東漢時代406 献帝(八十八) 烏桓遠征(前) 207年(1)

今回は東漢献帝建安十二年です。三回に分けます。
 
東漢献帝建安十二年
丁亥 207
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、曹操が淳于から鄴に還りました。
 
丁酉(初五日)曹操が功臣を封侯するように上奏し、令を発しました「吾(私)が義兵を起こし、暴乱を誅して、今で十九年になる。征するところで必ず克ったが、吾(私)の功であろうか(豈吾功哉)。これは賢士大夫の力である。天下はまだことごとく平定されたわけではないが、吾(私)は賢士大夫と共にこれを平定するだろう。それなのにその労(功労、功績)を一人で享受して、吾(私)はどうして安んじていられるだろうか(専饗其労吾何以安焉)。よって急いで功を定めて封(封侯、封賞)を行え。」
 
三国志武帝紀』裴松之注は曹操の別の令も載せています「昔、趙奢や竇嬰が将になった時、千金を受賜したが、一朝でこれを散じた(千金を下賜されたが一朝で使い果たした)。だから大功を済成(成就、完成)させ、永世に声(名声)を流す(伝える)ことができたのだ。吾(私)はこの文(故事)を読み、その為人を慕わないことがなかった。(私は)諸将士大夫と共に戎事(戦事)に従い、幸いにも賢人がその謀を惜しむことなく(賢人不愛其謀)、群士がその力を残さなかったおかげで(幸賴賢人不愛其謀,群士不遺其力)、険を除いて乱を平らげることができた(夷険平乱)。こうして吾(私)は大賞を盗み取り(竊大賞)、戸邑が三万になったのである。竇嬰の散金の義(千金を使い果たした義挙)を追思し(思い起こし)、今、受領している租を分けて諸将掾属およびかつて陳蔡を守っていた者(故戍於陳蔡者)に与えよう。皆の労に報いて大恵を独占しないないようにしたい(庶以疇答衆労不擅大恵也)。国事によって死んだ者の孤児は区別して租穀を及ぼせ(宜差死事之孤以租穀及之)。もし収穫が豊富で用度が足り(年殷用足)、租奉(俸禄にするための租税)が全て入ったら、大いに衆人とことごとく享受しよう(将大與衆人悉共饗之)。」
 
こうして大功臣二十余人を封侯し(『三国志武帝紀』では「大封功臣二十余人(功臣二十余人を大いに封侯した)」ですが、ここは『資治通鑑』の「封大功臣二十余人(大功臣二十余人を封侯した)」に従いました)、皆、列侯にしました。
その他の者も序列に応じて封(封爵封賞)を受けます。
また、国事のために死んだ者の孤児は賦税を免除し(復死事之孤)、軽重(恐らく賞賜の軽重。あるいは免除する賦税の期間や額かもしれません)にはそれぞれ差がありました。
 
曹操はこれを機に万歳亭侯荀彧の功状(功労を述べた文書)を上表しました。
 
三月、荀彧に千戸を加封しました。
また、曹操は荀彧に三公の職を加えようと欲しました。しかし荀彧が荀攸を送って自身の謙譲の意思を深く述べ(深自陳譲)、それが十数回に及んだため、曹操はあきらめました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』本文および裴松之注と『資治通鑑』からです。
曹操が北上して三郡烏桓を征討しようとしました。
諸将が皆こう言いました「袁尚は亡虜(逃亡者)に過ぎません。夷狄は貪婪で親しむことを知らないので(貪而無親)、どうして袁尚の役に立つでしょう(豈能為尚用)。今、深入りしてこれを征したら、劉備が必ず劉表に許を襲うように説きます。万一変を為したら、事を悔いることができません(万一変事が起きたら、後悔しても手遅れになります。原文「万一為変,事不可悔」)。」
しかし郭嘉だけは劉表劉備を信任できないと判断し、こう言いました「公は威が天下を震わせていますが、胡はその遠に恃み(遠いことに安心しており)、必ず備えを設けていません。その無備に乗じて突然これを撃てば(『資治通鑑』は「卒破撃之」ですが、『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』では「卒然撃之」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです。「卒然」は「突然」の意味です)、破滅することができます。そもそも、袁紹は民夷に対して恩があり、しかも袁尚兄弟が生存しています。今、四州(冀并)の民は威(畏れ)によって附いているだけで、徳の施しがまだ加えられていません。もしこれを捨てて南征したら、袁尚烏桓の資(資本。資金)を利用して死主の臣(主のために命を懸ける臣)を招き、胡人が一動したら民夷が共に応じ、それによって蹋頓の心(この「蹋頓」は遼西烏桓の蹋頓ではなく、「転倒」「転覆」の意味だと思います)を生み、覬覦の計(分を越えたことを望む計)を成し、恐らく青冀が我々のものではなくなってしまいます(恐青冀非己之有也)劉表は坐談客(坐して談論する者)に過ぎず、自らその才が劉備を御すに足りないことを知っており、劉備を)重任したら制御できなくなることを恐れますが、(逆に)軽任したら劉備劉表の)役に立たなくなります(自知才不足以御備,重任之則恐不能制,軽任之則備不為用)。たとえ国を虚ろにして(空にして)遠征しても、公に憂いはありません(公無憂矣)。」
曹操はこの意見に従いました。
 
