東漢時代401 献帝(八十三) 徐氏 204年(4)

今回で東漢献帝建安九年が終わります。
 
[] 『三国志呉書二呉主伝』と『資治通鑑』からです。
丹陽の大都督嬀覧(『資治通鑑』胡三省注によると、舜が嬀汭に住んだため、その後代が嬀を氏にしました)、郡丞戴員が太守孫翊孫権の弟)を殺しました。
将軍孫河が京城に駐屯しており、情報を聞いて宛陵に駆けつけましたが、やはり嬀覧と戴員に殺されました。
資治通鑑』胡三省注によると、京城は呉郡丹徒県です。孫権が呉から移って住むようになってから、「京城」に改名しました。「京口」ともいいます。この「京」は非常に高い丘(丘絶高)を意味するようです。
宛陵は丹陽郡の治所です。
嬀覧と戴員は盛憲の党に属します。
 
三国志呉書六宗室伝』によると、孫権が呉郡太守盛憲(実際は「元呉郡太守」です。下述します)を殺した時、盛憲の元孝廉嬀覧と戴員は逃亡して山中に隠れました。しかし孫翊が丹陽太守になってから、礼を用いて二人を招き、嬀覧を大都督に、戴員を郡丞にしました。
 
盛憲に関しては、『三国志呉書六宗室伝』裴松之注に記述があります。以下、簡単に紹介します。
盛憲は字を孝章といい、心が純正で度量が大きく(器量雅偉)、孝廉に挙げられて尚書郎になりました。やがて呉郡太守に任命されましたが、病のため官を去ります献帝建安四年199年に、許貢が呉郡を治めに来たため、高岱が盛憲を連れて許昭の家に避難したことを書きました。この時、盛憲は病だったようです)
その後、孫策が呉と会稽を平定して英豪を誅殺しました。盛憲もかねてから高名があったため、孫策は深く嫌いました献帝建安四年199年に書きましたが、程普が孫策に許昭を攻めるように勧めた時、孫策は「許昭は旧君(盛憲)に対して義があり、故友(旧友。厳白虎)に対して誠がある。これは丈夫の志(心)である」と言って放置しました。そのおかげで盛憲も救われたようです)
少府孔融は盛憲と仲が良かったため、盛憲が禍から逃れられなくなることを憂い、曹操に書を送って推挙しました。
そこで朝廷曹操が盛憲を招いて騎都尉に任命しようとしました。
ところが、制命(勅命)が到着する前に、盛憲は孫権に殺害されてしまいました(当時は孫策が既に死に、孫権の代になっていました)。盛憲の子盛匡は魏(曹操)に奔り、後に位が征東司馬に上りました。
盛憲が殺された詳しい時間は分かりません。
 
本文に戻ります。
孫翊等を殺した嬀覧と戴員は人を派遣して揚州刺史劉馥曹操が任命しました)を迎え入れ、歴陽に住ませました。丹陽を挙げて劉馥に応じます。
資治通鑑』胡三省注によると、歴陽と丹陽は長江の両岸に位置します。嬀覧等は劉馥を歴陽に駐屯させて丹陽の声援(後援)にしました。
 
嬀覧は軍府の中に住みました。孫翊の妻徐氏に迫って娶ろうとします。
徐氏が偽って言いました「晦日が来るのを待ち、祭祀を設けて服(喪服)を除ぎ、その後に命を聴くことを乞います。」
資治通鑑』胡三省注によると、月の終わりである晦日には陰が尽きると考えられていました。
嬀覧はこれに同意します。
 
そこで徐氏は秘かに親しい者を派遣し、孫翊が親近にしていた旧将孫高、傅嬰等に言葉を伝えて共に嬀覧を図ろうとしました(除こうとしました)
孫高と傅嬰は涙を流して許諾し、孫翊の時代に侍養していた者孫翊に仕えて厚く遇されていた者)二十余人を秘かに呼び招いて盟を誓い、共謀しました(盟誓合謀)
 
晦日が来ると、祭祀が設けられました。徐氏は哭泣して哀痛を尽くします。
祭祀が終わってから、徐氏は喪服を除き、香を焚いて沐浴しました(薰香沐浴)。話し声や笑い声がとても嬉しそうです(言笑懽悦)
大小(府内の上下の者)が悽愴(悲傷する様子)となり、このようにしている徐氏を恨みました(怪其如此)
嬀覧はこの様子を秘かに監視しており(密覘)、疑意(猜疑の心)を抱くことはありませんでした。
 
