東漢時代410 献帝(九十二) 丞相曹操と司馬懿 208年(2)
夏六月、漢朝が三公の官を廃止して再び丞相と御史大夫を置きました。
『三国志・武帝紀』裴松之注によると、御史大夫の官は中丞を領さず、長史一人を置きました(かつては御史大夫の下に御史中丞がいましたが、今回、御史大夫が改めて置かれてからは、中丞は管轄せず、長史を一人置くことにしました)。
徐璆は若い頃から清爽を実践し、朝廷に立ったら色(容貌)を正しました。
任城、汝南、東海三郡(の太守)を歴任し、至る所で教化が行われました(ここは『三国志・武帝紀』裴松之注の記述を元にしました。『後漢書・楊李翟応霍爰徐列伝』ではまず荊州刺史になり、その後、汝南太守、東海相を歴任しています)。
その後、徐璆は官(太常)に就いたまま死にました。
曹操は冀州別駕従事・崔琰を丞相西曹掾に、司空東曹掾・陳留の人・毛玠を丞相東曹掾に、元城令・河内の人・司馬朗を主簿に、その弟・司馬懿を文学掾に、冀州主簿・盧毓を法曹議令史にしました。盧毓は盧植の子です。
漢制では、公府西曹掾は府史の署用(任用)を、東曹掾は二千石と長吏および軍吏の遷除(昇格・任官)を主管しました。
黄閣主簿(黄閣は丞相府の庁堂、庁閣です)は衆事を精査して記録しました(録省衆事)。
法曹は郵駅科程(郵政の規定)を主管しました。
当時、公府の諸曹(官署)には全て議令史が置かれていました。
崔琰と毛玠が並んで選挙を管理しました。彼等が推挙して用いた者は皆、清正の士で、当時において名声が盛んでも、品行が本分を守っていない者(品行が悪い者。原文「行不由本者」)は、いつまでも官界に進むことができませんでした。
敦実(誠実な者)を抜擢して華偽(身を飾って虚偽な者)を退け、沖遜(謙虚な者)を進めて阿党(媚び諂う者)を抑えます。
そのため、天下の士で廉節によって自分を励まさない者はなく(皆が廉節に励むようになり)、貴寵の臣でも輿服(車服)が度を越えることなく、長吏で(家に)還った者は、垢で顔が汚れて衣服が破れ(垢面羸衣)、一人で柴車(粗末な車)に乗っていました。軍吏が官府に入る時は、朝服を着てはだしで歩きます(朝服徒行)。
上にいる官吏が廉潔になったため、俗(廉潔な気風)が下に移りました(吏潔於上俗移於下)。
以下、『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
司馬懿は字を仲達といい、河内温県孝敬里の人です。先祖は帝高陽の子・重黎から出ており、重黎は夏官祝融(官名)になりました。唐(堯)・虞(舜)・夏・商を経て、代々この職を継承します(世序其職)。
周代になって夏官が司馬になりました。
楚漢の間、司馬卬が趙将になり、諸侯と共に秦を伐ちました。秦が亡んでから殷王に立てられ、河内を都にします。
漢代になってその地は郡になりましたが、子孫はそこを家にしました。
司馬卬から八世後に征西将軍・司馬鈞が生まれました。字は叔平です。司馬鈞は豫章太守・司馬量を生みました。字は公度です。司馬量は潁川太守・司馬儁を生みました。字は元異です。司馬儁は京兆尹・司馬防を生みました。字は建公です。司馬懿は司馬防の第二子に当たります。
司馬懿は若い頃から奇節(人とは異なる気節)があり、聡朗(聡明)で大略(遠大な才略)が多く、博学洽聞(博聞)で、儒学の教えに傾倒しました(伏膺儒教)。漢末になって天下が大いに乱れると、常に慨然として(憤激して)天下を憂いる心を持ちました。
尚書・清河の人・崔琰は司馬懿の兄・司馬朗と仲が良く、こう言いました「君の弟は聡亮明允(聡明で事物に精通していること)、剛断英特(果断で才智が卓越していること)だ。子(汝)が及ぶところではない(非子所及也)。」
当時、曹操が司空の官位におり、司馬懿の名声を聞いて招聘しました。しかし司馬懿は漢運(漢の命運)が衰微しているため、節を曲げて曹氏に仕えたいとは思わず、風痹(風湿。関節が動かなくなる病)のため起居できないという理由で辞退しました。
曹操は夜に人を送って秘かに探らせましたが、司馬懿は頑なに臥したまま動きませんでした(原文「魏武使人夜往密刺之,帝堅臥不動」。これは『晋書』の記述です。『資治通鑑』は採用していません。「魏武」は曹操、「帝」は司馬懿です。「秘かに司馬懿を刺させたが、司馬懿は風痹を装って動かなかった」とも読めなくはありませんが、この「刺」は「偵察」の意味だと思います)。
司馬懿は懼れて職に就きました。
次回に続きます。