東漢時代409 献帝(九十一) 甘寧と黄祖 208年(1)
戊子 208年
趙温は策免(皇帝の策書によって罷免すること)されました。
曹操が鄴に還り、玄武池を造って舟師を訓練しました。
しかし劉表は儒人(儒者)で、軍事に習熟していなかったため、甘寧は劉表では大事を成就できるはずがない(事勢終必無成)と観てとり、一朝にして衆が四散したら自分もそろって禍を受けることになる、と懼れました。そこで東に向かって呉に入ろうとします。
『資治通鑑』胡三省注によると、邾県は江夏郡に属します。楚が邾を滅ぼしてから、その君をこの地に置きました。
蘇飛は甘寧を邾長にさせることで呉に奔る路を開きました。
『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)はこう書いています「『呉志‧孫権伝(三国志・呉書二・呉主伝)』によると、(孫権は)建安八年と十二年に黄祖を討った。『凌統伝(三国志・呉書十・程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝)』によると、凌統は父・凌操が死んだため、十五歳で父の兵を統率し、(その後)麻・保の屯を撃ち、陳勤を刺殺している(陳勤は軍を指揮していましたが、横暴で酒に酔って凌統を侮辱したため、凌統に殺されました)。『周瑜伝(三国志・呉書九・周瑜魯粛呂蒙伝)』『孫瑜伝(三国志・呉書六・宗室伝)』を見ると、建安十一年に麻・保の屯を撃っているので、凌操が死んだのはそれ以前の建安八年に当たるようだ。しかしそれから五年も経って甘寧が孫権に奔ったというのも、晩すぎるようだ(似晚)。年月の根拠がないので、ここでまとめて遡って述べた(今無年月可拠追言之)。」
本文に戻ります。
孫権は特別な礼を用い、旧臣と同等の待遇をしました。
甘寧が孫権に献策しました「今は漢祚(漢の国運)が日に日に衰微しており、最後は曹操が簒盗を為します。南荊の地は山川の形に便があり、誠に国の西勢です(荊州は呉の西にあり、長江上流を制御する地勢に当たります)。寧(私)が劉表を観るに、(劉表の)思慮は遠くなく、児子(子供達)も劣っていて、業(家業)を継承して基(国の基礎)を伝えられる者ではありません(慮既不遠,児子又劣,非能承業伝基者也)。至尊(孫権)は早くこれを図るべきです。曹操に遅れてはなりません(不可後操)。
これ(荊州)を図る計は、まず先に黄祖を取るべきです。黄祖は今、昏耄(耄碌)が既に甚だしく、財穀ともに乏しくなり、左右は貪縦(貪婪放縦)で、吏士は必ず怨みを抱いており、舟船戦具が頓廃(破損)しているのに修めず、耕農を怠り、軍には法伍(軍の編成、規則)がないので、至尊が今向かえば、必ず破ることができます(其破可必)。一度、黄祖軍を破ってから、鼓行して(戦鼓を敲いて)西に向かい、楚関(『資治通鑑』胡三省注によると、楚関は扞関を指します。かつて蜀が楚を攻撃した時、楚は扞関で抵抗しました。そのため、楚関と呼ばれるようになりました)を占拠すれば、勢力がますます拡大し(大勢彌広)、徐々に巴蜀を図ることができます(即可漸規巴蜀矣)。」
孫権は深く納得しました。
しかし、この時、張昭が同席しており、難じて(反対して)こう言いました「今、呉下は業業としています(『資治通鑑』胡三省注によると、「業業」は危懼の意味です)。もしも軍が本当に出征したら、必ず乱を招くことになるのではないかと恐れます(若軍果行恐必致乱)。」
甘寧が張昭に言いました「国家は簫何の任を君(あなた)に付している(託している)のに、君(あなた)は居守(留守)しながら乱を憂いています。何をもって古人を希慕(仰ぎ慕うこと)するのでしょう(どうして古人を慕って倣うことができるでしょう。原文「奚以希慕古人乎」)。」
孫権が酒(杯)を挙げて甘寧に授け、こう言いました「興霸(甘寧の字)よ、今年討伐に行くのは、この酒と同じだ(今年行討如此酒矣)。卿に託すことに決めた(決以付卿)。卿はただ勉めて方略を建て、必ず(我々を)黄祖に克たせよ。そうすれば卿の功である。どうして張長史の言を嫌う(気にする)必要があるか(卿但当勉建方略,令必克祖,則卿之功,何嫌張長史之言乎)。」
黄祖は二艘の蒙衝(敵船に突撃する戦艦)を横にして沔口を挟守(拠守。拠点にして守ること)し、栟閭(棕櫚。しゅろ。木の一種)の大紲(大縄)に石を繋いで矴(いかり)にしました。船上には千人がおり、交互に弩を射ます。雨が降るように矢が飛び、孫権軍は前に進めなくなりました。
兵は皆、両鎧(二着の鎧)をまとって大舸(大船)に乗り、蒙衝の間に突入します。
董襲が自ら刀で二本の紲(縄)を断ちました。蒙衝が横に流され、そこに大兵(大軍)が前進します。
その後、淩統、董襲等の将士が勝ちに乗じて水陸から並進し、城に迫りました(傅其城)。精鋭を出し尽くして攻撃し、その城を皆殺しにします(尽鋭攻之遂屠其城)。
男女数万口が捕虜になります。
孫権が諸将のために酒席を設けると、甘寧が席から下りて孫権に叩頭しました。血と涙を交えて流し、蘇飛による過日の旧恩について語ります「寧(私)が蘇飛に遇わなかったら(寧不値飛)、既に溝壑(山谷)で死骸が損なわれており、麾下(将帥の下。孫権の下)で命を懸けることができませんでした(固已損骸於溝壑,不得致命於麾下)。今、蘇飛の罪は夷戮に当たりますが、特に将軍にその首領(首)を乞います(首を斬らないように乞います)。」
甘寧が言いました「蘇飛が分裂の禍を免れて更生の恩を受けたら、彼を逐ったとしても必ず走ることはありません(たとえ放逐して走らせたとしても、走ることはありません。原文「逐之尚必不走」)。どうして逃亡を図るでしょう(豈当図亡哉)。もしもそのようになったら(若爾)、寧(私)の頭が代わりに函(箱)に入ります。」
孫権は蘇飛を赦しました。
次回に続きます。