東漢時代 諸葛亮登場
東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3)
諸葛玄が退いて西城に駐屯したため、朱皓が南昌に入りました。
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諸葛玄が死ぬと、諸葛亮は自ら隴畝(田地)で耕作し、好んで『梁父吟』を為しました(「『梁父吟』を歌いました。」または「『梁父吟』を作りました。」『梁父吟』は晏子の智謀によって三勇士を殺した故事を詠んだ詩です)。
諸葛亮は荊州に移ってから、建安の初めに潁川の人・石広元、徐元直や汝南の人・孟公威等と共に游学しました。三人は精熟(精通、習熟。ここでは学問を詳しく追及すること)に勉めましたが、諸葛亮だけは大略を観ました。
晨夜(朝晩)はいつも従容(悠々とすること。のんびりすること)とし、常に膝を抱えて長嘯(声を長くひいて詩歌を歌うこと)していました。
後に孟公威が郷里を思って北に帰ろうと欲しました。
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当時、劉備(原文は「先主」ですが、「劉備」と書きます。以下も同じです)が新野に駐屯していました。
裴松之注からです。
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諸葛亮に会った劉備は人払いをしてこう言いました「漢室が傾頽(衰敗)して姦臣が竊命(専制)し、主上が蒙塵(流亡)しているので、孤(私)は(自分の)徳も力も量らず(不度徳量力)、天下に大義を伸ばしたいと欲している(欲信大義於天下)。しかし智術が浅短なため、失敗して今日に至った(智術浅短遂用猖蹶至于今日)。それでも志はなお止まない。君はどのような計を用いるべきだと思うか(君謂計将安出)?」
諸葛亮が言いました「董卓以来、豪傑が並び起ち、州を跨いで郡を連ねている者は数え切れません。曹操は袁紹と比べたら名望が小さく衆も寡少でしたが(名微而衆寡)、ついに曹操は袁紹に克つことができ、弱によって強者になりました。これは天の時だけでなく、人の謀があったからでしょう(非惟天時,抑亦人謀也)。
今、曹操は既に百万の衆を擁しており、天子を挟んで(利用して)諸侯に号令しているので(挟天子而令諸侯)、これは誠に鋒を争うことができません(曹操とは戦うべきではありません)。孫権は江東を占拠して既に三世を経歴し、国土が険阻で民が帰順しており(国険而民附)、賢能が用いられています(賢能為之用)。これは援となすことはできますが、図ることはできません(孫権は同盟して援け合うことはできても、その地を狙うことはできません)。
荊州は北は漢・沔に拠り、利は南海を尽くし(南海の物資や収入を全て荊州の利益としており)、東は呉・会(呉と会稽)に連なり、西は巴・蜀に通じています。ここは用武の国ですが、その主は守ることができません。これは恐らく天が将軍に与えた場所です(此殆天所以資将軍也)。将軍にはその意(意志、意図)があるでしょうか(将軍豈有意乎)?
益州は険塞で(険阻な地形で四方が囲まれており)、沃野が千里におよぶ天府の土(地)です。高祖はここによって帝業を成しました。しかし劉璋は闇弱で、張魯が北におり、民は豊かで国が富んでいても存恤(愛惜)を知らず、智能の士は明君を得たいと思っています。
将軍は帝室の冑(後裔)であり、信義が四海に知られ、英雄を総攬(掌握)し、渇いて水を欲するように賢才を思っています(思賢如渴)。もし荊・益を跨いで有し、その巖阻(険阻な地)を保ち、西は諸戎と和し、南は夷越を撫し、外は孫権と好を結び、内は政理を修め、天下に変があった時、一上将に命じて荊州の軍を率いて宛・洛に向かわせ、将軍自らは益州の衆を率いて秦川を出れば、百姓で箪食壺漿(食べ物や飲み物をもって歓迎すること)によって将軍を迎えようとしない者がいるでしょうか(百姓孰敢不箪食壺漿以迎将軍者乎)。誠にこのようにすれば、霸業を成すことができ、漢室を興すことができます(誠如是則霸業可成漢室可興矣)。」
裴松之注は『魏略』から全く異なる説も載せています。
すると諸葛亮が進み出て言いました「明将軍はまだ遠志があるべきなのに、ただ毦を結ぶだけですか。」
諸葛亮が言いました「今、どちらも及ばないのに、将軍の衆は数千人を越えず、これによって敵を待っています(鎮南も将軍も曹操に及ばないのに、将軍は数千を越えない兵で曹操を待っています)。計ではないのではありませんか(良計ではありません。原文「得無非計乎」)。」
諸葛亮が言いました「今、荊州は人が少ないのではありません。著籍の者(戸籍に登録している者)が寡少なのです。平素の発調(徴発、徴兵)をしたら人心が悦びません(戸籍から逃れている者が多いので、普通に徴兵をしたら人心が離れてしまいます。原文「平居発調則人心不悦」)。鎮南(劉表)に語り、国中に游戸(戸籍がない家)があったら、皆に自実(自ら報告すること)させ、それを元に録す(登記する)ことで衆を増やすのがいいでしょう。」
劉備はこの計に従ったおかげで衆が強くなりました。
裴松之注によると、『九州春秋』にもこれと同じ記述があります。
しかし裴松之自身はこの説に反対してこう言っています「臣・松之が思うに、諸葛亮は表(出師の表)で『先帝は臣を卑鄙(卑賎な小人)とみなさず、自分の身分を落としてへりくだり(猥自枉屈)、臣を草廬の中に三顧して、当世の事を臣に諮った(訊ねた)』と言った。よって、諸葛亮が先に劉備を訪ねたのではないことは明らかである。聞いたり見たりした辞(言葉。記述)が異なり、それぞれ別の説を生んだとしても、(事実から)乖離してこのようにまでなってしまうのは、またとても不思議なことだ(雖聞見異辞各生彼此,然乖背至是亦良為可怪)。」