東漢時代415 献帝(九十七) 孫権と諸葛亮 208年(7)
冬十月癸未朔、日食がありました。
そこで孫権にこう言いました「荊州は我が国と鄰接しており、江山が険固で、沃野が万里にわたり、士民が殷富(裕福)なので、もしも占拠して領有すれば、帝王の資(資本)となります(若拠而有之,此帝王之資也)。今、劉表が亡くなったばかりで、二子は和睦せず、軍中の諸将がそれぞれに分かれています(劉表新亡二子不協,軍中諸将各有彼此)。劉備は天下の梟雄で、曹操との間に隙(間隙。対立)があり、劉表に寄寓(頼って居住すること)しましたが、劉表はその能力を嫌って用いることができませんでした。もし劉備と彼(劉表の子)が協心し(同心になり)、上下が斉同していたら(一つになっていたら)、撫安(按撫)して盟好を結ぶべきです。もし(劉備と劉表の子に)離違(背離。対立)があったら、別にこれを図って大事を為すべきです(原文「宜別図之以済大事」。劉備と結んで曹操に対抗し、荊州の混乱に乗じて平定するという意味だと思います)。粛(私)は命を奉じて劉表の二子を弔い、併せて軍中の用事者(権力を持つ者)を慰労することを請います。同時に劉備を説得し、劉表の衆を按撫して同心一意にさせ(心を一つにさせ)、共に曹操を治めさせれば(曹操に対処させれば)、劉備は必ず喜んで命に従います。もしこれに成功すれば、天下を定めることができます(如其克諧,天下可定也)。今、速やかに行かなかったら、恐らく曹操に先を越されます。」
朝から夜まで兼行して南郡に至った時には、劉琮が既に衆人を挙げて投降しており、劉備は長江を渡ろうと欲して南に走っていました。
魯粛が言いました「孫討虜(討虜将軍・孫権)は聡明仁恵で、賢才を敬って士人を礼遇しているので(敬賢礼士)、江表の英豪が全て帰附しています。また、既に六郡を拠有し、兵は精鋭で食糧も多く(兵精糧多)、事を立てるに足ります。今、君(あなた)のために計るなら、腹心を派遣して自ら東と結び、連和の好を重視し(崇連和之好)、共に世業(世事。当世の大事)を完成させた方がいいでしょう(共済世業)。それなのに呉巨に投じたいと言いました。呉巨は凡人で、遠郡の僻地におり、間もなく人に併合されることになります。どうして(身を)託すに足りるでしょう。」
劉備は大いに悦びました。
諸葛亮は魯粛と共に柴桑を訪ね、孫権と会見してこう説きました「海内が大いに乱れ、将軍は兵を起こして江東を占有し、劉豫州も漢南で衆を収め、曹操と並んで天下を争っています。今、曹操は大きな困難を消滅させて(北方を)ほぼ平定しました(芟夷大難,略已平矣)。その後、ついに荊州を破り、威が四海を震わせています。英雄に武を用いる地が無くなったので、豫州(劉備)は遁逃してここに至りました。将軍が自分の力を量ってこれに対処することを願います(願将軍量力而処之)。もしも呉・越の衆をもって中国と抗衡(対抗)できるのなら、早くこれ(曹操との関係)を断った方がいいでしょう。もしそうできないのなら、どうして兵を止めて甲冑を束ね(停戦の意味です)、北面してこれ(曹操)に仕えないのでしょうか(何不按兵束甲,北面而事之)。今、将軍は、外は服従の名に託しながら、内は猶豫の計(躊躇する考え)を抱いており、事が急なのに決断しません。禍がすぐに至ります(禍至無日矣)。」
諸葛亮が言いました「田横は斉の壮士に過ぎませんでしたが、それでも義を守って辱めを受けませんでした(西漢高帝五年・前202年参照)。劉豫州は王室の冑(後裔)であり、英才が世を蓋い(覆い)、衆士が慕仰(仰慕。敬い慕うこと)する様子は水が海に帰すようなので、なおさらです(なおさら辱めを受けることはできません)。もし事が成功できないとしたら、それは天(天意)です(若事之不済此乃天也)。どうしてまたこれ(曹操)の下になることができるでしょう(安能復為之下乎)。」
孫権が勃然(怒りの様子)として言いました「私は全呉の地と十万の衆を挙げて人に制されるわけにはいかない。我が計は決まった。劉豫州でなければ曹操に当たれる者はいない。しかし豫州は最近破れたばかりだ。どうしてこの難に対抗できるのか(豫州新敗之後安能抗此難乎)。」
諸葛亮が言いました「豫州の軍は長坂で敗れましたが、今、戦士で還った者(戻って来た者)および関羽の水軍精甲は一万人おり、劉琦が集めた江夏の戦士も一万人を下りません。曹操の衆は遠くから来たので疲敝しており、聞くところによると、豫州を追うために軽騎が一日一夜で三百余里を行軍したといいます。これはいわゆる『強弩も最後の勢いでは魯縞(魯で生産される薄い布)すら貫けない(強弩之末勢不能穿魯縞)』というものです。だから『兵法』はこれを禁忌とし(兵法忌之)、『必ず上将軍を挫折させる(必蹶上将軍)』といっています。しかも北方の人は水戦に慣れていません(不習水戦)。また、荊州の民が曹操に附いているのは、兵勢に迫られただけで、心服しているのではありません(偪兵勢耳,非心服也)。今、将軍が誠に猛将に命じて兵数万を統率させ、豫州と協規同力(協力して助け合い、計策を練ること)することができれば、曹操軍を破るのは必定です(破操軍必矣)。曹操は軍が破れたら必ず北に還ります。このようになれば、荊・呉の勢が強くなり、鼎足の形が成立します(『資治通鑑』胡三省注によると、荊は劉備、呉は孫権です。「鼎足の形」は天下を三分することを意味します)。成敗の機は今日にあります。」
孫権は大いに悦び、群下とこの事を謀りました。
次回に続きます。