東漢時代409 献帝(九十一) 甘寧と黄祖 208年(1)

今回は東漢献帝建安十三年です。十一回に分けます。
 
東漢献帝建安十三年
戊子 208
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、司徒趙温が曹操の子曹丕を招聘しました。
しかし曹操がこう上表しました「趙温は臣の子弟を辟しました(招きました)。故意に実による選挙をしていません(実際の能力に則った選挙をしていません。原文「選挙故不以実」)。」
趙温は策免(皇帝の策書によって罷免すること)されました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『献帝起居注』は建安十五年にこの出来事を書いていますが、本年六月に三公の官が廃されるので、司徒趙温が罷免されるのはそれより前のはずです。
後漢書孝献帝紀』は本年正月に書いており、『資治通鑑』は『後漢書』に従っています。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
曹操が鄴に還り、玄武池を造って舟師を訓練しました。
資治通鑑』胡三省注によると、鄴城に玄武苑があり、曹操はその中に池を掘りました。
 
[] 『三国志呉書二呉主伝』と資治通鑑』からです。
以前、巴郡の人甘寧が僮客(奴僕)八百人を率いて劉表に帰順しました献帝興平元年194年に甘寧荊州に走ったという記述がありました)
しかし劉表は儒人儒者で、軍事に習熟していなかったため、甘寧劉表では大事を成就できるはずがない(事勢終必無成)と観てとり、一朝にして衆が四散したら自分もそろって禍を受けることになる、と懼れました。そこで東に向かって呉に入ろうとします。
ところが黄祖が夏口におり、軍(恐らく「僮客八百人」を指します)が通過できなかったため、そこに留まって、黄祖の下に三年間身を寄せました(依祖三年)
黄祖は凡人として甘寧を養います。
 
孫権黄祖を撃って黄祖軍が敗走した時、孫権の校尉凌操(『資治通鑑』胡三省注によると、衛康叔の支子(嫡子以外の子)が周の凌人(官名)になったため、子孫がそれを氏にしました)が兵を率いて急追しました。
甘寧は射術が得意で、兵を率いて後しんがりにいました。
甘寧が追撃する凌操に矢を射て殺したため、黄祖は難から逃れられましたが、軍を解いて営に還ってからも(軍罷還営)、以前と同じように甘寧を遇しました。
 
黄祖の都督蘇飛がしばしば甘寧を推薦しましたが、黄祖は用いませんでした。
甘寧は去りたいと思いましたが、脱することができないのではないかと恐れます(恐不免)
そこで蘇飛が黄祖に進言し、甘寧を邾長にさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、邾県は江夏郡に属します。楚が邾を滅ぼしてから、その君をこの地に置きました。
 
蘇飛は甘寧を邾長にさせることで呉に奔る路を開きました。
そのおかげで甘寧は逃走して孫権に帰順することができました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)はこう書いています「『呉志孫権三国志呉書二呉主伝)』によると、(孫権)建安八年と十二年に黄祖を討った。『凌統三国志呉書十程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝)』によると、凌統は父凌操が死んだため、十五歳で父の兵を統率し、(その後)保の屯を撃ち、陳勤を刺殺している(陳勤は軍を指揮していましたが、横暴で酒に酔って凌統を侮辱したため、凌統に殺されました)。『周瑜三国志呉書九周瑜魯粛呂蒙伝)』『孫瑜三国志呉書六宗室伝)』を見ると、建安十一年に麻保の屯を撃っているので、凌操が死んだのはそれ以前の建安八年に当たるようだ。しかしそれから五年も経って甘寧孫権に奔ったというのも、晩すぎるようだ(似晚)。年月の根拠がないので、ここでまとめて遡って述べた(今無年月可拠追言之)。」
 
本文に戻ります。
周瑜呂蒙が共に甘寧を推薦しました。
孫権は特別な礼を用い、旧臣と同等の待遇をしました。
 
甘寧孫権に献策しました「今は漢祚(漢の国運)が日に日に衰微しており、最後は曹操が簒盗を為します。南荊の地は山川の形に便があり、誠に国の西勢です荊州は呉の西にあり、長江上流を制御する地勢に当たります)。寧(私)劉表を観るに、劉表の)思慮は遠くなく、児子(子供達)も劣っていて、業(家業)を継承して基(国の基礎)を伝えられる者ではありません(慮既不遠,児子又劣,非能承業伝基者也)。至尊孫権は早くこれを図るべきです。曹操に遅れてはなりません(不可後操)
これ(荊州)を図る計は、まず先に黄祖を取るべきです。黄祖は今、昏耄(耄碌)が既に甚だしく、財穀ともに乏しくなり、左右は貪縦(貪婪放縦)で、吏士は必ず怨みを抱いており、舟船戦具が頓廃(破損)しているのに修めず、耕農を怠り、軍には法伍(軍の編成、規則)がないので、至尊が今向かえば、必ず破ることができます(其破可必)。一度、黄祖軍を破ってから、鼓行して(戦鼓を敲いて)西に向かい、楚関(『資治通鑑』胡三省注によると、楚関は扞関を指します。かつて蜀が楚を攻撃した時、楚は扞関で抵抗しました。そのため、楚関と呼ばれるようになりました)を占拠すれば、勢力がますます拡大し(大勢彌広)、徐々に巴蜀を図ることができます(即可漸規巴蜀矣)。」
孫権は深く納得しました。
 
