東漢時代405 献帝(八十七) 八王廃国 206年(2)

今回は東漢献帝建安十一年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』裴松之注からです。
十月乙亥、曹操が令を発しました「世を治めて衆を御し、輔弼を建立する時(補佐の大臣を選ぶ時)、誡めは面従にある(面従している者に注意するべきだ。原文「誡在面従」)。『詩(大雅)』はこう称している『我が謀を聴いて用いれば、大きく悔いることはないだろう(聴用我謀,庶無大悔)。』これは実に君臣の懇懇の求(心底から求めること)である。吾()は重任に充てられ、いつも中(中庸)を失うことを懼れているが、頻年(数年)以来、嘉謀(優れた計謀)を聞いていない。吾()の開延(広く人材を求めること)が不勤なことの咎であろうか(私が広く人材を求めることに熱心ではないからだろうか。原文「豈吾開延不勤之咎邪」)。今から後は、諸掾属である治中・別駕は常に月旦(毎月一日)においてそれぞれ失を述べよ。吾()がそれを閲覧する(原文「常以月旦各言其失,吾将覧焉」。「各言其失」は「諸掾属に自分の過失を述べさせた」ともとれますが、個人の過失ではなく、政治の欠点を述べさせたのだと思います)。」
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、元琅邪王劉容の子劉熙を改めて琅邪王に立てました。
また、斉、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、済北(『資治通鑑』は「済陰」としていますが誤りです。『後漢書孝献帝紀』では「済北」です。下述します)、平原の八国を除きました。

以下、『資治通鑑』胡三省注を元に簡単に解説します。
琅邪王は光武帝の子劉京(孝王)の家系で、劉容の諡号は順王です霊帝中平二年185年および献帝初平四年193年参照)

献帝初平四年193年)に劉容が死に、国が途絶えました。
劉容は生前に弟の劉邈を長安に送って貢物を献上しました。献帝は劉邈を九江太守に任命し、陽都侯に封じます。この時、劉邈は東郡太守曹操が帝に対して忠誠であると盛んに称賛しました。そのため曹操は劉邈に感謝し、本年(建安十一年206年)、改めて劉容の子劉熙を琅邪王に立てました。

しかしその十一年後(建安二十一年216年)、劉熙が長江を渡ろうと謀ったため曹操支配下から逃れようとしたため)、罪を問われて誅殺され、国が廃されました。
 
斉は光武帝の兄劉縯(武王)が追封された国です。
質帝本初元年146年)に頃王劉喜が死んで、子の劉承が継ぎました。
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』は劉承が王位を継いでから「建安十一年(本年。206年)、国を除く」としか書いていません。劉承が廃されたのだとしたら、在位年数は約六十年に及びます。あるいはこれ以前に劉承が死んでおり、空位になっていたため、国が廃されたのかもしれません。
 
北海は劉縯の少子劉興(靖王)が封じられた国です。
最後の王は康王といい、順帝永和二年137年)に即位しました。名は伝わっていません。
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』には「後嗣がいなかったため、建安十一年(本年)に国が除かれた」とあります。即位から七十年近く経っているので、これ以前に康王が死んで空位になっており、今回、正式に国を廃されたのだと思われます。
 
阜陵は光武帝の子劉延(質王)が封じられた国です。
桓帝永康元年167年)に孝王劉統が死に、劉赦が即位しましたが、劉赦に後嗣がいなかったため、国が廃されました。
劉赦の在位年数もはっきりしません。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』の記述は「建安中薨(建安年間に死んだ)」だけです。恐らく本年よりも前に死んで空位になっていたため、他の国と一緒に正式に廃されたのだと思います。
 
下邳は明帝の子劉衍(恵王)が封じられた国です。
霊帝中平元年184年)に愍王劉意が死んで哀王劉宜が継ぎましたが、劉宜は在位数カ月で死に、子がいなかったため空位になっていました。
そこで本年正式に国が廃されました。
 
