東漢時代407 献帝(八十九) 烏桓遠征(後) 207年(2)
まず徐無山に上り、軍を率いて盧龍塞を出ます(徐無山は田疇が衆人を率いて守った山で(献帝初平四年・193年参照)、盧龍塞は徐無の北にあります。無終から東南に向かった曹操軍は海沿いの道が通れなかったため、北上して徐無山を越え、盧龍塞を出ました)。
『資治通鑑』胡三省注によると、徐無山は右北平徐無県西北にあり、白檀県も右北平郡に属しました。
袁尚、袁熙と蹋頓および遼西単于・楼班(『資治通鑑』胡三省注によると、楼班は丘力居の子です)、右北平単于・能臣抵之(胡三省注は「右北平単于は烏延という。能臣抵之は、あるいは烏延の異名であろうか」と書いています。しかし『三国志集解』は「右北平単于は烏延であり、能臣抵之ではない。能臣氐は代郡烏丸である。氐と抵は音が近い」と書いています。「右北平単于・能臣抵之」は「代郡単于・能臣氐」とするのが正しいようです)等が数万騎を率いて曹操軍を迎撃しました。
八月、曹操が白狼山に登りました。
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九月、曹操が兵を率いて柳城から還りました。
二人が席に着く前に、公孫康が伏兵に叱咤して捕えさせます。
こうして袁尚と袁熙を斬り、速僕丸等の首も斬って併せて朝廷に送りました。
しかし牽招だけは祭祀を設けて悲哭します。『資治通鑑』胡三省注によると、牽招はかつて袁氏の従事になったため祭哭しました。
曹操は牽招の行為を義とみなし、推挙して茂才にしました。
ところが曹操は彼等を全て厚く賞してこう言いました「孤(わし)の前の出征は(烏桓討伐を指します。原文「孤前行」)、危険に乗じて幸運を求めたのであり(乗危以徼倖)、確かにこれを得ることができたが、それは天の助けがあったからだ(雖得之天所佐也)。振り返ってみると、これを常としてはならない(顧不可以爲常)。諸君の諫は万安の計である。だから(諸君を)賞すのだ(是以相賞)。今後、これを言うことを難とするな(今後も諫言を遠慮する必要はない。原文「後勿難言之」)。」
次回に続きます。