東漢時代416 献帝(九十八) 孫権の決断 208年(8)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[十二(続き)] 当時、曹操劉表の衆を得たばかりで、形勢が甚だ盛んだったため、孫権の群臣は曹操が東下しているという噂を聞いて恐れを抱いていました(望風畏懼)
そこに曹操の書が届きました。孫権にこう伝えます「最近、辞(皇帝の命)を奉じて罪を伐ち、旌麾(将帥旗。または軍隊)が南を指して劉琮が手を束ねた(投降した)。今、これから水軍八十万の衆を治めて将軍と呉で会猟しよう(「会猟」は大規模な狩猟ですが、ここでは戦争を意味します。原文「方與将軍会猟於呉」)。」
孫権曹操の書を臣下(群下)に示すと、皆が響震失色(すぐに顔色を失うこと)しました。
 
長史張昭等が孫権に言いました「曹公は豺虎(山犬や虎)であり、天子を挟んで(脅迫して)四方を征し、動く時は朝廷を名義にしています(挟天子以征四方、動以朝廷為辞)。今日、これを拒んだら、事が更に不順になります(更に朝廷に逆らうことになります)。そもそも、将軍の大勢(大局、形勢)において曹操を拒めるのは長江ですが、今は曹操荊州を得てその地を全て占有しています(奄有其地)劉表は水軍を治め、蒙衝闘艦(どちらも戦艦です。『資治通鑑』胡三省注が解説していますが、省略します)は千を数えました。曹操はそれを全て浮かべて長江に沿っており(操悉浮以沿江)、併せて歩兵を有し、水陸ともに下っています。これは長江の険が我々と共有することになっているのであり、しかも勢力の衆寡は論諭(論談。議論)することができません(長江があれば曹操を拒めましたが、既に曹操荊州を占領して劉表の水軍を統率しているので、長江は呉だけのものではなくなっています。しかも兵力の差は語ることもできないほど歴然としています)。愚見によるなら、大計はこれ曹操を迎え入れるに越したことがありません(愚謂大計不如迎之)。」
 
議者の多くが孫権曹操を迎え入れるように勧めましたが、魯粛だけは発言しませんでした。
孫権が更衣のために立ちあがると(「更衣」は着替えですが、厠に行くことも意味します)魯粛が後を追って宇下(軒下)に来ました。
孫権魯粛の意(気持ち)を知り、その手を取って「卿は何を言いたいのだ(卿欲何言)」と問いました。
魯粛が言いました「先ほど、衆人の議を察しましたが(観察しましたが)、専ら将軍を誤らせようと欲しているので、共に大事を図るには足りません。今、粛(私)曹操を迎え入れることができますが、将軍にはそれができません(今粛可迎操耳,如将軍不可也)。なぜこのように言うのでしょうか(何以言之)。今、粛(私)曹操を迎えたら、曹操は粛(私)を郷党に還付して(私を故郷に帰らせて)名位(名声や地位)を品評し(品其名位)(その結果、私は)なお下曹従事(『資治通鑑』胡三省注によると、諸曹従事の最も下の者です)を失うことはなく、犢車(牛車)に乗り、吏卒を従え、士林(士人が大勢いる場所。『資治通鑑』胡三省注によると、京邑大都を指します)で交游し、官を重ね、(最後は)やはり州郡を失うことはありません(出世を重ねて州牧や郡太守にはなれます。原文「累官故不失州郡也」)。しかし将軍が曹操を迎えたら、どこに帰そうと欲するのでしょうか孫権曹操に降ったら居場所がなくなります。原文「欲安所帰乎」)?早く大計を定め、衆人の議を用いないことを願います。」
孫権が嘆息して言いました「諸人が意見を主張したが、甚だ孤(私)を失望させた(諸人持議,甚失孤望)。今、卿が大計を明らかにした(廓開大計)。正に孤(私)と同じである。」
 
この時、周瑜が使命を受けて番陽に至っていましたが、魯粛孫権に勧めて周瑜を呼び戻させました。
周瑜が到着すると孫権にこう言いました「曹操は漢相の名を借りていますが(託名漢相)、その実は漢賊です。将軍は神武雄才をもってし、また、父兄の烈(功績)を基礎としており(将軍以神武雄才兼仗父兄之烈)、江東に割拠して地は方数千里に及び、兵は精鋭で用いるに足りています(または「武器は精良で用いるに足りています」。原文「兵精足用」)。英雄とは業を楽しむものなので(英雄とは喜んで本業を全うさせ、国のために忠を尽くすものなので。原文「英雄楽業」)、天下に横行して(天下を駆け巡って)漢家のために残(残暴。暴虐)を除いて穢(邪悪)を去らせるべきです。しかも曹操が自ら死ぬために来たのに(操自送死)、どうしてこれを迎え入れるべきなのでしょうか。将軍のためにこれを画策することを請います(請為将軍籌之)
今、北土はまだ平定されておらず、馬超韓遂がなお関西におり、曹操の後患となっています。しかも曹操は鞍馬(鞍と馬。騎馬)を捨てて舟楫(かじ)を持ち、呉越と争衡しています。今はまた盛寒(厳寒)のため、馬には藁草がなく、中国(中原)の士衆を駆けさせて遠く江湖の間に至っていますが(駆中国士衆遠渉江湖之間)、水土に慣れていないので必ず疾病が発生します(不習水土必生疾病)。この数者(数点)は用兵の患(兵を用いる時に害となること)ですが、曹操は全てを冒して実行しているので(操皆冒行之)、将軍が曹操を捕える好機は真に今日にあります(将軍禽操,宜在今日)。瑜(私)は精兵数万人を得て夏口に進住(進駐)することを請います。将軍のためにこれ曹操を破ることを保証します(保爲将軍破之)。」
 
