東漢時代412 献帝(九十四) 荊州投降 208年(4)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』『三国志蜀書二先主伝』『三国志蜀書五諸葛亮伝』の本文と裴松之注および『後漢書孝献帝紀』『資治通鑑』からです。
劉表には劉琦と劉琮という二子がいました。
劉表が少子劉琮に後妻蔡氏の姪を娶らせたため、蔡氏は劉琮を愛して劉琦を嫌うようになりました。
劉表の妻の弟蔡瑁劉表の外甥(姉妹の子)張允は共に劉表の幸(寵信)を得ており、日々共に劉琦を誹謗して劉琮を褒め称えました。
 
劉琦は諸葛亮を深く重んじていました。
劉表が後妻蔡氏等の言を受けて少子劉琮を愛し、劉琦を不快に思うようになったため(不悦於琦)、劉琦は心中に不安を抱き(不自寧)、いつも諸葛亮と自安の術を謀ろうとしました。しかし諸葛亮は常にそれを拒んで計策を与えようとしません。
 
そこで劉琦は諸葛亮を連れて後園を游観し、共に高楼に登りました。飲宴の間に人に命じて梯子を取り去らせます。
劉琦が諸葛亮に言いました「今日、上は天に至らず、下は地に至らず、言は子(あなた)の口から出て吾(私)の耳に入ります。話ができませんか(今日上不至天下不至地,言出子口而入吾耳,可以言未)?」
諸葛亮が言いました「君(あなた)は申生が内に居て危うくなり、重耳が外に居て安んじたことを見ないのですか(参考にしないのですか)?」
申生と重耳は春秋時代晋献公の子です。どちらも驪姫に讒言されましたが、申生は国内で自殺し、重耳は出奔しました。後に重耳は国に帰り、春秋時代の覇者(晋文公)になりました。
 
劉琦は心中で感悟し、秘かに外に出る計を謀りました。
ちょうど黄祖が死んだため、劉琦はその任に代わることを求めます。
劉表は劉琦を江夏太守に任命しました。
 
やがて、劉表が病に倒れて症状が重くなりました。
劉琦が(襄陽に)帰って劉表を見舞おうとします(帰省疾)
蔡瑁と張允は、劉琦が劉表に会ってから父子が感じ合い(父子相感)劉表が改めて後事を託そうとする意志を抱くのではないかと恐れました。
そこで劉琦に言いました「将軍は君に江夏の撫臨(統治)を命じました。その任は至重です。今、衆を捨てて勝手に来たので(釈衆擅来)、必ず譴怒(譴責)されます。親の歓心を損なってその病を更に重くさせるのは(傷親之歓,重増其疾)、孝敬の道ではありません。」
蔡瑁等は劉琦を戸外で拒んで劉表に会えないようにしました。
劉琦は涙を流して去ります。
 
劉表が死ぬと、蔡瑁、張允等は劉琮を後嗣にしました。
 
三国志先主伝』裴松之注は『英雄記』と『魏書』から引用して、劉表が死ぬ時の様子をこう書いています。
劉表は病が重くなってから、国を劉備に託そうとし、上表して劉備荊州刺史を兼任させました(領荊州刺史)
劉表劉備を顧みて言いました「我が児(子)は不才で諸将はそろって零落(落命、散乱)した。私が死んだ後は卿が荊州を統率せよ(卿便攝荊州。」
劉備が言いました「諸子は自ずから(元から)賢才です。君(あなた)は病を憂いてください(病のことだけを考えてください)。」
ある人が劉備に対して劉表の言に従うべきだと勧めましたが、劉備はこう言いました「この人劉表は私を遇して厚かった。今、その言に従ったら、人は必ず私を薄(薄情)とする。忍びないことだ。」
この記述に対して裴松之はこう言っています「劉表夫妻はかねてから劉琮を愛しており、嫡子を捨てて庶子を立てようとしていた。情(心情。情愛)も計も久しく定まっていたのだから、臨終になって荊州を挙げて劉備に授ける理由がない。これも不然の言(道理がない言葉)である。」
 
本文に戻ります。
劉琮が侯印を劉琦に授けました(劉表は成武侯でした。劉琮は荊州牧を継ぎ、侯位を劉琦に譲ったのだと思います)。劉琦は怒ってそれを地に投げつけ、奔喪(葬儀に参加すること)に乗じて難を為そうとしました。
しかしちょうど曹操軍が荊州に至ったため、劉琦は江南に奔りました。
資治通鑑』胡三省注は「劉琦が江南に奔るのは劉琮が曹操に)降った後の事だが、史書はこの出来事の結末をここでまとめて書いている(史究其終言之)」と解説しています。
 
章陵太守蒯越(章陵はかつては舂陵といい、荊州南陽郡に属しました。『後漢書郡国志四』に記述があります。『資治通鑑』胡三省注によると、四親光武帝の父から四代前の先祖)の園廟が章陵にあったため、当時は郡に改められ、太守が置かれていました)および東曹掾傅巽等が劉琮に対して曹操に降るように勧めました「逆順(逆らうか従うか)には大体(大局に関わる道理)があり、強弱には定勢(一定の形勢)があります(逆順有大体,強弱有定勢)。人臣でありながら人主を拒むのは逆道(道に逆らうこと)です。新造の楚(新建の荊州によって中国を防いだら(禦中国)、必ず危くなります。劉備を使って曹公と敵対するのは相応しくありません(または「劉備を使って曹操に対抗しても敵いません。」原文「以劉備而敵曹公不当也」)三者が皆短いのに(劣っているのに)、どうやって敵に対応するのでしょう(将何以待敵)。そもそも、将軍は自らを料る(量る)劉備と比べて如何ですか?もし劉備でも曹公を防ぐに足りないのなら、全楚を挙げても自存することはできません。また、もし劉備が)曹公を防ぐに足りるのなら、劉備は将軍の下になりません。」
劉琮はこの意見に従いました。
 
三国志魏書六董二袁劉伝』『後漢書袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』とも、韓嵩も劉琮に投降を勧めています。しかし当時、韓嵩は幽囚されていたので(建安四年199年参照)、謀には参加していないはずです(胡三省注参照)
 
九月、曹操が新野に至りました。
劉琮は曹操に使者を派遣し(劉琮は襄陽にいます)、州を挙げて投降することを請いました。節(漢朝廷が劉表に授けた荊州牧の節)を持って曹操を出迎えます。
曹操の諸将が皆、劉琮の詐術を疑いましたが、婁圭がこう言いました「天下が擾擾(混乱の様子)とし、それぞれ王命(朝廷の命令符節)を貪ることで自分を重くしようとしています(各貪王命以自重)。しかし今、(劉琮は)節を持って来ました。これは必ず至誠によるものです(是必至誠)。」
曹操は兵を進めました。
 
 
 
次回に続きます。