東漢時代 諸葛亮登場

献帝建安十二年207年)諸葛亮が登場しました。

東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3)


ここでは『三国志蜀書五諸葛亮伝』を元に出仕するまでの諸葛亮について書きます。
 
諸葛亮は字を孔明といい、琅邪陽都の人です。
西漢司隸校尉諸葛豊の後代に当たります。
諸葛珪は字を君貢といい、東漢末に太山(泰山)郡丞になりましたが、諸葛亮は早くから孤児になりました(父を喪いました)
従父(父の兄弟。伯父か叔父)諸葛玄が袁術によって豫章太守に任命されたため、諸葛玄は諸葛亮とその弟諸葛均を連れて官に就きました。
しかしこの時、漢朝が改めて朱皓を選び、諸葛玄と換えさせました。諸葛玄は以前から荊州劉表と旧交があったため、劉表を頼りに行きます。
 
裴松之注は『献帝春秋』から異なる記述を引用しています。それによると、豫章太守周術が病死したため、劉表が上表して諸葛玄を豫章太守にしました。治所は南昌です。
しかし漢朝は周術の死を聞いてから、朱皓を派遣して諸葛玄と換えさせました。朱皓は揚州太守劉繇に従い、兵を求めて諸葛玄を撃ちます。
諸葛玄が退いて西城に駐屯したため、朱皓が南昌に入りました。
建安二年(197)正月、西城の民が反して諸葛玄を殺し、劉繇に首を送りました。
裴松之は「この書が言っている内容は本伝(上述の『諸葛亮伝』本文の内容)と異なる」と注釈していますが、どちらが正しいという判断はしていません。
 
本文に戻ります。
諸葛玄が死ぬと、諸葛亮は自ら隴畝(田地)で耕作し、好んで『梁父吟』を為しました(「『梁父吟』を歌いました。」または「『梁父吟』を作りました。」『梁父吟』は晏子の智謀によって三勇士を殺した故事を詠んだ詩です)
 
諸葛亮は身長が八尺あり、いつも自分を管仲楽毅と比していました。時の人でこれを認める者はいませんでしたが、ただ、博陵の人崔州平や潁川の人徐庶元直だけは諸葛亮と友善な関係にあり、それを信じました。
 
裴松之注によると、諸葛亮の家は南陽の鄧県にありました。襄陽城西二十里に位置し、隆中と号しました。
崔州平は霊帝時代の太尉烈の子で、崔均の弟です。
諸葛亮荊州に移ってから、建安の初めに潁川の人石広元、徐元直や汝南の人孟公威等と共に游学しました。三人は精熟(精通、習熟。ここでは学問を詳しく追及すること)に勉めましたが、諸葛亮だけは大略を観ました。
晨夜(朝晩)はいつも従容(悠々とすること。のんびりすること)とし、常に膝を抱えて長嘯(声を長くひいて詩歌を歌うこと)していました。
諸葛亮が三人に言いました「卿等三人が仕進(仕官)すれば刺史や郡守に至ることができる。」
三人が諸葛亮はどれくらいの官に至ることができるかと聞いても、諸葛亮は笑うだけで答えませんでした。
後に孟公威が郷里を思って北に帰ろうと欲しました。
しかし諸葛亮はこう言いました「中国(中原)は士大夫が豊富だ(饒士大夫)。遨遊(遊楽。漫遊)するのがどうして故郷でなければならないのだ(遨遊何必故郷邪)。」
 

本文に戻ります。
当時、劉備(原文は「先主」ですが、「劉備」と書きます。以下も同じです)が新野に駐屯していました。

徐庶劉備に会うと、劉備徐庶を重んじました。
そこで徐庶劉備に言いました「諸葛孔明臥龍です。将軍は彼に会いたいと思いませんか(将軍豈願見之乎)?」
劉備が言いました「君が共に来てくれ(君が連れて来てくれ。原文「君與俱来」)。」
徐庶が言いました「この者はその地に行って会うことはできますが、呼びつけることはできません。将軍は駕を煩わせて自ら訪問するべきです(此人可就見不可屈致也,将軍宜枉駕顧之)。」
 
裴松之注からです。
劉備が世事について司馬徳操司馬徽に訊ねました。
司馬徳操はこう言いました「儒生や俗士がどうして時務(時の形勢や大事)を識る(知る)ことができるでしょう。時務を識る者は俊傑の中にいます。この地には自ずから(本より、以前から)伏龍と鳳雛がいます。」
劉備がそれは誰かと問うと、司馬徳操は「諸葛孔明と龐士元です」と答えました。
 
