東漢時代417 献帝(九十九) 劉備と周瑜 208年(9)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[十二(続き)] 本文に戻ります。
この時、劉備は樊口にいました。諸葛亮が呉を訪ねてまだ還らず、しかも曹操軍が東下していると聞いたため、恐懼した劉備は毎日、邏吏(巡邏偵察の官員)を派遣し、水次(水辺、または船着き場)孫権軍を候望(眺望。偵察)させました。
吏が眺望して周瑜の船を見つけたため、走って劉備に報告しました。
劉備が問いました「何をもって青徐の軍ではないと分かるのだ?」
吏が答えました「船をもって知りました(船を見ればわかります。原文「以船知之」)。」
そこで劉備は人を送って周瑜を慰労しました。
周瑜が言いました「軍任(軍の任務)があるので、部署から離れることはできません(原文「不可得委署」。この「委」は「棄てる」の意味です)。もし威を屈することができるのなら、誠に望みにそいます(もし劉豫州が腰を低くして会いに来ることができるのなら、私の願いにそいます。原文「儻能屈威,誠副其所望」)。」
劉備関羽張飛に「彼は私を招こうと欲している(彼欲致我)。私は今、自ら東と結んで(身を)託した。それなのに行かなかったら、同盟の意ではない(同盟の意に反することになる)」と言い、単舸(一艘の船)に乗って周瑜に会いに行きました。
 
劉備周瑜に言いました「今、曹公を拒んでおり、深く計を得ています(「曹操に対抗するに当たって、深い計があることでしょう」。または、「深い計が必要です」。原文「今拒曹公,深為得計」。あるいは、「得計」には「心意に適う」という意味があるので、ここは「今、あなたが曹操と対抗しているのは、深く劉備の心意に適っています(期待しています)」という意味かもしれません)。戦卒はどれくらいいますか(戦卒有幾)?」
周瑜が言いました「三万人です。」
劉備が言いました「少ないことが惜しまれます(恨少)。」
周瑜が言いました「これは自ずから用いるに足りています(既に充分です。原文「此自足用」)豫州劉備はただ周瑜が破るのを観ていてください。」
劉備魯粛等を呼んで共に会談したいと思いました。
しかし周瑜はこう言いました「命を受けたら妄りに部署から離れるわけにはいきません(受命不得妄委署)。もし子敬魯粛の字)に会いたいと欲するなら、別に訪ねてください(可別過之)。また、孔明も既に共に来ており、三両日を過ぎず(ここに)到着するでしょう。」
資治通鑑』はここで「劉備は深く愧喜した」と書いています。「愧喜」は慚愧と喜びで、『資治通鑑』胡三省注が「愧は魯粛を呼んだ非を慚愧し、喜は周瑜の整(整然とした様子)を喜んだ」と解説しています。
 
しかし『三国志先主伝』裴松之注が引用している『江表伝』の記述は異なり、周瑜の発言の後にこう書いています「劉備は深く恥じて周瑜を異としたが(常人ではないと思ったが)、心中では必ず北軍を破ることができるとは信じていなかったため、周瑜とは同列にならず後ろにさがり(差池在後)、二千人を率いて関羽張飛と一緒にいて、周瑜と連係しようとはしなかった。進退の計を為したようだ。」
この記述に対して、裴松之注は孫盛の言も紹介しています「劉備は雄才でありながら必亡の地におり、呉に急を告げて奔助(奔走尽力して救援すること)を獲た。それなのに江渚を顧望(傍観)して後計(今後の打算)を抱く理由はない。『江表伝』の言は、呉人が美を専らにしよう(呉人が栄誉を独占しよう)と欲した辞(言葉)であろう。」
 
尚、『三国志諸葛亮伝』は「(孫権)周瑜、程普、魯粛等の水軍三万を派遣し、諸葛亮に従って先主(劉備)を訪ねさせ(隨亮詣先主)、力を併せて曹公(曹操)を拒んだ」と書いていますが、周瑜や程普は劉備を訪ねていないと思われます。
 
三国志諸葛亮伝』裴松之注は『袁子(魏晋の袁準の書)』から引用して、当時の諸葛亮に関する出来事を紹介しています。それによると、張子布(子布は張昭の字です)孫権諸葛亮に推薦しましたが、諸葛亮は留まろうとしませんでした。ある人がその理由を問うと、諸葛亮はこう言いました「孫将軍は人主といえるが(人主とみなすことができるが)、その度(度量)を観るに、亮()を賢才として遇すことはできても、亮の能力を尽くすことはできない(能賢亮而不能尽亮)。だから私は留まらなかったのだ(吾是以不留)。」
裴松之はこの記述に対してこう書いています「臣松之が思うに、袁孝尼(袁準)の著文立論は甚だ諸葛の為人を重んじているが、このような言に至っては現実から遠く離れている(失之殊遠)諸葛亮の君臣の遭遇を観るに、それはこの世にまたとない得難い出来事(希世一時)というべきであり、終始(生涯。死別)を別れとしていたので(終始以分)、誰が間を裂くことができただろう(誰能閒之)(諸葛亮)途中で断金(同心)に違えて、主を択ぼうという心を抱き始めるだろうか(寧有中違断金甫懐択主)。もし孫権がその量(力量、能力)を尽きさせることができるなら、翻然(迅速な様子)と去って孫権に)就くだろうか。葛生諸葛亮か?)の行己(身を立てて事を行うこと)がどうしてそのようであろうか(葛生行己豈其然哉)関羽は曹公曹操が獲るところとなり、曹操が)甚だ厚く遇した。その用(能力)を尽くすことができたといえる。しかしそれでも(関羽)義によって本に背かなかった。孔明は雲長関羽に及ばないと言うのだろうか。」

 
 
次回に続きます。