東漢時代417 献帝(九十九) 劉備と周瑜 208年(9)
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この時、劉備は樊口にいました。諸葛亮が呉を訪ねてまだ還らず、しかも曹操軍が東下していると聞いたため、恐懼した劉備は毎日、邏吏(巡邏偵察の官員)を派遣し、水次(水辺、または船着き場)で孫権軍を候望(眺望。偵察)させました。
劉備が問いました「何をもって青徐の軍ではないと分かるのだ?」
吏が答えました「船をもって知りました(船を見ればわかります。原文「以船知之」)。」
周瑜が言いました「軍任(軍の任務)があるので、部署から離れることはできません(原文「不可得委署」。この「委」は「棄てる」の意味です)。もし威を屈することができるのなら、誠に望みにそいます(もし劉豫州が腰を低くして会いに来ることができるのなら、私の願いにそいます。原文「儻能屈威,誠副其所望」)。」
劉備は関羽と張飛に「彼は私を招こうと欲している(彼欲致我)。私は今、自ら東と結んで(身を)託した。それなのに行かなかったら、同盟の意ではない(同盟の意に反することになる)」と言い、単舸(一艘の船)に乗って周瑜に会いに行きました。
劉備が周瑜に言いました「今、曹公を拒んでおり、深く計を得ています(「曹操に対抗するに当たって、深い計があることでしょう」。または、「深い計が必要です」。原文「今拒曹公,深為得計」。あるいは、「得計」には「心意に適う」という意味があるので、ここは「今、あなたが曹操と対抗しているのは、深く劉備の心意に適っています(期待しています)」という意味かもしれません)。戦卒はどれくらいいますか(戦卒有幾)?」
周瑜が言いました「三万人です。」
しかし周瑜はこう言いました「命を受けたら妄りに部署から離れるわけにはいきません(受命不得妄委署)。もし子敬(魯粛の字)に会いたいと欲するなら、別に訪ねてください(可別過之)。また、孔明も既に共に来ており、三両日を過ぎず(ここに)到着するでしょう。」
しかし『三国志・先主伝』裴松之注が引用している『江表伝』の記述は異なり、周瑜の発言の後にこう書いています「劉備は深く恥じて周瑜を異としたが(常人ではないと思ったが)、心中では必ず北軍を破ることができるとは信じていなかったため、周瑜とは同列にならず後ろにさがり(差池在後)、二千人を率いて関羽、張飛と一緒にいて、周瑜と連係しようとはしなかった。進退の計を為したようだ。」
この記述に対して、裴松之注は孫盛の言も紹介しています「劉備は雄才でありながら必亡の地におり、呉に急を告げて奔助(奔走尽力して救援すること)を獲た。それなのに江渚を顧望(傍観)して後計(今後の打算)を抱く理由はない。『江表伝』の言は、呉人が美を専らにしよう(呉人が栄誉を独占しよう)と欲した辞(言葉)であろう。」
尚、『三国志・諸葛亮伝』は「(孫権が)周瑜、程普、魯粛等の水軍三万を派遣し、諸葛亮に従って先主(劉備)を訪ねさせ(隨亮詣先主)、力を併せて曹公(曹操)を拒んだ」と書いていますが、周瑜や程普は劉備を訪ねていないと思われます。
『三国志・諸葛亮伝』裴松之注は『袁子(魏晋の袁準の書)』から引用して、当時の諸葛亮に関する出来事を紹介しています。それによると、張子布(子布は張昭の字です)が孫権に諸葛亮に推薦しましたが、諸葛亮は留まろうとしませんでした。ある人がその理由を問うと、諸葛亮はこう言いました「孫将軍は人主といえるが(人主とみなすことができるが)、その度(度量)を観るに、亮(私)を賢才として遇すことはできても、亮の能力を尽くすことはできない(能賢亮而不能尽亮)。だから私は留まらなかったのだ(吾是以不留)。」
裴松之はこの記述に対してこう書いています「臣・松之が思うに、袁孝尼(袁準)の著文立論は甚だ諸葛の為人を重んじているが、このような言に至っては現実から遠く離れている(失之殊遠)。諸葛亮の君臣の遭遇を観るに、それはこの世にまたとない得難い出来事(希世一時)というべきであり、終始(生涯。死別)を別れとしていたので(終始以分)、誰が間を裂くことができただろう(誰能閒之)。(諸葛亮が)途中で断金(同心)に違えて、主を択ぼうという心を抱き始めるだろうか(寧有中違断金甫懐択主)。もし孫権がその量(力量、能力)を尽きさせることができるなら、翻然(迅速な様子)と去って(孫権に)就くだろうか。葛生(諸葛亮か?)の行己(身を立てて事を行うこと)がどうしてそのようであろうか(葛生行己豈其然哉)。関羽は曹公(曹操)が獲るところとなり、(曹操が)甚だ厚く遇した。その用(能力)を尽くすことができたといえる。しかしそれでも(関羽は)義によって本に背かなかった。孔明は雲長(関羽)に及ばないと言うのだろうか。」
次回に続きます。