東漢時代402 献帝(八十四) 冀州平定 205年(1)

今回は東漢献帝建安十年です。二回に分けます。
 
東漢献帝建安十年
乙酉 205
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、曹操が南皮を攻めました。
しかし袁譚が出撃し、曹操軍の多くの士卒が死にます。
 
曹操が攻撃を緩めようとしましたが、議郎曹純(『資治通鑑』胡三省注によると、曹純は曹仁の弟です)がこう言いました「今は縣師(懸軍。敵地に入って孤立した軍)が深入りしており、持久は困難です。もし進んだのに克てず、退いたら(攻撃を緩めたら)必ず威を喪います。」
そこで曹操は自ら桴(ばち)を持って戦鼓を敲き、攻撃する兵を統率しました。ついに曹操軍が袁譚軍を破って南皮を攻略します。
袁譚は城を出て逃走しましたが、曹操が追撃して斬りました。袁譚の妻子も誅殺されます。
 
三国志武帝紀』裴松之注はこう書いています「公曹操袁譚を攻めたが、朝から正午に至っても(旦及日中)決着がつかなかった。そこで公曹操が自ら桴を持って戦鼓を敲いた。すると士卒が全て奮い立ち、すぐに城を陥落させた(応時破陷)。」
 
後漢書孝献帝紀』は「春正月、曹操青州袁譚を破り、これを斬った曹操袁譚青州斬之)」と書いていますが、袁譚が破れた南皮は冀州勃海郡に属すはずです(『後漢書郡国志二』参照)
 
三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』に戻ります。
李孚が自ら冀州主簿を称し、曹操に会見を求めて言いました「今、城中では強弱が相陵し(互いに侵犯し)、人心が擾乱(混乱)しています。新たに投降して城内で信が知られている者(新降為内所識信者)に命じて、明教(命令)を宣伝するべきだと考えます。」
曹操はすぐに李孚を送って入城させ、吏民に告諭しました。それぞれ故業に安んじさせ、互いに侵犯できないようにします。
その結果、城中が安定しました。
 
曹操は郭図等とその妻子を斬りました。
 
これ以前に袁譚が王脩を派遣して楽安で食糧を運ばせました(原文「運糧於楽安」。楽安から南皮に食糧を輸送させたのだと思います)
王脩は袁譚の急を聞くと、自分が管理する兵を率いて救援に赴きましたが、高密に至った時、袁譚が死んだと聞きました。王脩は馬から下りて号哭し、「主を無くしてしまった。どこに帰ればいいのだ(無君焉帰)!」と言いました。
その後、王脩は曹操を訪ねて袁譚の死体を收葬(回収埋葬)することを乞いました。曹操はこれを許可し、王脩を再び楽安に還らせて軍糧を監督させました。
 
袁譚の管轄下にあった諸城が全て曹操に服しましたが、楽安太守管統だけは降りませんでした。
曹操は王脩に命じて管統の首を取らせます。
しかし王脩は管統を亡国の忠臣とみなし、縛っていた縄を解いて(管統は既に捕えられていましたが、投降しなかったため、曹操が王脩に処刑するように命じたようです)曹操を訪ねに行かせました。
悦んだ曹操は管統を釈放し、王脩を招いて司空掾にしました。
 
郭嘉曹操を説得し、青并州の名士を多数招聘して掾属にすることで人心を帰附させるべきだと勧めました。
曹操はこれに従います。
官渡の戦いの際、袁紹が陳琳に檄書を作らせ、曹操の罪悪を数え上げて譴責しました。その内容は家世(先代)に連なり、極めて醜く罵っていました(極其醜詆)
袁氏が敗れてから、陳琳が曹操に帰順しました。
曹操が言いました「卿は昔、本初袁紹の字)のために書を移したが(檄文を発したが)、孤身(我が身)の罪だけを宣布すればよいのに、なぜ上は父祖にまで及んだのだ(但可罪状孤身,何乃上及父祖邪)。」
 
資治通鑑』胡三省注が陳琳による檄文の大略を書いています「曹操の祖父騰は左、徐璜と並んで妖孽(禍害。姦邪なこと)を為し、貪婪かつ横暴饕餮放横)で、教化を損なって人を害した(傷化害人)。父嵩は攜養(宦官が養子を取ること)を乞い求め(乞攜養)、それによって貪汚して官位を買い(因臧買位)、鼎司重臣の地位)を盗み取った(竊盗鼎司)。操は姦悪な宦官が残した醜類であり(姦閹遺醜)、軽率狡猾で権勢に頼って人を虐げ(僄狡鋒侠)、乱を好んで禍を楽しんでいる(好乱楽禍)。」
また、曹操が賢人に対して残暴で、善人を害し、朝政を専制し、墳陵を発掘した罪等も譴責しました。
 