徐氏が孫高と傅嬰を呼んで戸内に配置し、人を送って嬀覧を招き入れました。
徐氏が戸を出て嬀覧を拝し、ちょうど一拝を得た時(原文「適得一拝」。嬀覧が徐氏を拝したのだと思います)、徐氏が大声で叫びました「二君よ、起つ時です(二君可起)!」
孫高と傅嬰が現れて共に嬀覧を殺しました。
他の者達もすぐに外で戴員を殺します。
 
徐氏は縗絰(喪服)に戻り、嬀覧と戴員の首を使って孫翊の墓を祀りました。
この一件は軍を挙げて震駭(震撼驚愕)させました。
 
孫権が乱を聞いて椒丘から帰還しました。
丹陽に至って嬀覧、戴員の余党をことごとく族誅します。
孫高と傅嬰を抜擢して牙門(将)にし、その他の者にも差をつけて賞賜を与えました。
 
孫河の甥・孫韶(『資治通鑑』は「孫河の子」としていますが、誤りです。『三国志・呉書六・宗室伝』参照)は十七歳でしたが、孫河の余衆を集めて京城に駐屯していました。
孫権は軍を率いて呉に帰り、夜間、京城に至って営を構えました。
そこで孫韶を試すために攻撃して驚かせようとします。
すると孫韶の兵が全て城壁に登り、檄(伝令)を伝えて警備しました。讙声(喚声)が地を動かし、多数の矢が城外の人を射ます(頗射外人)
孫権が人を送って諭すと、やっと止みました。
 
翌日、孫権が孫韶に会い、承烈校尉に任命して孫河の部曲を統率させました。
 
三国志呉書二呉主伝』によると、孫権は殺された弟の丹楊(丹陽)太守孫翊に代えて、従兄孫瑜を太守にしました。
 

三国志呉書二呉主伝』裴松之注はここで沈友という人物を紹介しています。
当時、孫権が官寮(官員)を大勢集めて会を開いたことがありました。その席で沈友が孫権を批難したため(有所是非)孫権は人に命じて連れ出させ、「人が卿は反を欲している(謀反しようとしている)と言った」と告げました。

沈友は禍から脱することができないと知り、こう言いました「主上(陛下)が許にいるのに無君の心(主君を無視する心)がある者を、非反(謀反していない)ということができますか(漢帝が許にいるのに、それに仕えようとしない孫権こそ叛臣です)?」
孫権は沈友を殺しました。
 
沈友は字を子正といい、呉郡の人です。
沈友が十一歳の時、華歆が各地を巡行して風俗を調べ(行風俗)、沈友に会って普通ではないと感じました(見而異之)。そこで華歆が沈友に呼びかけました「沈郎、車に乗って語ることができるか(可登車語乎)?」
沈友は逡巡(ためらうこと)してから断ってこう言いました「君子が講好する時は(好を結ぶ時は)、礼に基いて会宴するものです(宴を開くものです)。今は仁義が陵遅(衰退)し、聖道が漸壊(徐々に崩壊すること)しています。先生が銜命(奉命。命を受けること)したのは、先王の教えを裨補(補修)して風俗を整斉(整理)するためなのに、軽々しく威儀を脱するのは(棄てるのは)、薪を背負って火を消しに行くようなもので(負薪救火)、燃え盛る炎をますます大きくしてしまうのではありませんか(無乃更崇其熾乎)。」
華歆が恥じ入って言いました「桓桓帝霊帝以来、英彦(英才)は多かったが、幼童でこのような者はまだいなかった。」
 
沈友は弱冠(二十歳)で博学になり、多くのことに精通して(多所貫綜)文辞を書くことに長けていました(善属文辞)。併せて武事も好み、『孫子兵法』に注釈をしました。
また、弁論を得意としており(原文「辯於口」。意訳しました)、いつも沈友が至った場所では衆人が皆黙ってしまい、反論する者がいませんでした(莫與為対)
誰もが沈友の「筆の妙」「舌の妙」「刀の妙」を語り、この三者はどれも人々を超越していました。
そこで孫権が礼を用いて沈友を招きました。
沈友は孫権の招きに応じ、王霸の略や当時の務(急務とすること)を論じました。孫権は容儀を正して沈友を敬います。
沈友が荊州を併合すべきとする計荊州宜并之計)を述べて、孫権に採用されました。
 
沈友は厳粛な姿勢で朝廷に立ち(正色立朝)、人物や政治に対する論評が厳格でした(清議峻厲)。そのため庸臣(凡庸な臣)に謗られ、謀反を誣告されます。
孫権も最後は沈友を用いることができなくなる(自分のために働かなくなる。自由に使えなくなる。原文「終不為己用」)と判断し、殺害しました。
沈友は二十九歳でした。
 
 
 
次回に続きます。