東漢時代419 献帝(百一) 劉備南進 208年(11)
金旋の字は元機といい、京兆の人です。黄門郎と漢陽太守を歴任し、朝廷に召されて議郎になり、後に中郎将に遷って武陵太守を兼任しました(領武陵太守)。
金旋の子を金禕といいます。
江南を平定した劉備は諸葛亮を軍師中郎将に任命し(『資治通鑑』胡三省注によると、軍師は古の将軍号です。曹操は軍師祭酒を置き、劉備は軍師中郎将を置きました。どちらも一時的に軍事のために創設された官名です(皆以一時軍事創置官名也)。但し、軍師祭酒は軍謀を決するだけですが、中郎将は兵権を持ちました。諸葛亮は後に軍師将軍になります)、零陵、桂陽、長沙の三郡を監督させました。三郡の賦税を徴収して軍実(軍事物資)を充たします。
劉璋はこれに従います。
『三国志・魏書一・武帝紀』には、曹操が荊州を平定してから(赤壁の戦い前)、「益州牧・劉璋が始めて徵役を受け(徴兵の命令を受け入れ)、兵を派遣して(曹操の)軍に供給した」と書かれています。劉璋は張松を派遣した時に兵も送ったのかもしれません。
それでも田疇が受け入れないため、有司(官員)が田疇を弾劾して言いました「狷介(実直で孤高な者)が道に違え、軽率に小節を立てています(苟立小節)。官を免じて刑を加えるべきです。」
曹丕はこう主張しました「田疇は子文が禄を辞し、申胥が賞から逃げたのと同じです(春秋時代、楚成王が賢臣・子文に禄を与えようとしましたが、子文はそれを拒否しました。楚が呉に滅ぼされそうになった時、申包胥(申胥)が楚を救いましたが、申包胥も賞を受けませんでした)。(田疇の意志を)奪わず、そうすることでその節を称賛するべきです(宜勿奪以優其節)。」
すると田疇はこう言いました「疇(私)は義に背いて逃げ隠れした人に過ぎません(原文「負義逃竄之人耳」。『資治通鑑』胡三省注は「劉虞の讎に報いることができず、徐無山に逃亡したことを言っている」と解説しています)。恩を蒙って活きることを全うするだけで大きな幸となっています(蒙恩全活為幸多矣)。どうして盧龍の塞を売って賞禄に換えることができるでしょう。たとえ国が特別に疇(私)を遇したとして、疇(私)が心中で慚愧しないというのでしょうか(縦国私疇,疇独不愧於心乎)。将軍はかねてから疇(私)を知っていますが、それでもこのようにしています。もし必ずそうしなければならないのなら、命を捨てて(将軍の)前で首を刎ねること(自刎すること)を請い願います(請願效死刎首於前)。」
田疇は言い終わる前に泣いて顔中に涙を流しました。
曹操は田疇を屈服させることができないと知って嘆息し、議郎に任命しました。
しかし邴原はこう言って断りました「成人する前に死んだ者に嫁ぐのは礼ではありません(原文「嫁殤非礼也」。「殤」は成人前に死ぬことです)。原(私)が明公の下で身を安んじ、公が原(私)を遇しているのは、(私が)訓典を守って変えずにいられるからです(原之所以自容於明公,公之所以待原者,以能守訓典而不易也)。もしも明公の命を聴いたら凡庸になってしまいます。明公はどうしてそのようにするのでしょう(明公焉以為哉)。」
曹操はあきらめました。
孫権が威武中郎将・賀斉(『資治通鑑』胡三省注によると、賀氏は本来、慶氏でした。賀斉の伯父・慶純が安帝時代に侍中になり、安帝の父・劉慶の名を避けて賀氏に改めました)に丹陽郡下の黟・歙の賊を討伐させました。
当時、黟帥・陳僕、祖山等が率いる二万戸が林歴山に駐屯していました。
『資治通鑑』胡三省注によると、黟と歙は丹陽郡に属す県で、黟県に林歴山がありました。
林歴山は四面が絶壁だったため(四面壁立)、攻撃することができず、賀斉軍はここに駐留して月を経ました。
賀斉は秘かに軽捷の士を募り、周りから見えない険阻な場所で夜間に鉄戈を使って山を開きました。隠れて山を登り、布を懸けて下の者を引き上げます。こうして百余人が山を登ることができました。
その後、四面に分布して鼓角を鳴らすように命じます。
賊は大いに驚れ、路を守っていた者が皆、逆に走って本営に逃げ還りました(逆走還依衆)。
その隙に賀斉の大軍が山路を登ることができ、大勝しました。
孫権は歙県を分けて歙、始新、新定、犁陽、休陽県とし、そこに黟県を加えた六県を丹陽郡から離して新都郡にしました。賀斉が太守に任命されます。
次回に続きます。