東漢時代418 献帝(百) 赤壁の戦い 208年(10)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。
 
[十二(続き)]本文に戻ります。
周瑜が進軍して赤壁曹操と遭遇しました。
 
当時、曹操の軍衆(軍隊)では既に疾疫(疫病)が発生していました。
初めの交戦では(初一交戦)曹操軍に利がなかったため、曹操は兵を退いて江北に駐軍しました(引次江北)
 
周瑜等は南岸に陣を構えました。
周瑜の部将黄蓋が言いました「今、敵が多くて我々は少ないので、持久は困難です(寇衆我寡難與持久)曹操軍は船艦を連ねて首尾が相接しているので(船を連結させて前後が繋がっているので。原文「操軍方連船艦首尾相接」、焼いて走らせることができます。」
そこで周瑜黄蓋は蒙衝戦艦十艘を選び、燥荻(乾燥した荻草)枯柴を載せ、その中に油を注ぎ、帷幕で覆って隠しました。上に旌旗を立て、あらかじめ走舸を準備してその後ろに繋ぎます(走舸は足が速い舟です。戦艦十艘に火を点けた後、兵が帰るために走舸が準備されたのだと思います
その後、黄蓋がまず書を曹操に送り、偽って投降を欲していると伝えました。
この時、東南の風が強く吹きました(東南風急)
 
黄蓋は十艦を最前列に出し(最著前)、中江(川の中央)で帆を挙げました。他の船も全て順に前進します。
曹操軍の吏士は皆、営を出て、立ったままその様子を観ました。指をさして「黄蓋が降った」と言います。
 
黄蓋北軍曹操軍)から二里余りの場所で同時に火を点けました。火が激しく燃え上がり、風も強く吹いています(火烈風猛)。船は矢のように進み(船往如箭)北軍の舟船を全て焼き尽くしました。更に火が拡がって岸上の営落(軍営)に及びます。
暫くして炎と煙が天を覆いました(煙炎張天)。人馬で焼死溺死した者が甚だ多数に上ります。
 
周瑜等が軽鋭の兵を率いてその後に続きました。雷鳴のような戦鼓が大いに地を震わせ雷鼓大震)北軍が大壊(潰滅)します。
曹操は軍を率いて華容道から歩いて逃走しました。
資治通鑑』胡三省注によると、華容県は南郡に属します。華容道は華容県に通じる道です。
 
曹操は途中で泥濘(ぬかるみ)に遭遇して道を進めなくなりました。しかも大風も吹いています。そこで全ての羸兵(弱兵)に命じ、草を背負って泥道を埋めさせました。そのおかげで騎馬はやっと通過できましたが、羸兵は人馬に踏みつけられ、泥の中に陥り、非常に多数の死者が出ました(悉使羸兵負草填之,騎乃得過,羸兵為人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚衆)
 
資治通鑑』のこの部分は『三国志魏書一武帝紀』裴松之注を元にしています。以下、裴松之注から引用します「曹操の船艦が劉備に焼かれると、曹操は)軍を率いて華容道から歩いて帰った。そこで泥濘に遭遇し、道が通れなくなった。また、天が大風を吹かせた。曹操が)羸兵に悉く草を背負わせてこれを埋めたので、騎馬がやっと通過できた。羸兵は人馬に蹈藉され、泥中に陥り、死者が甚だ多かった。」
裴松之注はこの後にこう続けています「軍が脱出できてから、曹操が大いに喜んだ。諸将がその理由を問うと、曹操はこう言った『劉備は吾儔(私の同類)だ。しかし計を得るのが(計に気づくのが)少し晩い。もしも早く火を放っていれば、我々は助かる者がいなかっただろう(吾徒無類矣)。』劉備がすぐに火を放ったが、間に合わなかった。」
資治通鑑』は後半部分を省略しています。
 
本文に戻ります。
劉備周瑜が水陸から並進し、曹操を追って南郡に至りました。
曹操軍は飢餓と疫病が重なり(兼以饑疫)、死者が太半に上ります。
曹操は征南将軍曹仁と横野将軍徐晃を留めて江陵を守らせ、折衝将軍楽進を留めて襄陽を守らせ、自らは軍を率いて北に還りました。
資治通鑑』胡三省注によると、横野大将軍はかつて光武帝が王常を任命しました光武帝建武七年31年参照)。折衝将軍はここから始まります。
 