常山は明帝の子劉昞(頃王)が封じられた国です。
桓帝元嘉二年152年)に節王劉豹が死んで劉暠が継ぎました。
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、在位三十二年で黄巾賊に遭遇し、国を棄てて逃走しました。その後のことは書かれていません。
本年、正式に国が廃されました。
 
甘陵は章帝の子清河孝王劉慶の後を継がせるために、劉理が封じられた国です。劉理は安平孝王劉得の子で、劉得は河間孝王劉開の子、劉開は章帝の子です桓帝建和二年148年参照)
霊帝熹平五年176年)に貞王劉定が死んで献王劉忠が継ぎました。
劉忠は黄巾賊が挙兵した時、国人に捕えられましたが、暫くして釈放されました。
その後、在位十三年で死に、後嗣が黄巾に害されていたため空位になりました霊帝中平六年189年)
本年、正式に国が廃されました。
 
済北は章帝の子劉寿(恵王)が封じられた国です。
桓帝延熹五年162年)に孝王劉次が死に、子の劉鸞が継ぎました。
劉鸞の死後はその子劉政が継ぎ、劉政の死後、子がいなかったため、本年、国を廃されました。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』には、劉鸞と劉政の諡号、在位年数とも書かれていないため、劉政がいつ死んだのかもわかりません。
 
資治通鑑』は「済北」ではなく「済陰」としています。済陰は明帝の子劉長(悼王)が封じられた国です。
劉長は章帝元和元年84年)に死に、子がいなかったため国が廃されました。よって、『資治通鑑』が「済陰」としているのは誤りです。
 
平原は和帝の子劉勝(懐王)が封じられましたが(殤帝延平元年106年)、子がいなかったため、楽安夷王劉寵の子劉得(哀王)が平原王に封じられました。劉寵は千乗貞王劉伉の子で、劉伉は章帝の子です(安帝永初七年113年参照)
ところが劉得の死後も子がいなかったため(安帝元初六年119年)、河間孝王劉開の子劉翼が平原王に立てられました。劉開は章帝の子です。
後に劉翼は王位を廃されて蠡吾侯に落とされましたが、その子劉志が桓帝になったため、桓帝の弟劉碩が再び平原王に封じられて劉翼の後を継ぎました桓帝建和二年148年)
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉碩は酒が好きで、過失が多かったため、桓帝は馬貴人(父劉翼の夫人。桓帝の実母ではありません)に平原王家の事を担当させました。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』は「建安十一年(本年。206年)、国を除く」と書いています。劉碩が廃されたのだとしたら、在位年数が六十年近くになります。あるいはこれ以前に死んで空位になっていたのかもしれません。
 
資治通鑑』胡三省注は「八国を除いたのは、徐々に漢宗室を弱くするためだ(除八国者,漸以弱漢宗室也)」と書いています。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三郡烏桓が天下の混乱に乗じて幽州を破り、漢民十余万戸を奪いました。
かつて袁紹は酋豪(各部族の長)を全て単于に立て、家人(平民)の子を自分の娘にして単于に嫁がせました。
遼西烏桓の蹋頓(『資治通鑑』では遼西烏桓・蹋頓」、『三国志武帝紀』では「遼西単于蹋頓」です)は特に強かったので、袁紹に厚遇されました。
そのため、曹操に破れた袁尚兄弟は蹋頓に帰しました。
蹋頓は袁尚が故地を回復するのを助けようと欲し、しばしば塞に入って辺境を侵しました。
 
曹操烏桓を撃とうとして渠(水路)を掘りました。呼沲から泒水に水を入れて平虜渠と名付け、河口から潞河に水を入れて泉州渠と名付け、海に通じさせます。こうして物資の輸送ができるようにしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
山賊が拠点とする麻屯と保屯(山賊麻保二屯)を孫権が攻撃して平定しました。
 
 
 
次回に続きます。