東漢時代413 献帝(九十五) 当陽長坂 208年(5)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[(続き)] 当時、劉備は樊に駐屯していました。
資治通鑑』胡三省注によると、樊城は襄陽東に位置し、北に漢水が流れています。周の大夫樊仲山甫の邑でした。
 
劉琮は曹操に降ることを劉備に告げませんでした(原文「不敢告備」。劉備を畏れて告げられなかったのだと思います)
劉備曹操が迫っていることを知らず、久しくしてからやっとそれを覚りました。親近する者を派遣して劉琮に問います。
劉琮は官属宋忠に劉備を訪ねさせて意旨を宣布しました。
 
この時、曹操が既に宛に居たため、劉備は大いに驚駭(驚愕)して宋忠にこう言いました「卿等諸人はこのような事をしながら早く語らず、今、禍が至ってから私に告げた。度が過ぎていないか(卿諸人作事如此,不早相語,今禍至方告我,不亦太劇乎)!」
劉備は刀を抜いて宋忠に向けましたが、「今、卿の頭を断っても、憤怒を解くには足りず(不足以解忿)、また、大丈夫は別れに臨んで卿のような輩を殺すことを恥じるものだ」と言い、宋忠を去らせました。
 
劉備が部曲を呼び招いて共に協議しました。
ある者が劉備に「劉琮を攻めれば荊州を得ることができます」「劉琮および荊州吏士を脅して従わせ、直接、南の江陵に到るべきです」と勧めました。
しかし劉備はこう言いました「劉荊州は亡(死)に臨んで私に孤遺(孤児遺児)を託した。信に背いて自分が成功するというのは、私が為すことではない背信自済吾所不為)。死んでから何の面目をもって劉荊州に会えるだろう。」
 
劉備はその衆を率いて去り、襄陽(劉琮の拠点)を訪ねました。馬を止めて劉琮に呼びかけます。
劉琮は懼れて起ちあがれず、劉琮の左右の者や荊州人の多くが劉備に帰順しました。
 
三国志先主伝』ではここで諸葛亮劉備に「劉琮を攻めれば荊州を有すことができます」と勧め、劉備は「私には忍びない」と言っています。
資治通鑑』はこのやりとりを採用していません。
 
劉備劉表の墓を訪ね、別れを告げて涙を流してから去りました。
 
劉備が当陽に至った時、衆十余万人、輜重数千輌が従っており、一日に十余里しか進めませんでした。
劉備関羽の部隊を分けて船数百艘に乗せ、(水路から移動して)江陵で合流させることにしました。
ある人が劉備に言いました「速く進んで江陵(『資治通鑑』胡三省注によると、江陵は南郡の治所です)を保つべきです。今、大衆を擁しているというものの、被甲の者は少数です。もし曹公の兵が到ったらどうやって対抗するのでしょうか(何以拒之)。」
しかし劉備はこう言いました「大事を成功させる時は必ず人を本(根本)とするものだ(夫済大事必以人為本)。今、人が吾(私)に帰したのに、吾がどうして棄てて去ることができるか(吾何忍棄去)。」
 
劉琮の将王威が劉琮を説得しました「曹操は、将軍が既に降り、劉備が走ったと聞いて、必ず懈弛(緊張を解くこと)して備えが無くなり、軽行単進します。もし威(私)に奇兵数千を与えて、険阻な地で迎撃させれば、曹操を獲ることができます(徼之於険,操可獲也)曹操を獲たら、威が四海を震わせるので、ただ今日の局面を保守するだけではありません(非徒保守今日而已)。」
劉琮はこの意見を採用しませんでした。
 
江陵には軍実(兵糧や兵器等の軍事物資)があったため、曹操劉備に占拠されることを恐れました。そこで、輜重を解いて軽軍を従え、まず襄陽(劉琮の拠点)に至ります。
しかし劉備は既に襄陽を通り過ぎていました。
それを聞いた曹操は精騎五千を率いて急追し、一日一夜で三百余里を進んで当陽の長坂で劉備に追いつきました。
劉備は妻子を棄て、諸葛亮張飛趙雲等数十騎と共に逃走します。
曹操劉備の人衆や輜重を大いに獲得しました。

