東漢時代403 献帝(八十五) 杜畿 205年(2)
九月、百官で特に貧しい者にそれぞれ差をつけて金帛を下賜しました。
曹操が令を下しました「互いにかばい合って徒党を組むのは、先聖が嫌ったことだ(阿党比周,先聖所疾也)。聞くところによると、冀州の俗は父子が部(派閥。門派)を異ならせ、互いに毀誉(誹謗や称賛)するという。昔、直不疑には兄がいなかったのに、世人は(直不疑が)嫂を盗んだと言った(西漢景帝後元年・前143年参照)。第五伯魚(第五倫)は三回孤女(父がいない女性)を娶ったが、妻の父を打った(撾婦翁)と言われた(東漢光武帝中元元年・56年参照)。王鳳は擅権(専権)したが、谷永がこれを申伯と比した(西漢成帝建始四年・前29年参照)。王商は忠議したが(忠誠による議論をしたが)、張匡がこれを左道(邪道)と言った(成帝河平四年・前25年参照)。これらは皆、白を黒と為し、天を欺いて君を騙すことである(欺天罔君)。吾(私)は風俗を整斉しようと欲しており、この四者が除かれないことを羞じとする(四者不除吾以為羞)。」
冬十月、曹操が鄴に還りました。
『三国志・武帝紀』はここで「高幹は還って壺関城を守った」と書いていますが、『資治通鑑』はこの一文を省略しています。上の文で「高幹は壺関口を守った」と書いており、ここでは「壺関城に還った」と書いているので、壺関口と壺関城は離れていたと考えられます。あるいは、『資治通鑑』は「壺関口に壺関城があった」と考え、『三国志・武帝紀』の一文を誤記と判断して省略したのかもしれません。
本文に戻ります。
河内の人・張晟は衆が一万余人おり、崤・澠の間(崤山・澠池一帯)を侵しました。
弘農の人・張琰が兵を起こして張晟に応じました。
この頃、河東太守・王邑が朝廷に召されました。
しかし鐘繇は同意しません。
衛固等は外見は王邑を留めることを名(朝廷に従わない理由)としましたが、内実は高幹と通謀していました(『三国志・魏書十三・鍾繇華歆王朗伝』裴松之注によると、王邑自身も天下が定まっていないため、心中では朝廷の招きを顧みませんでした)。
曹操が荀彧に言いました「関西諸将は、外見は服しているが、内実は二心がある(外服内貳)。張晟は殽・澠を寇乱して南は劉表に通じており、衛固等はこれに乗じて深い害を為そうとしている(固等因之将為深害)。当今の河東は天下の要地だ(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。高幹は并州を拠点にしており、馬騰、韓遂等は関中を拠点にしていたため、双方が交わる場合は使者が全て河東を通りました。そのため要地とされました)。君は我がために賢才を挙げてこれを鎮めよ。」
曹操は杜畿を河東太守にしました。
王邑は印綬を佩し、直接、河北から許を訪ねて自ら朝廷に帰順しました。
杜畿が至って数カ月経ちましたが、渡河できません。
夏侯惇が来る前に杜畿が言いました「河東には三万戸があり、皆が乱を為そうと欲しているのではない。今、兵がこれに激しく迫ったら(今兵迫之急)、善を為そうとしている者も主がいないため、必ず懼れて衛固に従ってしまうだろう(聴於固)。衛固等の勢が専らになったら(恐らく「勢力が一つになったら」という意味だと思います。原文「固等勢専」)、これを討って勝てなければ(彼等が)難を為して止むことがなくなり(為難未已)、これを討って勝てたとしても一郡の民を害すことになる(是残一郡之民也)。そもそも衛固等はまだ明らかに王命を絶ったのではなく、外は故君(王邑)を請うことを名(名義)としているので、新君(杜畿自身)を害すはずがない(必不害新君)。吾(私)は単車で直接行ってその不意に出よう。衛固の為人は、計は多くても決断力が無いので(多計而無断)、必ず偽って吾(私)を受け入れる。吾(私)が郡に一月住むことができれば、計によってこれを制御するに足りる(以計縻之足矣)。」
杜畿は詭道(間道)を選んで郖津から渡河しました。
范先は杜畿を殺して衆人に威を示そうと欲しましたが、とりあえず杜畿の去就を観察することにしました。まず、門下で主簿以下三十余人を惨殺します。
しかし杜畿の挙動は普段と変わらず平然としていました。
そこで衛固が言いました「これを殺しても(杜畿には)損なうことがなく、(我々が)徒に悪名を招くだけだ。それに、彼は我々に制されている(且制之在我)。」
衛固等は杜畿を奉じて河東太守にしました。
杜畿が衛固と范先に言いました「衛氏、范氏は河東の望であり、吾(私)はそれに頼って功を成すしかない(吾仰成而已)。しかし君臣には定義がある。成敗(成功と失敗。福と禍)はこれを同じくし、大事は共に平議(評議。議論)するべきだ。」
杜畿は衛固を都督・行丞事・領功曹に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、都督は兵を掌握し、丞は太守に次ぐ地位です。功曹は部下の功労を査定して人事を行います。郡権を全て衛固に与えたことになります。
范先には将校吏兵三千余人を全て監督させました。
衛固等はこれに喜び、表面上は杜畿に仕えましたが、(内心は杜畿を)意と為しませんでした(杜畿を軽んじて無視しました。原文「不以為意」)。
衛固が大いに兵を徴兵しようとしました。
杜畿はこれを患いて衛固を説得しました「今、大いに兵を発したら、人心が必ず動揺する(衆情必擾)。ゆっくりと貲(財貨。賃金)によって募兵した方がいい。」
衛固はこれに納得して従いました。その結果、甚だ少ない兵しか得られませんでした。
杜畿がまた衛固等を諭して言いました「人の情とは家を顧みるものなので、諸将掾史を分けて休息に遣わすべきだ(順に還って休息させるべきだ)。急緩(危急)があってからこれを召しても問題ない(急緩召之不難)。」
衛固等は衆心に逆らうのを嫌ってこの言にも従いました。
こうして善人が外で秘かに杜畿を援け、悪人は分散されてそれぞれ家に還るようになりました。
ちょうど白騎が東垣を攻めました。
高幹も濩沢に入りました。
杜畿は諸県が既に自分に附いていると判断し、郡城を出ました。単身で数十騎を率い、堅壁(堅固な塁壁)に入って守りを固めます。
衛固等は高幹、張晟と共に杜畿を攻めましたが、攻略できず、諸県を略(略奪)しても得る物がありませんでした。
衛固、張琰等は首を斬られましたが、残りの党与は全て赦されました。
こうして杜畿が河東を治めることになりました。
杜畿は務めて寛恵を重視し、民に辞訟(訴訟)があったら義理を述べ、帰って深く考えさせました。
父老が皆、互いに自分(の子弟)を厳しく譴責したため、敢えて訴訟する者がいなくなります(父老皆自相責怒,不敢訟)。
その後、学校を興し、孝弟(孝悌)の者を挙げ、戎事(軍事)を修め、武備を講じました。河東がついに安定します。
杜畿が河東にいた十六年は常に天下で最も優れていました(常為天下最)。
[十一] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。
孫権が賀斉を派遣して上饒を討たせ、(上饒を)分けて建平県を置きました。
祕書監(秘書監)・侍中・荀悦が『申鑒』五篇を作って上奏しました。
『申鑒』の内容は別の場所で紹介します。
東漢時代 『申鑒』
次回に続きます。