本文に戻ります。
こうして劉備諸葛亮を訪ねに行きました。合わせて三回足を運び、やっと諸葛亮に会います(凡三往乃見)
諸葛亮に会った劉備は人払いをしてこう言いました「漢室が傾頽(衰敗)して姦臣が竊命専制し、主上が蒙塵(流亡)しているので、孤(私)(自分の)徳も力も量らず(不度徳量力)、天下に大義を伸ばしたいと欲している(欲信大義於天下)。しかし智術が浅短なため、失敗して今日に至った(智術浅短遂用猖蹶至于今日)。それでも志はなお止まない。君はどのような計を用いるべきだと思うか(君謂計将安出)?」
諸葛亮が言いました「董卓以来、豪傑が並び起ち、州を跨いで郡を連ねている者は数え切れません。曹操袁紹と比べたら名望が小さく衆も寡少でしたが(名微而衆寡)、ついに曹操袁紹に克つことができ、弱によって強者になりました。これは天の時だけでなく、人の謀があったからでしょう(非惟天時,抑亦人謀也)
今、曹操は既に百万の衆を擁しており、天子を挟んで(利用して)諸侯に号令しているので(挟天子而令諸侯)、これは誠に鋒を争うことができません曹操とは戦うべきではありません)孫権は江東を占拠して既に三世を経歴し、国土が険阻で民が帰順しており(国険而民附)、賢能が用いられています(賢能為之用)。これは援となすことはできますが、図ることはできません孫権は同盟して援け合うことはできても、その地を狙うことはできません)
荊州は北は漢沔に拠り、利は南海を尽くし(南海の物資や収入を全て荊州の利益としており)、東は呉(呉と会稽)に連なり、西は巴蜀に通じています。ここは用武の国ですが、その主は守ることができません。これは恐らく天が将軍に与えた場所です(此殆天所以資将軍也)。将軍にはその意(意志、意図)があるでしょうか(将軍豈有意乎)
益州は険塞で(険阻な地形で四方が囲まれており)、沃野が千里におよぶ天府の土(地)です。高祖はここによって帝業を成しました。しかし劉璋は闇弱で、張魯が北におり、民は豊かで国が富んでいても存恤(愛惜)を知らず、智能の士は明君を得たいと思っています。
将軍は帝室の冑(後裔)であり、信義が四海に知られ、英雄を総攬(掌握)し、渇いて水を欲するように賢才を思っています(思賢如渴)。もし荊益を跨いで有し、その巖阻(険阻な地)を保ち、西は諸戎と和し、南は夷越を撫し、外は孫権と好を結び、内は政理を修め、天下に変があった時、一上将に命じて荊州の軍を率いて宛洛に向かわせ、将軍自らは益州の衆を率いて秦川を出れば、百姓で箪食壺漿(食べ物や飲み物をもって歓迎すること)によって将軍を迎えようとしない者がいるでしょうか(百姓孰敢不箪食壺漿以迎将軍者乎)。誠にこのようにすれば、霸業を成すことができ、漢室を興すことができます(誠如是則霸業可成漢室可興矣)。」
劉備は「善し(善)」と言いました。
この後、諸葛亮との情好(交情)が日に日に密になります。
関羽張飛等がこれを悦ばなかったため、劉備が説明しました「孤(私)孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ(猶魚之有水也)。諸君がこれ以上何も言わないことを願う(願諸君勿復言)。」
関羽張飛は止めました(不満を抱かなくなりました)
 
裴松之注は『魏略』から全く異なる説も載せています。
劉備が樊城に駐屯している時、曹公(曹操)がちょうど河北を平定しました。諸葛亮荊州が次に攻撃を受けると知りましたが、劉表は性格が柔弱で(性緩)軍事に通暁していませんでした。
そこで諸葛亮は北に向かい、劉備に会いに行きます。
ところが劉備諸葛亮と旧交が無く、また諸葛亮がまだ若かったため、諸生に対する気持ちで遇しました。
(ある時)坐集(宴席等、人が集まる場)が既に終わり、衆賓が皆去っても、諸葛亮だけは独り留まりました。しかし劉備諸葛亮が何を言いたいかを問おうとしません。
劉備は元から結毦(羽毛や動物の毛で飾り物を作ること)が好きでした。この時ちょうど髦牛の尾を劉備に与えた者がいました。劉備は自らの手でそれを結びます。
すると諸葛亮が進み出て言いました「明将軍はまだ遠志があるべきなのに、ただ毦を結ぶだけですか。」
劉備諸葛亮が常人ではないと知り、毦(装飾品)を投げてこう言いました「何を言うか(是何言與)。私は暫く憂いを忘れようとしただけだ(我聊以忘憂耳)。」
諸葛亮が問いました「将軍が測るに、劉鎮南劉表と曹公とではどちらが勝っていますか(将軍度劉鎮南孰與曹公邪)?」
劉備が言いました「劉表が)及ばない(不及)。」
諸葛亮がまた問いました「将軍が自分を測るにはどうですか(将軍自度何如也)?」
劉備が言いました「私も及ばない(亦不如)。」
諸葛亮が言いました「今、どちらも及ばないのに、将軍の衆は数千人を越えず、これによって敵を待っています(鎮南も将軍も曹操に及ばないのに、将軍は数千を越えない兵で曹操を待っています)。計ではないのではありませんか(良計ではありません。原文「得無非計乎」)。」
劉備が問いました「私もこれを愁いていた。如何するべきだ(当若之何)?」
諸葛亮が言いました「今、荊州は人が少ないのではありません。著籍の者(戸籍に登録している者)が寡少なのです。平素の発調(徴発、徴兵)をしたら人心が悦びません(戸籍から逃れている者が多いので、普通に徴兵をしたら人心が離れてしまいます。原文「平居発調則人心不悦」)。鎮南劉表に語り、国中に游戸(戸籍がない家)があったら、皆に自実(自ら報告すること)させ、それを元に録す(登記する)ことで衆を増やすのがいいでしょう。」
劉備はこの計に従ったおかげで衆が強くなりました。
劉備はここから諸葛亮に英略があると知り、上客の礼を用いるようになりました。
 
裴松之注によると、『九州春秋』にもこれと同じ記述があります。
しかし裴松之自身はこの説に反対してこう言っています「臣松之が思うに、諸葛亮は表(出師の表)で『先帝は臣を卑鄙(卑賎な小人)とみなさず、自分の身分を落としてへりくだり(猥自枉屈)、臣を草廬の中に三顧して、当世の事を臣に諮った(訊ねた)』と言った。よって、諸葛亮が先に劉備を訪ねたのではないことは明らかである。聞いたり見たりした辞(言葉。記述)が異なり、それぞれ別の説を生んだとしても、(事実から)乖離してこのようにまでなってしまうのは、またとても不思議なことだ(雖聞見異辞各生彼此,然乖背至是亦良為可怪)。」