東漢時代410 献帝(九十二) 丞相曹操と司馬懿 208年(2)

今回は東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、漢朝が三公の官を廃止して再び丞相と御史大夫を置きました。
癸巳(初九日)曹操を丞相にしました。
 
資治通鑑』胡三省注が解説しています。漢初は丞相、御史大夫、太尉を三公としましたが、西漢哀帝時代に大司馬、大司徒、大司空が三公になり、中興東漢建国)以後は太尉、司徒、司空が三公になりました。
今回、丞相と御史が置かれましたが、曹操が自ら丞相になり、事権(職権。権力)は一人に握られるようになりました。
 
三国志武帝紀』裴松之注によると、御史大夫の官は中丞を領さず、長史一人を置きました(かつては御史大夫の下に御史中丞がいましたが、今回、御史大夫が改めて置かれてからは、中丞は管轄せず、長史を一人置くことにしました)
 
後漢書楊李翟応霍爰徐列伝(巻四十八)』と『三国志武帝紀』裴松之注によると、朝廷は太常徐璆を派遣してすぐに曹操に)丞相の印綬を授けました。
 
以下、徐璆について簡単に書きます(『後漢書楊李翟応霍爰徐列伝(巻四十八)』および『三国志武帝紀』裴松之注参照)
徐璆は字を孟玉(または「孟平」)といい、広陵海西の人です。父徐淑は度遼将軍になり、辺境で名が知られていました。
徐璆は若い頃から清爽を実践し、朝廷に立ったら色(容貌)を正しました。
任城、汝南、東海三郡(の太守)を歴任し、至る所で教化が行われました(ここは『三国志武帝紀』裴松之注の記述を元にしました。『後漢書楊李翟応霍爰徐列伝』ではまず荊州刺史になり、その後、汝南太守、東海相を歴任しています)
後に朝廷が徐璆を召して衛尉に任命しました。しかし徐璆は京師に還ろうとした時、袁術に拘束されます(所劫)
袁術は僭号(皇帝を名乗ること)してから上公の位を徐璆に授けようと欲しましたが、徐璆は最後まで屈しませんでした。袁術の死後、徐璆は袁術の璽を得て漢朝に届け、太常に任命されました。
曹操が丞相になった時、徐璆が符節を持って使者になりました(使持節)曹操は丞相の位を徐璆に譲りましたが、徐璆は受け入れませんでした。
その後、徐璆は官(太常)に就いたまま死にました。
 
尚、『後漢書孝献帝紀』は「曹操が自ら丞相になった」と書いています。
 
曹操冀州別駕従事崔琰を丞相西曹掾に、司空東曹掾陳留の人毛玠を丞相東曹掾に、元城令河内の人司馬朗を主簿に、その弟・司馬懿を文学掾に、冀州主簿盧毓を法曹議令史にしました。盧毓は盧植の子です。
 
資治通鑑』胡三省注によると、別駕従事は州牧が州内を巡行する時に先導したり衆事を記録しました(奉引録衆事)
漢制では、公府西曹掾は府史の署用(任用)を、東曹掾は二千石と長吏および軍吏の遷除(昇格任官)を主管しました。
黄閣主簿(黄閣は丞相府の庁堂、庁閣です)は衆事を精査して記録しました(録省衆事)
文学掾は漢の郡曹(郡の官署)に置かれた官ですが、曹操は公府にも置きました。
法曹は郵駅科程(郵政の規定)を主管しました。
当時、公府の諸曹(官署)には全て議令史が置かれていました。
 