徐庶諸葛亮と共に劉備に従っていましたが、曹操の追撃に遭って破れた時、母が曹操に捕えられました。
徐庶劉備に別れを告げ、自分の胸を指してこう言いました(指其心曰)「本来は将軍と共に王覇の業を図りたいと欲したので、この方寸の地をもってしました(この小さな心によって仕えてきました。原文「本欲與将軍共図王霸之業者,以此方寸之地也」)今、既に老母を失い、方寸(心)が乱れているので、事において益がありません(将軍の大事に対して役に立ちません)。ここで別れることを請います(請従此別)。」
徐庶曹操を訪ねました。
 
三国志諸葛亮伝』裴松之注が徐庶について書いています。
徐庶は元の名を福といい、本来は単家(寒門)の子です。若い頃から任侠撃剣を好みました。
中平霊帝の年号)の末、人のために讎に報いてから、白土を顔に塗り(白堊突面)、髪を束ねずに逃走しました(被髪而走)。官吏に捕まって姓字(姓名)を問われましたが、口を閉ざして何も言わないため、官吏は車の上に柱を立てて縄で縛りつけ(維磔)、市鄽(市の中央)で鼓を撃って令を発しました。しかし知っていると言う者はなく、逆にその党伍が共に奪って縄を解いたため、逃れることができました。
その後、徐福は感激(感悟)して刀戟を棄て、疏巾(粗布の頭巾)単衣に改め、今までの志行を変えて学問に励みました(折節学問)。しかし精舍儒者が講義する学舎)を訪ねたばかりの時は、諸生が徐福はかつて賊を為していたと聞き、一緒に生活しようとしませんでした(不肯與共止)
そこで徐福は腰を低くして朝早くに起き(卑躬早起)、常に独りで掃除し、他者の意に先んじて行動しました(動静先意)。経業を聴習し、義理に精熟します。
その結果、同郡の人石韜と親しくなりました。
初平献帝の最初の年号です)年間、中州(中原)で兵が起きました。
徐福は石韜と共に南に移って荊州で客居し、諸葛亮と非常に親しくなります。
荊州が内附(朝廷に従うこと。ここでは荊州曹操に投降したことを指します)すると、孔明諸葛亮劉備に従って去り、徐福は石韜と共に北に行きました。
黄初(魏文帝の年号です)年間、石韜は仕官して郡守や典農校尉を歴任し、徐福の官は右中郎将、御史中丞に至りました。
大和(太和。魏明帝の年号です)年間、諸葛亮が隴右に出た時、元直(徐福の字)と広元(石韜の字)が出仕してまだそのような官にいると聞き、嘆息して「魏は優秀な士がとても多いのか(魏殊多士邪)。なぜ彼等二人が用いられないのだ(何彼二人不見用乎)」と言いました。
徐庶は数年後に病死しました。碑は彭城にあり、今(魏晋時代)も存在しています。
 
本文に戻ります。
張飛が二十騎を率いて後ろを拒みました(原文「拒後」。殿しんがりの意味です)
張飛は水(川)に拠って橋を断ち、目を見開いて矛を横たえ(瞋目横矛)、こう言いました「わしは張益徳だ!共に死を決することができるか(原文「身是張益徳也,可来共決死」。益徳は張飛の字です)!」
曹操の兵で敢えて近づこうとする者はいませんでした。
 
ある人が劉備に言いました「趙雲が既に北に走りました曹操に降りました)。」
劉備は手戟を投げつけてこう言いました「子龍趙雲の字)が私を棄てて走ることはない(子龍不棄我走也)。」
暫くして、趙雲がその身に劉備の子劉禅を抱きかかえて戻りました。
三国志蜀書六関張馬黄趙伝』によると、趙雲劉禅と甘夫人を守りました。劉禅は後主(蜀の二世皇帝)、甘夫人は後主の母です。
 
劉備は進路を変えて漢津に向かい(原文「斜趣漢津」。劉備は蒼梧を目指して南下していましたが、魯粛に説得されて東に進路を変えました(下述します)。「漢津」は「漢水」を指すと思われます)、ちょうど関羽の船と合流して、沔水漢水を渡ることができました。
また、江夏太守劉琦の衆一万余人と遇い、共に夏口に至りました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代414 献帝(九十六) 荊州の人材 208年(6)