曹操が行軍して易に至った時、郭嘉が言いました「兵は神速を貴びます。今、千里を進んで人を襲おうとしていますが(千里襲人)、輜重が多かったら利を求めるのが困難になり(難以趨利)、しかも彼等がそれを聞いたら必ず備えを為します。輜重を留め、軽兵で兼行して(敵前に)出て、その不意を襲うべきです(不如留輜重,軽兵兼道以出,掩其不意)。」

夏五月、曹操軍が無終に至りました。

以前、袁紹がしばしば使者を無終に派遣して田疇献帝初平四年193年参照)を招きました。また、田疇に現地で将軍印を授け、田疇が統率している部衆を安定させようとしました。
しかし田疇はどちらも拒否しました。
曹操冀州を平定してから、河間の人邢顒が田疇に言いました「黄巾が起きてから二十余年が経ち、海内が鼎沸(鼎が沸騰するように混乱すること)して百姓が流離しています。今、曹公は法令が厳しいと聞きました。民は乱を嫌厭しており(民厭亂矣)、乱が極まったら平(太平)になります。この身をもって率先することを請います(私が率先して曹操に仕えることを請います。原文「請以身先」)。」
 
三国志魏書十二崔毛徐何邢鮑司馬伝』によると、邢顒はかつて孝廉に挙げられて司徒に招聘されましたが、どちらにも応じず、姓字(姓名)を変えて右北平に行き、田疇に従って仕官せずに暮らしていました(従田疇游)。それから五年後に曹操冀州を平定しました。
 
本文に戻ります。
邢顒は荷物をまとめて故郷に還りました。
田疇が言いました「邢顒は天民(天が生んだ民。人民)の先覚者だ。」
 
曹操は刑顒を冀州従事にしました。
 
田疇は烏桓が本郡の冠蓋(官員、名士)を多数殺したことに怨怒しており、心中で討伐したいと思っていましたが、力が足りませんでした。
曹操が使者を送って田疇を招くと、田疇は門下の者に命じ、急いで出発の準備をさせました。
門人が言いました「昔、袁公が君(あなた)を慕い、礼命(礼を用いた招聘や任命)が五回も至ったのに、君(あなた)の義(節)は屈しませんでした(君義不屈)。しかし今、曹公の使者が一度来ただけなのに、君(あなた)は遅れることを恐れているようです。それは何故ですか(君若恐弗及者,何也)。」
田疇は笑って「これは君が識るところではない(君にわかることではない。原文「此非君所識也」)」と言い、使者に従って曹操の軍営に至りました。
 
田疇は令に任命され(『資治通鑑』胡三省注によると、県は西漢時代は信都に属しましたが、東漢になって勃海に属しました)、軍に従って無終に駐留しました。

当時、ちょうど夏になり、雨が降りました(『三国志武帝紀』は「秋七月、大水のため海沿いの道が通れなくなった。田疇が郷導(道案内)になることを請い、公曹操はこれに従った」と書いていますが、ここは『資治通鑑』に従って「夏」としました。夏から秋にかけて長雨が降ったのだと思います)
浜海は低地になっており、泥が溜まって道が通れなくなります。しかも烏桓が蹊要(小路の要所)を遮って守りを固めたため、曹操軍は進めなくなりました。
 
これを患いた曹操は田疇に意見を求めました。
田疇が言いました「この道は、秋夏はいつも常に水があり、浅くても車馬が通れず、深くても舟船を通すことができず(深不載舟船)、難を為して久しくなります。旧北平郡治(治所)は平岡にあり、道が盧龍に出ていて柳城に達します(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢の右北平郡治は平岡県にありましたが、東漢になって平岡県を省き、治所を土垠県に遷しました)建武光武帝以来、(道が)陷壊断絶して二百年近く経ちますが(垂二百載)、まだ微逕(小道。または道の残り)があってそこをたどることができます(尚有微逕可従)。今、虜将は、(我々の)大軍が無終を出てから、進めなければ撤退する(大軍当由無終不得進而退)と思っているので、気を抜いて備えがありません(懈弛無備)。もし静かに軍を戻し(若嘿回軍)、盧龍口から白檀の険を越え、空虚の地に出れば、路が近いうえに便利で(路近而便)、その不備を襲えば、戦わずに蹋頓を擒にできます(掩其不備蹋頓可不戦而禽也)。」
曹操は「善し(善)」と言うと、軍を率いて還りました(海沿いの道を通るために東南に向かっていましたが、北に戻りました)
 
この時、水辺の道端に大木の表(標札)を立ててこう書きました(または「水辺の道端にある大木の表面にこう書きました」。原文「署大木表於水側路傍」)「今はちょうど夏の暑い時期で、道路が不通なので、とりあえず秋冬を待って再び進軍する(方今夏暑道路不通,且俟秋冬乃復進軍)。」
烏桓の候騎はこれを見て本当に大軍が去ったと思いました。
 
 
 
次回に続きます。