東漢時代413 献帝(九十五) 当陽長坂 208年(5)
この時、曹操が既に宛に居たため、劉備は大いに驚駭(驚愕)して宋忠にこう言いました「卿等諸人はこのような事をしながら早く語らず、今、禍が至ってから私に告げた。度が過ぎていないか(卿諸人作事如此,不早相語,今禍至方告我,不亦太劇乎)!」
劉備が部曲を呼び招いて共に協議しました。
しかし劉備はこう言いました「劉荊州は亡(死)に臨んで私に孤遺(孤児・遺児)を託した。信に背いて自分が成功するというのは、私が為すことではない(背信自済吾所不為)。死んでから何の面目をもって劉荊州に会えるだろう。」
『資治通鑑』はこのやりとりを採用していません。
劉備が当陽に至った時、衆十余万人、輜重数千輌が従っており、一日に十余里しか進めませんでした。
ある人が劉備に言いました「速く進んで江陵(『資治通鑑』胡三省注によると、江陵は南郡の治所です)を保つべきです。今、大衆を擁しているというものの、被甲の者は少数です。もし曹公の兵が到ったらどうやって対抗するのでしょうか(何以拒之)。」
劉琮の将・王威が劉琮を説得しました「曹操は、将軍が既に降り、劉備が走ったと聞いて、必ず懈弛(緊張を解くこと)して備えが無くなり、軽行単進します。もし威(私)に奇兵数千を与えて、険阻な地で迎撃させれば、曹操を獲ることができます(徼之於険,操可獲也)。曹操を獲たら、威が四海を震わせるので、ただ今日の局面を保守するだけではありません(非徒保守今日而已)。」
劉琮はこの意見を採用しませんでした。
しかし劉備は既に襄陽を通り過ぎていました。
徐庶は劉備に別れを告げ、自分の胸を指してこう言いました(指其心曰)「本来は将軍と共に王覇の業を図りたいと欲したので、この方寸の地をもってしました(この小さな心によって仕えてきました。原文「本欲與将軍共図王霸之業者,以此方寸之地也」)。今、既に老母を失い、方寸(心)が乱れているので、事において益がありません(将軍の大事に対して役に立ちません)。ここで別れることを請います(請従此別)。」
中平(霊帝の年号)の末、人のために讎に報いてから、白土を顔に塗り(白堊突面)、髪を束ねずに逃走しました(被髪而走)。官吏に捕まって姓字(姓名)を問われましたが、口を閉ざして何も言わないため、官吏は車の上に柱を立てて縄で縛りつけ(維磔)、市鄽(市の中央)で鼓を撃って令を発しました。しかし知っていると言う者はなく、逆にその党伍が共に奪って縄を解いたため、逃れることができました。
その後、徐福は感激(感悟)して刀戟を棄て、疏巾(粗布の頭巾)・単衣に改め、今までの志行を変えて学問に励みました(折節学問)。しかし精舍(儒者が講義する学舎)を訪ねたばかりの時は、諸生が徐福はかつて賊を為していたと聞き、一緒に生活しようとしませんでした(不肯與共止)。
そこで徐福は腰を低くして朝早くに起き(卑躬早起)、常に独りで掃除し、他者の意に先んじて行動しました(動静先意)。経業を聴習し、義理に精熟します。
その結果、同郡の人・石韜と親しくなりました。
黄初(魏文帝の年号です)年間、石韜は仕官して郡守や典農校尉を歴任し、徐福の官は右中郎将、御史中丞に至りました。
大和(太和。魏明帝の年号です)年間、諸葛亮が隴右に出た時、元直(徐福の字)と広元(石韜の字)が出仕してまだそのような官にいると聞き、嘆息して「魏は優秀な士がとても多いのか(魏殊多士邪)。なぜ彼等二人が用いられないのだ(何彼二人不見用乎)」と言いました。
本文に戻ります。
曹操の兵で敢えて近づこうとする者はいませんでした。
劉備は進路を変えて漢津に向かい(原文「斜趣漢津」。劉備は蒼梧を目指して南下していましたが、魯粛に説得されて東に進路を変えました(下述します)。「漢津」は「漢水」を指すと思われます)、ちょうど関羽の船と合流して、沔水(漢水)を渡ることができました。
また、江夏太守・劉琦の衆一万余人と遇い、共に夏口に至りました。
次回に続きます。