しかし、この時、張昭が同席しており、難じて(反対して)こう言いました「今、呉下は業業としています(『資治通鑑』胡三省注によると、「業業」は危懼の意味です)。もしも軍が本当に出征したら、必ず乱を招くことになるのではないかと恐れます(若軍果行恐必致乱)。」
甘寧が張昭に言いました「国家は簫何の任を君(あなた)に付している(託している)のに、君(あなた)は居守(留守)しながら乱を憂いています。何をもって古人を希慕(仰ぎ慕うこと)するのでしょう(どうして古人を慕って倣うことができるでしょう。原文「奚以希慕古人乎」)。」
孫権が酒()を挙げて甘寧に授け、こう言いました「興霸甘寧の字)よ、今年討伐に行くのは、この酒と同じだ(今年行討如此酒矣)。卿に託すことに決めた(決以付卿)。卿はただ勉めて方略を建て、必ず(我々を)黄祖に克たせよ。そうすれば卿の功である。どうして張長史の言を嫌う(気にする)必要があるか(卿但当勉建方略,令必克祖,則卿之功,何嫌張長史之言乎)。」
 
こうして孫権が西に向かい、黄祖を征ちました。
黄祖は二艘の蒙衝(敵船に突撃する戦艦)を横にして沔口を挟守(拠守。拠点にして守ること)し、栟閭(棕櫚。しゅろ。木の一種)の大紲(大縄)に石を繋いで矴(いかり)にしました。船上には千人がおり、交互に弩を射ます。雨が降るように矢が飛び、孫権軍は前に進めなくなりました。
 
偏将軍董襲と別部司馬凌統が共に前部になり、それぞれ敢死の兵百人を指揮しました。
兵は皆、両鎧(二着の鎧)をまとって大舸(大船)に乗り、蒙衝の間に突入します。
董襲が自ら刀で二本の紲(縄)を断ちました。蒙衝が横に流され、そこに大兵(大軍)が前進します。
 
黄祖は都督陳就を前鋒(先鋒)に任命し、舟兵(水軍)を率いて逆戦(迎撃)させました。
しかし、平北都尉呂蒙(『資治通鑑』胡三省注によると、呂蒙は別部司馬でしたが、功績によって平北都尉になりました)が前鋒(先鋒)を率いて自ら陳就の首を斬り、それを曝しました。
その後、淩統、董襲等の将士が勝ちに乗じて水陸から並進し、城に迫りました(傅其城)。精鋭を出し尽くして攻撃し、その城を皆殺しにします(尽鋭攻之遂屠其城)
黄祖は脱出して(原文「挺身」。『資治通鑑』胡三省注によると、「挺」は「抜く」の意味です)逃走しましたが、騎士馮則が追撃して黄祖を斬り、首を曝しました。
男女数万口が捕虜になります。

孫権は事前に二つの函(箱)を作り、黄祖と蘇飛の首を入れようとしていました。
孫権が諸将のために酒席を設けると、甘寧が席から下りて孫権に叩頭しました。血と涙を交えて流し、蘇飛による過日の旧恩について語ります「寧(私)が蘇飛に遇わなかったら(寧不値飛)、既に溝壑(山谷)で死骸が損なわれており、麾下(将帥の下。孫権の下)で命を懸けることができませんでした(固已損骸於溝壑,不得致命於麾下)。今、蘇飛の罪は夷戮に当たりますが、特に将軍にその首領(首)を乞います(首を斬らないように乞います)。」
孫権はこの言に動かされましたが、こう問いました「今、君のために彼を放ったとして、もしも逃走して去ったらどうする(今為君置之,若走去何)?」
甘寧が言いました「蘇飛が分裂の禍を免れて更生の恩を受けたら、彼を逐ったとしても必ず走ることはありません(たとえ放逐して走らせたとしても、走ることはありません。原文「逐之尚必不走」)。どうして逃亡を図るでしょう(豈当図亡哉)。もしもそのようになったら(若爾)、寧(私)の頭が代わりに函(箱)に入ります。」
孫権は蘇飛を赦しました。
 
凌統甘寧が父凌操を殺したことを怨んでいたため、常に甘寧を殺そうと欲しました。
孫権凌統に命じて報復できないようし(不得讎之)甘寧には兵を率いて別の場所に駐屯するように命じました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代410 献帝(九十二) 丞相曹操と司馬懿 208年(2)