東漢時代 昌言

東漢献帝建安十一年206年)に仲長統が登場しました。

東漢時代404 献帝(八十六) 并州平定 206年(1)


仲長統には『昌言』という著論があり、治乱について述べています。『資治通鑑』胡三省注によると、「昌」は「当」の意味で、「昌言」は「当理の言(理にかなっている言)」を意味します。
 
以下、『資治通鑑』を元に大略を書きます。
「豪傑の中で天命に当たる者は、始めから天下の分(天下を統治する名分)があるのではない(未始有天下之分者也)。天下の分がないから、戦い争う者が競って起つのである。智を競う者が皆窮し力を競う者が皆負けて(角智者皆窮,角力者皆負)(彼等の)形が再び対抗するに堪えなくなり、勢いが再び較べるに足らなくなってから(敵対する者の形勢がこれ以上対抗できない状態になってから。原文「形不堪復伉,勢不足復校」)、始めて首をつかんで頸を繋がれ(羈首係頸)、我が銜紲(轡や手綱)に就くのである。

継体の時(統治者の後継者が継ぐ時)に及んだら、豪傑の心(野心)は既に絶たれており、士民の志が既に定まっているので、富貴には常家があり(富貴の家は固定しており。原文「貴有常家」)、尊貴は一人の身にある(尊在一人)。その時には、下愚の才が(帝位に)居たとしても、なお恩を天地と同じくして威を鬼神と等しくすることができ、(既に天下が安定しているので)(周公や孔子が数千いても再びその聖を較べることはなく、賁(孟賁や夏育。古代の勇士です)が百万いてもその勇を奮うことはない。

その後を嗣いだ愚主は(彼後嗣之愚主)、天下において敢えて(自分に)違える(逆らう)者がいないのを見て、天地が亡びないのと同じだと思う(自分の地位は天地が亡びないのと同じように安泰だと思ってしまう)。そこで個人の嗜好を追及し(奔其私嗜)、邪欲をほしいままにし(騁其邪欲)、君臣が公然と放縦して(君臣宣淫)、上下が悪を同じくし、諸政務を荒廃させて(荒廃庶政)、人材を忘れ去ることになる(棄忘人物)。信任親愛する者は全て佞諂容説(「容説」は「容悦」とも書きます。「佞諂」「容説」とも媚び諂うこと、阿諛追従することです)の人であり、寵貴隆豊(「隆豊」は富貴の意味です)の者は全て后妃姫妾の家(家族)である。こうして天下の脂膏を熬て(煮て)生民の骨髓を斬るまでに至り、(民衆は)怨恨しても頼る所が無く(怨毒無聊)、禍乱が並び起き、中国が擾攘(騒乱)し、四夷が侵叛し、土崩瓦解して、一朝にして(天命・国運が)去ってしまう。昔は私(帝王)によって哺乳された子や孫(天子の子や孫。庶民)が、今は全て私(帝王)にとって血を飲む寇讎となるのである(昔之為我哺乳之子孫者,今尽是我飲血之寇讎也)。運が移って形勢が去るに至っても、まだ覚悟(覚醒)できないのは、富貴が不仁を生み、沈溺(物事に溺れること。ここでは際限なく放縦なことだと思います)が愚疾(愚昧劣悪)をもたらしたからではないか(至於運徙勢去,猶不覚悟者,豈非富貴生不仁,沈溺致愚疾邪)
存亡はこうして迭代(交替)し、治乱はこれに従って周復(循環)するのが、天道常然(天道の常態。自然の性)による大数(命運。大局)である。」