東漢時代412 献帝(九十四) 荊州投降 208年(4)
劉表には劉琦と劉琮という二子がいました。
劉琦は諸葛亮を深く重んじていました。
劉表が後妻・蔡氏等の言を受けて少子・劉琮を愛し、劉琦を不快に思うようになったため(不悦於琦)、劉琦は心中に不安を抱き(不自寧)、いつも諸葛亮と自安の術を謀ろうとしました。しかし諸葛亮は常にそれを拒んで計策を与えようとしません。
そこで劉琦は諸葛亮を連れて後園を游観し、共に高楼に登りました。飲宴の間に人に命じて梯子を取り去らせます。
劉琦は心中で感悟し、秘かに外に出る計を謀りました。
ちょうど黄祖が死んだため、劉琦はその任に代わることを求めます。
劉表は劉琦を江夏太守に任命しました。
やがて、劉表が病に倒れて症状が重くなりました。
そこで劉琦に言いました「将軍は君に江夏の撫臨(統治)を命じました。その任は至重です。今、衆を捨てて勝手に来たので(釈衆擅来)、必ず譴怒(譴責)されます。親の歓心を損なってその病を更に重くさせるのは(傷親之歓,重増其疾)、孝敬の道ではありません。」
劉琦は涙を流して去ります。
この記述に対して裴松之はこう言っています「劉表夫妻はかねてから劉琮を愛しており、嫡子を捨てて庶子を立てようとしていた。情(心情。情愛)も計も久しく定まっていたのだから、臨終になって荊州を挙げて劉備に授ける理由がない。これも不然の言(道理がない言葉)である。」
本文に戻ります。
章陵太守・蒯越(章陵はかつては舂陵といい、荊州南陽郡に属しました。『後漢書・郡国志四』に記述があります。『資治通鑑』胡三省注によると、四親(光武帝の父から四代前の先祖)の園廟が章陵にあったため、当時は郡に改められ、太守が置かれていました)および東曹掾・傅巽等が劉琮に対して曹操に降るように勧めました「逆順(逆らうか従うか)には大体(大局に関わる道理)があり、強弱には定勢(一定の形勢)があります(逆順有大体,強弱有定勢)。人臣でありながら人主を拒むのは逆道(道に逆らうこと)です。新造の楚(新建の荊州)によって中国を防いだら(禦中国)、必ず危くなります。劉備を使って曹公と敵対するのは相応しくありません(または「劉備を使って曹操に対抗しても敵いません。」原文「以劉備而敵曹公不当也」)。三者が皆短いのに(劣っているのに)、どうやって敵に対応するのでしょう(将何以待敵)。そもそも、将軍は自らを料る(量る)に劉備と比べて如何ですか?もし劉備でも曹公を防ぐに足りないのなら、全楚を挙げても自存することはできません。また、もし(劉備が)曹公を防ぐに足りるのなら、劉備は将軍の下になりません。」
劉琮はこの意見に従いました。
『三国志・魏書六・董二袁劉伝』『後漢書・袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』とも、韓嵩も劉琮に投降を勧めています。しかし当時、韓嵩は幽囚されていたので(建安四年・199年参照)、謀には参加していないはずです(胡三省注参照)。
九月、曹操が新野に至りました。
曹操の諸将が皆、劉琮の詐術を疑いましたが、婁圭がこう言いました「天下が擾擾(混乱の様子)とし、それぞれ王命(朝廷の命令・符節)を貪ることで自分を重くしようとしています(各貪王命以自重)。しかし今、(劉琮は)節を持って来ました。これは必ず至誠によるものです(是必至誠)。」
曹操は兵を進めました。
次回に続きます。