東漢時代404 献帝(八十六) 并州平定 206年(1)

今回は東漢献帝建安十一年です。二回に分けます。
 
東漢献帝建安十一年
丙戌 206
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、孛星(異星。彗星の一種)が北斗に現れました。
 
資治通鑑』胡三省注が北斗七星の説明をしています。北斗七星は太微の北にあり、一つ目の星を天枢、二つ目を璇、三つ目を璣、四つ目を権、五つ目を玉衡、六つ目を開陽、七つ目を搖光といいます。一つ目から四つ目が魁(頭部)、五つ目から七つ目が杓です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
曹操が自ら兵を率いて高幹を撃ちました。世子曹丕を留めて鄴を守らせ、別駕従事崔琰に曹丕を輔佐させます。
曹操は壺関を包囲しました。
 
三月、壺関が降りました。
高幹は自ら匈奴に入って救援を求めましたが、単于が受け入れなかったため、わずか数騎と共に逃亡し、南の荊州劉表に奔ろうとしました。
しかし上洛都尉王琰が高幹を捕えて斬りました。
資治通鑑』胡三省注によると、上洛県は、西漢時代は弘農に属しましたが、東漢になって京兆に属しました。県の西北に嶢関があったため都尉(軍事の長)が置かれました。
 
後漢書孝献帝紀』は「曹操并州で高幹を破り、これを獲た」と書いています。この「獲」は「首を獲る」という意味だと思います。
 
上述の通り、『資治通鑑』では三月に壺関が降ってから高幹が匈奴に救援を求めていますが、『三国志魏書一武帝紀』は若干異なり、こう書いています「春正月、公曹操が高幹を討征した。高幹はそれを聞くと、別将を留めて城を守らせ、走って匈奴に入り、単于に救援を求めた。しかし単于は受け入れなかった。公曹操が壺関を包囲し、三カ月で攻略した(公囲壺関三月抜之)。高幹はついに荊州に走ったが、上洛都尉王琰が捕えて斬った。」
三国志魏書六董二袁劉伝』にも「太祖曹操が高幹を征討した。高幹はその将夏昭、鄧升を留めて城を守らせ、自ら匈奴単于を訪ねて救援を求めたが、得られなかった。数騎のみと逃亡し、南の荊州に奔ろうと欲したが、上洛都尉が捕えて斬った」とあります。この記述では壺関がいつ陥落したか分かりませんが、高幹が匈奴に救援を求めたのは、壺関が陥落する前だったことは間違いないようです。
 
三国志董二袁劉伝』裴松之注によると、王琰は高幹を獲た功によって封侯されました。しかし王琰の妻は室(部屋)で泣きました。王琰が富貴になったため、改めて妾媵(妾)を娶って自分に対する愛が奪われることになると思ったからです。
 
資治通鑑』に戻ります。
こうして并州が全て平定されました。

曹操が陳郡の人梁習に別部司馬の官位のまま并州刺史を兼任させました(以別部司馬領并州刺史)
当時は荒乱が残っており、胡狄が雄張(勢力を拡大して旺盛なこと)して、亡叛(離反逃亡)した吏民がその部落に入っていました(『資治通鑑』胡三省注によると、南匈奴の部落は全て并州界内にいました)
また、兵家(豪族等の武装勢力が衆を擁してそれぞれ寇害を為していました。
梁習は官に就くと彼等を誘ったり諭して帰順させました(誘喩招納)。全て礼を用いて豪右(豪族)を招き、少しずつ薦挙して幕府に到らせます。
豪右が全て尽きると(原文「豪右已尽」。豪族を全て懐柔して官府で職に就かせたのだと思います)、次は諸丁(青壮年)を強制的に徴発して義従(義によって従軍する兵)にしました。また、大軍が出征する時を利用して、義従を勇力(勇士)にすることを諸将からそれぞれ請わせました(義従を諸将の下に配属させました。原文「令諸将分請以為勇力」)
こうして吏兵(吏は豪右、兵は諸丁です)が去ってから、少しずつ彼等の家を移し、前後して鄴に送りました。その数は数万口に上ります。
命に従わない者は兵を興して討伐しました。千人以上が斬首され(斬首千数)、降って帰順した者は万を数えます。
 
この後、単于が恭順になり、名王(『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴諸部の王です)も稽顙(跪いて額を地につける礼)して編戸(戸籍に登録された民)と同じように服事供職服従して命に従うこと。職責や義務を全うすること)しました。辺境が粛清され、百姓が田野に分散します。
そこで梁習は自ら農桑(農業)に勤めて人々に奨励しました(勤勧農桑)
人々は政府が命じれば実行し、禁じれば止めるようになります(令行禁止)
長老が梁習を称詠(称賛)し、自分が聞き知っている刺史の中で梁習のような者はいなかったと評価しました。
 
梁習は乱を避けて并州界内に来ていた名士を推挙し、朝廷に送りました(貢達名士)。当時は河内の人常林、楊俊、王象、荀緯および太原の人王凌といった人物がおり、曹操は彼等を全て用いて県長にしました。皆、後には世に名が知られるようになります。
 
以前、山陽の人仲長統(仲長が氏です)が遊学して并州に至り、高幹を訪ねました。
高幹が仲長統を善遇して世事について訊ねると、仲長統はこう言いました「君(あなた)は雄志がありますが雄材(雄才)がありません。士を好んでいますが人を択ぶことができません。これらを君(あなた)の深い戒めとするべきです(所以為君深戒也)。」
高幹は元から自分に自信を持っていたため(雅自多)、仲長統の言を聞いて不快になりました。
仲長統は高幹のもとを去りました。
高幹が死んでから、荀彧が仲長統を推挙して尚書郎にしました。
 
仲長統には『昌言』という著論があり、治乱について述べています。別の場所で紹介します。

東漢時代 昌言


[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、武威太守張猛が雍州刺史邯鄲商献帝興平元年194年参照)を殺しましたが、州兵が張猛を討って誅殺しました。
張猛は張奐の子です。
 
孝献帝紀』の注によると、袁宏の『後漢紀』は「雍州」を「涼州」としていますが、「雍州」が正しいはずです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月、曹操が東に向かって海賊管承を征討し、淳于に至りました。
資治通鑑』胡三省注によると、淳于県は北海国に属します。
 
曹操はそこから将楽進、李典を派遣して撃破しました。
管承は逃走して海島に入ります。
 
三国志魏書十二崔毛徐何邢鮑司馬伝』によると、曹操に召されて掾になった何夔献帝建安二年197年および建安五年200年参照)は、後に朝廷を出て城父令になり、更に長広太守に遷りました。当時の長広は黄巾がまだ平定されておらず、豪傑(豪族)の多くも背叛しており、袁譚が官位を与えていました。
長広県の人管承も徒衆三千余家を擁して寇害を為していました。議者は兵を挙げて管承を攻撃しようと欲しましたが、何夔は郡丞黄珍を派遣して成敗を説かせました。その結果、管承等は皆、帰服を請いました。
この出来事がいつあったのかはわかりません。管承は何夔に投降したものの、再び叛したため、本年、楽進等に討伐されたようです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
昌豨がまた叛したため、曹操于禁を派遣し、討伐して斬りました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』からです。
東海の襄賁、郯、戚を割いて琅邪を拡大し、昌慮郡を除きました(昌慮郡は建安三年198年に置かれました)
 
 
 
次回に続きます。