陳琳が曹操に謝罪すると、曹操は陳琳を赦して陳留の人阮瑀と共に記室を管理させました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の公府には記室令史がおり、上章(上奏文)表報(報告書)書記(書籍)を主管しました。
 
曹操冀州を平定してから令を下してこう言いました「袁氏と悪を同じくした者も、これと共に更始する(袁氏と共に悪を行った者も、これからを新たな開始とする。原文「其與袁氏同悪者,與之更始」)。」
曹操は令を発して民が私的な讎に報復できないようにし、厚葬も禁止して、全て法によって統一しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、漁陽の人王松が涿郡を占拠しました。
この頃、郡の人劉放が王松を説得し、その地を挙げて曹操に帰順させました。
曹操は劉放を招いて司空曹操の軍事に参画させました(参司空軍事)
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
袁熙がその将焦觸と張南(『資治通鑑』では「将焦觸、張南」、『三国志武帝紀』では「大将焦觸、張南等」です。ここは『資治通鑑』に従いました)に攻撃されたため、袁尚と共に遼西烏桓(『資治通鑑』では「遼西烏桓」、『三国志武帝紀』では「三郡烏丸」です。ここも『資治通鑑』に従いました)に奔りました。
資治通鑑』胡三省注によると、遼西烏桓の主は蹋頓です。
 
焦觸が自ら幽州刺史を号しました。諸郡の太守や令長を駆率(駆使統率)し、袁氏に背いて曹氏に向かわせます。数万の兵を並べてから、白馬を殺して盟を結び、令を下して「敢えて違える者は斬る(敢違者斬)!」と言いました。
衆人で焦觸を仰視できる者はなく、それぞれが順に歃血をしました(原文「各以次歃」。「歃血」は犠牲の血をすするか顔に塗ることで、盟を結ぶ儀式です)
別駕代郡の人韓珩が言いました「吾(私)は袁公父子の厚恩を受けてきたが、今、それが破亡し、智は救うことができず、勇は死ぬことができなかった。義において欠けている(於義闕矣)。もしも曹氏に北面するとしたら(曹氏に仕えるとしたら)、それは為せないことだ(若乃北面曹氏所不能為也)。」
その場にいた人々は韓珩のために色を失いました。
しかし焦觸はこう言いました「大事を挙げる時は、大義を立てなければならない(夫挙大事当立大義。また、事の済否は一人を待つのではない(成功するか失敗するかは一人によって決まるのではない。原文「事之済否不待一人」)。韓珩の志を卒することで(成就させることで)、主君に仕えることの励みとできる(可卒珩志以厲事君)。」
焦觸は韓珩を自由にさせました。
 
こうして焦觸等がその県を挙げて曹操に投降しました。皆、列侯に封じられます。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』からです。
曹操袁譚を討伐したばかりの時、椎冰(氷を砕く作業)から逃げる民がいました。
三国志武帝紀』裴松之注によると、袁譚を討伐した時は川渠の水が凍っていたため、民に氷を砕かせて船を通しました。しかし民はこの労役を嫌って逃亡しました。
 
曹操は令を下して逃走した民が投降できないないようにしました(令不得降)
暫くして、逃亡した民で門を訪ねて自首した者がいました。
曹操が言いました「汝を赦したら令に違え、汝を殺したら自首した者を誅すことになってしまう(聴汝則違令,殺汝則誅首)。深く(遠く)に帰って自分の身を隠し、官吏に捕まらないようにせよ(帰深自藏無為吏所獲)。」
民は涙を流して去りました。
しかし後には結局全て逮捕されてしまいました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、黒山賊の帥張燕がその衆十余万を率いて降りました。
(朝廷は)張燕を安国亭侯に封じました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
故安(地名)の人趙犢、霍奴等が幽州刺史および涿郡太守を殺しました。
また、三郡の烏桓(烏丸)が獷平(県名)で鮮于輔を攻撃しました。
資治通鑑』胡三省注によると、三郡烏桓は遼西の蹋頓、遼東の蘇僕延、右北平の烏延を指します。
 
秋八月、曹操が趙犢等を討って斬りました。
その後、潞水(『資治通鑑』では「潞水」、『三国志武帝紀』では「潞河」です。ここは『資治通鑑』に従いました)を渡って獷平を救います。
烏桓は走って塞外に出ました。
 
 
 
次回に続きます。