孫権周瑜に言いました「老賊が漢を廃して自立しようと欲して久しく、ただ二袁、呂布劉表と孤(私)を忌む(嫌う。危惧する)だけであった。今、数雄が既に滅び、孤だけがまだ存続している(惟孤尚存)。孤と老賊は両立できる形勢ではない(勢不両立)。君は撃つべきだと言い、甚だ孤(私の意見)と合っている。これは天が君を孤に授けたのだ。」
孫権はこの機に刀を抜いて自分の前の奏案(上奏文を読む机)を斬り、「諸将吏で敢えてまた曹操を迎え入れるべきだと言う者がいたら、この案(机)と同じである(諸将吏敢復有言当迎操者與此案同)!」と宣言しました。
こうして会が終わり、群臣が解散しました。
 
この夜、周瑜が再び孫権に会って言いました「諸人はただ曹操の書がいう水歩八十万を見てそれぞれ恐懾(恐慌)しており、その虚実を改めて料ることなく、あのような議曹操を迎え入れるという意見)を開きました(主張しました)。甚だ意味のないことです(甚無謂也)。今、事実によってこれを考察します(以実校之)。彼が率いている中国人(中原の人)は十五六万に過ぎず、しかも既に久しく疲れています。曹操が)得た劉表の衆も多くて七八万しかおらず、(これらの兵は)尚、狐疑(疑い。躊躇)を抱いています。疲病(疲弊、病弱)の卒によって狐疑の衆を御しているので(統制しているので)、衆数(人数)はたとえ多くても、甚だ畏れるには足りません(甚未足畏)。瑜(私)が精兵五万を得れば自ずから(本より。既に)これを制すに足ります(自足制之)。将軍が憂慮しないことを願います(願将軍勿慮)。」
孫権周瑜の背を撫でて(またが「背をたたいて」。原文「撫其背」)こう言いました「公瑾よ、卿の言がここに至り、甚だ孤(私)の心意にかなっている(卿言至此甚合孤心)。子布(張昭の字)、文表(『資治通鑑』は「元表」としていますが、「文表」の誤りです。『資治通鑑』胡三省注によると、秦松の字を文表といい、『三国志呉書九周瑜魯粛呂蒙伝』裴松之注にも「文表」と書かれています)といった諸人はそれぞれ妻子を顧みて個人的な打算を抱いており(挟持私慮)(私は)深く失望した(深失所望)。ただ卿と子敬魯粛の字)だけが孤(私)と同じである。これは天が卿等二人によって孤(私)を助けさせたのだ(此天以卿二人賛孤也)。五万の兵をすぐに集めるのは困難だが(難卒合)、既に三万人を選び、船糧戦具も併せてそろえてある(俱辦)。卿と子敬、程公(程普。『資治通鑑』胡三省注によると、江東諸将の中で程普が最年長だったため、人々から「程公」と呼ばれていました)は先に出発せよ(便在前発)。孤(私)は継続して人衆を徴発し、多くの資糧を載せて卿の後援になろう。卿が対処できるようなら決せよ曹操に勝てるようなら決戦せよ。原文「卿能辦之者誠決」。「誠」は「請」の意味のようです。ここでは訳しませんでした)。偶然遭遇して意の通りにならないようならすぐ帰って孤(私)と合流せよ(邂逅不如意便還就孤)。孤(私)が孟徳曹操の字)と決しよう(決戦しよう)。」
 
こうして孫権周瑜、程普を左右督に任命しました。兵を率いて劉備と合流し、力を合わせて曹操を迎え撃たせます。
また、魯粛を賛軍校尉に任命し、方略の画策を助けさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、軍謀を助けたため(賛軍謀)、賛軍校尉が官名になりました。
 
尚、『三国志呉主伝』は「周瑜と程普を左右督にし、それぞれ一万人を率いさせた」、『三国志先主伝』は「周瑜、程普等水軍数万」と書いていますが、『資治通鑑』『三国志呉書九周瑜魯粛呂蒙伝』裴松之注、『三国志先主伝』裴松之注および『三国志諸葛亮伝』本文の記述(上述の孫権の言と下述の周瑜の言および『諸葛亮伝』本文)から、周瑜と程普の総兵力は三万ではないかと思われます。
 
 
 
次回に続きます。