崔琰と毛玠が並んで選挙を管理しました。彼等が推挙して用いた者は皆、清正の士で、当時において名声が盛んでも、品行が本分を守っていない者(品行が悪い者。原文「行不由本者」)は、いつまでも官界に進むことができませんでした。
敦実(誠実な者)を抜擢して華偽(身を飾って虚偽な者)を退け、沖遜(謙虚な者)を進めて阿党(媚び諂う者)を抑えます。
そのため、天下の士で廉節によって自分を励まさない者はなく(皆が廉節に励むようになり)、貴寵の臣でも輿服(車服)が度を越えることなく、長吏で(家に)還った者は、垢で顔が汚れて衣服が破れ(垢面羸衣)、一人で柴車(粗末な車)に乗っていました。軍吏が官府に入る時は、朝服を着てはだしで歩きます(朝服徒行)
上にいる官吏が廉潔になったため、俗(廉潔な気風)が下に移りました(吏潔於上俗移於下)
これを聞いた曹操は嘆息して「人を用いてこのようであり、天下の人に自治させた(自分で自分を正すようにさせた)。吾(私)がまた何をする必要があるだろう(用人如此使天下人自治,吾復何為哉)」と言いました。
 

以下、『晋書・巻一・高祖帝紀』と『資治通鑑』からです。
司馬懿は字を仲達といい、河内温県孝敬里の人です。先祖は帝高陽の子重黎から出ており、重黎は夏官祝融(官名)になりました。唐(堯)(舜)商を経て、代々この職を継承します(世序其職)

周代になって夏官が司馬になりました。
後代の程伯休父が西周宣王の時代に世官世襲の官。司馬の官)に就いて徐方を克平(平定)したため、司馬を官族(官名が元になった族姓)として与えられ、この後これが氏になりました。
楚漢の間、司馬卬が趙将になり、諸侯と共に秦を伐ちました。秦が亡んでから殷王に立てられ、河内を都にします。
漢代になってその地は郡になりましたが、子孫はそこを家にしました。
司馬卬から八世後に征西将軍司馬鈞が生まれました。字は叔平です。司馬鈞は豫章太守司馬量を生みました。字は公度です。司馬量は潁川太守司馬儁を生みました。字は元異です。司馬儁は京兆尹司馬防を生みました。字は建公です。司馬懿は司馬防の第二子に当たります。
 
司馬懿は若い頃から奇節(人とは異なる気節)があり、聡朗(聡明)で大略(遠大な才略)が多く、博学洽聞(博聞)で、儒学の教えに傾倒しました(伏膺儒教。漢末になって天下が大いに乱れると、常に慨然として(憤激して)天下を憂いる心を持ちました。
南陽太守で同郡の楊俊は人を観る目があることで知られていました。司馬懿に会った時には、まだ弱冠にもなっていなかったのに非常の器だと判断しました。
尚書清河の人崔琰は司馬懿の兄司馬朗と仲が良く、こう言いました「君の弟は聡亮明允(聡明で事物に精通していること)、剛断英特(果断で才智が卓越していること)だ。子(汝)が及ぶところではない(非子所及也)。」

建安六年201年)、郡が司馬懿を推挙して上計掾にしました。
当時、曹操が司空の官位におり、司馬懿の名声を聞いて招聘しました。しかし司馬懿は漢運(漢の命運)が衰微しているため、節を曲げて曹氏に仕えたいとは思わず、風痹(風湿。関節が動かなくなる病)のため起居できないという理由で辞退しました。
曹操は夜に人を送って秘かに探らせましたが、司馬懿は頑なに臥したまま動きませんでした(原文「魏武使人夜往密刺之,帝堅臥不動」。これは『晋書』の記述です。『資治通鑑』は採用していません。「魏武」は曹操、「帝」は司馬懿です。「秘かに司馬懿を刺させたが、司馬懿は風痹を装って動かなかった」とも読めなくはありませんが、この「刺」は「偵察」の意味だと思います)
 
曹操が丞相になってから(本年)、再び司馬懿を招いて文学掾にしました。この時、曹操が行者(使者)にこう言いました「もしまた盤桓(躊躇、逗留)するようならすぐに捕えよ(便收之)。」
司馬懿は懼れて職に就きました。
 
この後、曹操司馬懿を太子曹丕と游処(一緒に生活すること)させました。後に司馬懿は黄門侍郎に遷され、議郎、丞相東曹属に転じ、暫くして主簿になりました。

 
 
次回に続きます。