東漢時代407 献帝(八十九) 烏桓遠征(後) 207年(2)

今回は東漢献帝建安十二年の続きです。
 
[(続き)] 曹操が田疇に命じ、その衆を率いて郷導(道案内)させました。
まず徐無山に上り、軍を率いて盧龍塞を出ます(徐無山は田疇が衆人を率いて守った山で献帝初平四年193年参照)、盧龍塞は徐無の北にあります。無終から東南に向かった曹操軍は海沿いの道が通れなかったため、北上して徐無山を越え、盧龍塞を出ました)
塞外の道が絶えて通れなかったため、山を切り開いて谷を埋め(塹山堙谷)、五百余里を行軍しました。白檀を通り、平岡を経由し、鮮卑庭を渡り、東の柳城を目指します。
 
資治通鑑』胡三省注によると、徐無山は右北平徐無県西北にあり、白檀県も右北平郡に属しました。
当時の鮮卑庭も右北平郡界内にありました。慕容廆(後の鮮卑慕容部の長)の先人が治めていたはずです。
 
曹操軍が柳城から二百余里離れた地まで来た時(未至二百里、虜烏桓がやっとそれを知りました。
袁尚、袁熙と蹋頓および遼西単于・楼班(『資治通鑑』胡三省注によると、楼班は丘力居の子です)、右北平単于能臣抵之(胡三省注は「右北平単于は烏延という。能臣抵之は、あるいは烏延の異名であろうか」と書いています。しかし『三国志集解』は「右北平単于は烏延であり、能臣抵之ではない。能臣氐は代郡烏丸である。氐と抵は音が近い」と書いています。「右北平単于能臣抵之」は「代郡単于能臣氐」とするのが正しいようです)等が数万騎を率いて曹操軍を迎撃しました。
 
八月、曹操が白狼山に登りました。
そこで突然、烏桓に遭遇します。烏桓の兵衆が甚だ強盛なのに対して、曹操軍は車重(輜重。物資)が後ろにあり、甲冑を身に着けた者が少なかったため、左右の者が皆懼れました。
しかし曹操は高地に登って烏桓の陣が整っていないことを眺め見て、兵を放って攻撃しました。張遼を前鋒にします。
烏桓の衆は大崩壊し、蹋頓および名王以下の者が殺され、胡漢で投降した者は二十余万口に上りました。
 
後漢書孝献帝紀』は「秋八月、曹操烏桓を柳城で大破し、蹋頓を斬った」と書いており、注釈が「蹋頓は匈奴の王号」と書いていますが、蹋頓は烏桓王の名です。
 
本文に戻ります。
遼東単于速僕丸(蘇僕延)と遼西北平の諸豪(恐らく少数民族の有力者)はその種人(族人)を棄てて、袁尚、袁熙と共に遼東に奔り、太守公孫康を頼りました。その衆はまだ数千騎います。
当時、遼東太守公孫康は中原から遠く離れていることに頼って朝廷に服していませんでした。
 
ある人が曹操に「烏桓を破った機に乗じて)これ公孫康を征討すれば、袁尚兄弟を禽(虜)にできます」と言って追撃を勧めました。
しかし、曹操はこう言いました「吾()公孫康袁尚と袁熙を斬らせ、(その首を)送らせよう。兵を煩わせる必要はない(不煩兵矣)。」
 
九月、曹操が兵を率いて柳城から還りました。
 
公孫康袁尚と袁熙の首を取って功績にしようと欲したため、あらかじめ精勇を厩中に置いてから、袁尚と袁熙を招いて入室させました。
二人が席に着く前に、公孫康が伏兵に叱咤して捕えさせます。
こうして袁尚と袁熙を斬り、速僕丸等の首も斬って併せて朝廷に送りました。
 
後漢書孝献帝紀』は「十一月、遼東太守公孫康袁尚と袁熙を殺した」と書いています。『資治通鑑』は『三国志魏書武帝紀』に従って九月に書いています。
 
諸将のある者が曹操に問いました「公が還ったら公孫康袁尚と袁熙を斬りました。何故ですか(何也)?」
曹操が言いました「彼は元から袁尚、袁熙を畏れていた。私がこれを急攻したら力を合わせ、緩めたら互いに害し合う。これは形勢がそうさせたのだ(吾急之則并力,緩之則自相図,其勢然也)。」
 
曹操袁尚の首を曝し、三軍に「敢えて哭す者は斬る(敢有哭之者斬)!」と号令しました。
しかし牽招だけは祭祀を設けて悲哭します。『資治通鑑』胡三省注によると、牽招はかつて袁氏の従事になったため祭哭しました。
曹操は牽招の行為を義とみなし、推挙して茂才にしました。
 
当時の気候は寒冷で、しかも旱害に襲われたため、二百里にわたって水がなく、軍中で食糧が欠乏しました。馬数千頭を殺して食糧とし、地を三十余丈も掘ってやっと水を得ます。
 
曹操は帰還してから出征前に諫めた者を調べて氏名を書き並べました(科問前諫者)。衆人はその理由を知らず、皆、懼れを抱きます。
ところが曹操は彼等を全て厚く賞してこう言いました「孤(わし)の前の出征は烏桓討伐を指します。原文「孤前行」)、危険に乗じて幸運を求めたのであり(乗危以徼倖)、確かにこれを得ることができたが、それは天の助けがあったからだ(雖得之天所佐也)。振り返ってみると、これを常としてはならない(顧不可以爲常)。諸君の諫は万安の計である。だから(諸君を)賞すのだ(是以相賞)。今後、これを言うことを難とするな(今後も諫言を遠慮する必要はない。原文「後勿難言之」)。」
 
 
 
次回に続きます。