制(皇帝の代わりに命を出すこと)していたので、拝假(任命)することができたのです。しかし中間になって(その後になって)天子の命に違錯したので(背いたので)、曹公がこれに代わり、『天子に報告して改めて真単于にする』と言いました(言当白天子更假真単于)。遼東の下郡(小郡)がどうして勝手に拝假(任命)を称せるでしょう。」
韓忠が言いました「我が遼東は滄海の東にあって兵百余万を擁しており、また、扶餘、濊貊の用がある(扶餘、濊貊が従っている。原文「有扶餘濊貊之用」)。当今の勢(形勢)においては、強者が右(上)となる。なぜ曹操だけが是となるのか(なぜ曹操だけが正しいと言えるのだ。原文「曹操何得独為是也」)。」
牽招が韓忠を叱責して言いました「曹公は允恭(信があって恭勤なこと)明哲で、天子を翼戴(補佐)しており、叛逆する者を討伐して帰服した者を懐柔し(伐叛柔服)、四海を寧静にさせた。汝等君臣は頑嚚(頑迷愚昧で姦悪なこと)で、今は険遠に恃んで王命に背違し、勝手に拝假(任命)しようと欲して神器(天子の権力)を侮弄している(侮って弄んでいる)。まさに屠戮されるべきであるのに、なぜ敢えて大人(曹操)を軽んじて誹謗するのか(何敢慢易咎毀大人)!」
牽招は韓忠の頭をつかんで地に押さえつけ、刀を抜いて斬ろうとしました。
峭王が驚き怖れて裸足で牽招を抱きかかえ、韓忠を救うために命乞いします。左右の者も色を失いました。
牽招はやっと席に戻りました。
その後、牽招が峭王等のために成敗の效(成果、結果)や誰に禍福が帰しているかを説きました。
皆、席を下りて跪伏し、謹んで敕教(朝廷の命令と訓戒)を受け入れます。
峭王は遼東の使者に別れを告げて、準備した騎兵を解散させました。
次回に続きます。