以上が赤壁の戦いです。
後漢書孝献帝紀』は「曹操が舟師で孫権を伐った。孫権の将周瑜が烏林赤壁で敗った」と書いています。
資治通鑑』胡三省注によると、烏林は赤壁の対岸に位置します。江北が烏林、江南が赤壁です。
 
赤壁の戦いは主に『三国志呉書九周瑜魯粛呂蒙伝』等に詳しく書かれており、『資治通鑑』もこれに従っていますが、『三国志魏書一武帝紀』は簡単にしか触れておらず、内容も若干異なります。以下、『武帝紀』からです。
「十二月、孫権劉備のために合肥を攻めた。公曹操は江陵を出て劉備を征討した。巴丘に至った時、張憙を派遣して合肥を救わせた。孫権は張憙が至ったと聞いて走った(撤退した)。公曹操赤壁に至って劉備と戦ったが、利がなかった。この時、大疫が流行って吏士に多くの死者が出たので、軍を率いて還った。こうして劉備荊州江南諸郡を有した。」
この『武帝紀』の記述に対して、裴松之は孫盛の言葉を紹介しています「『呉志周瑜伝等)』を見ると、劉備が先に公曹操の軍を破り、その後、孫権合肥を攻めている。しかしこの記述(『武帝紀』本文)では、孫権が先に合肥を攻めて、後に赤壁の事があったと言っている。二者は同じではなく、『呉志』が正しい。」
 
また、『三国志呉書二呉主伝』も「周瑜と程普が左右督になり、それぞれ一万人を率いて劉備と共に進んだ。赤壁で遭遇し、曹公曹操の軍を大破した。公曹操は残りの船を焼いて撤退した。士卒が飢疫し、死者は大半に上った」と書いており、『三国志周瑜魯粛呂蒙伝』や『資治通鑑』等と違いが見られます。
 
[十三] 『三国志呉書二呉主伝』と『資治通鑑』からです
周瑜と程普が数万の衆を率い、曹仁と長江を隔てて対峙しました。
双方が開戦する前に、甘寧が先に直進して夷陵を取ることを請いました。
甘寧は進軍してすぐに夷陵の城を取り、入城して守りを固めます。
益州の将襲粛が軍を挙げて降りました。
資治通鑑』胡三省注によると、孫権軍が夷陵を取って益州と隣接したため、襲粛が投降しました。
 
周瑜が上表し、襲粛の兵を使って横野中郎将呂蒙の兵を増やそうとしました。
資治通鑑』胡三省注によると、横野は将軍号ですが、資序(資格)が達していないため、中郎将にしたようです。
 
呂蒙は襲粛を称賛してこう言いました「襲粛は膽用(胆と能力)があり、しかも帰化を思って遠くから来ました(慕化遠来)。義においては(兵を)増やすべきであり、奪うべきではありません(於義宜益不宜奪也)。」
孫権はこの言に賛同して襲粛に兵を還しました。
 
曹仁が兵を送って夷陵の甘寧を包囲しました。
甘寧は困窮して危急に陥り、周瑜に救いを求めます。
諸将は兵が少ないため分けるには足りないと考えました。
しかし呂蒙周瑜と程普にこう言いました「凌公績(公績は凌統の字です)を江陵に留め、蒙(私)と君(あなた)が行けば、包囲を解いて危急を除くのに久しい時間は必要としません(解囲釈急,勢亦不久)。蒙(私)は公績が十日間守れることを保証します(蒙保公績能十日守也)。」
周瑜はこれに従い、凌統を留めて曹仁(主力)に対抗させ、自ら半数の兵を率いて甘寧を救いに行きました。夷陵で曹仁が派遣した兵を大破し、馬三百頭を獲て帰還します。
こうして将士の形勢(勢力、気勢)が倍増しました。
そこで周瑜は長江を渡り、北岸に駐屯して曹仁と対峙しました。
 
十二月、孫権が自ら合肥を包囲しました。
 
孫権は張昭を派遣して九江の当塗も攻撃させましたが、勝てませんでした。
三国志呉書七張顧諸葛歩伝』の裴松之注は「孫権合肥を討ち、張昭に命じて別に匡琦を討たせた」と書いています。
資治通鑑』は『三国志呉主伝』に従って「当塗」を採用しています。

 
 
次回に続きます。