東漢時代411 献帝(九十三) 孔融の死 208年(3)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
曹操張遼を長社に駐屯させました。
張遼が出発する時、軍中に造反を謀る者がいました。
夜、営内を驚乱させて火を起こしたため、全軍が混乱に陥ります(一軍尽擾)
張遼が左右の者に言いました「動くな(勿動)。一営が全て反したのではない。必ず造変(造反)の者がおり、こうすることで人を驚動させたいだけだ(是不一営尽反,必有造変者,欲以驚動人耳)。」
 
張遼が軍中に令を発しました「反していない者は安坐せよ(その場に坐って動くな。原文「其不反者安坐」)。」
張遼自身は親兵数十人を率いて陣の中央に立ちます(中陳而立)
暫くして皆が安定し、首謀者は捕まって処刑されました。
 
張遼は長社におり、于禁が潁陰に、楽進が陽翟に駐屯しました。
しかし三将がそれぞれ自分の気持ちに任せて事を行ったため、協調できないことが多々ありました(多共不協)
曹操は司空主簿趙儼に命じて同時に三軍の軍務に参与させました。事がある度に趙儼が訓諭したため、三者が互いに親睦するようになりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、前将軍馬騰と鎮西将軍韓遂は異姓兄弟の関係を結びましたが、後に双方の部曲が互いに侵しあい、讎敵に変わりました。
朝廷は司隸校尉鍾繇涼州刺史韋端を派遣して和解させ、馬騰を召して槐里に駐屯させました。
資治通鑑』胡三省注によると、鎮西将軍等の「鎮」は「柔遠(遠方の懐柔)」に通じます。漢末に置かれたようです。
 
曹操荊州を征討しようとした時、馬騰武装を解かせるため、張既に命じて馬騰と話をさせました。張既が馬騰に部曲を解散して朝廷に帰還するよう説得します。
馬騰はこれに同意しましたが、後に考えを変えて躊躇しました。
張既は馬騰が変事を為すことを恐れたため、諸県に書を送って物資を蓄えるように促し(原文「移諸県促儲」。馬騰が上京するための物資を準備させたのだと思います)、二千石(太守)に郊外まで出迎えさせました。馬騰はやむなく入朝するために東に向かいます。
曹操は上表して馬騰を衛尉にしました。
また、馬騰の子馬超を偏将軍に任命し、その衆を統率させました。馬騰の家属馬騰も含みます)は全て鄴に遷されます。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『典略(三国魏の魚豢の書)』には「建安十五年、馬騰を召して衛尉にした」と書かれています(本年は建安十三年208年です)
しかし『三国志魏書十五劉司馬梁張温賈伝(張既伝)』では曹操荊州を征討する前の事としています。『典略』の「十五」は「十三」の誤りのようです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、曹操が南征して劉表を撃ちました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月丁未(二十四日)、光禄勳山陽の人郗慮を御史大夫にしました(『資治通鑑』胡三省注によると、郗氏は高平の望姓(声望がある家系の姓氏)です)
 
孝献帝紀』の注によると、郗慮は字を鴻豫といい、山陽高平の人です。若い頃、鄭玄から学問を授かりました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬子(二十九日)、太中大夫孔融が棄市に処されました。
 
孔融はその才望に恃み、しばしば曹操を戯侮(嘲笑侮辱)しました。また、孔融が発する辞(言葉)は偏宕(過激で度を越えていること)で、多くが乖忤(意見の衝突)を招きました。
曹操孔融の名が天下に重んじられていたため、外見は容忍しましたが、内実は甚だ嫌っていました。
 
この頃、孔融がまた上書しました「古の王畿の制に準じるべきです。千里の寰内京城周辺千里以内の地域)には諸侯を封建しないものです。」
これは京城周辺千里以内の地を漢朝が直接管理するべきだという意味で、実行されたら朝廷の権勢が拡大することになります。
曹操孔融が論建(議論)する内容がしだいに広くなっていると疑い、ますます憚りました(恐れて嫌いました)
 
孔融は郗慮と対立していました。
そこで郗慮が曹操の風旨(意思。示唆)を受けて孔融の罪を作り上げ(承操風旨構成其罪)、丞相軍謀祭酒路粹(路粹は人名です。『資治通鑑』胡三省注によると、「軍師祭酒」「軍謀祭酒」とも曹操が置きました)にこう上奏させました「孔融は昔、北海におり孔融は北海相でした)、王室が静かではないのを見て、徒衆を招合し、不軌(背反)を謀ろうと欲しました(欲規不軌)。後に孫権の使者と語り、朝廷を謗訕(誹謗)しました。また、以前は白衣の禰衡と共に跌蕩放言(「跌蕩」は上述の「偏宕」と同じ意味です)し、互いに賛揚(称賛称揚)しました。禰衡が孔融に『仲尼孔子は死んでいない(仲尼不死)』と言うと、孔融は『顔回が再び生まれた顔回復生)』と答えました。大逆不道なので重誅(重刑誅滅)を極めるべきです。」
曹操孔融を逮捕し、その妻子と共に全て処刑しました。
 
京兆の人脂習(脂が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、脂習は字を元升といい、後に中大夫になります)孔融と仲が良く、孔融が過度に剛直なので必ず世患(世間の禍患)に遭うことになる、といつも戒めていました。
孔融が死んでから、許下(許周辺)では孔融の死体を回収しようとする者がいませんでした。
しかし脂習は死体を見に行き、撫でてこう言いました「文挙孔融の字)が我(私)を捨てて死んだ。吾(私)は生きる必要があるのか(吾何用生為)。」
曹操は脂習を逮捕して殺そうとしましたが、暫くして釈放しました。
 
 
 
次回に続きます。