東漢時代419 献帝(百一) 劉備南進 208年(11)

今回で東漢献帝建安十三年が終わります。
 
[十四] 『三国志蜀書二先主伝』『三国志蜀書五諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。
劉備が上表して劉琦を荊州刺史に任命しました。
また、兵を率いて南下し、四郡を攻略しました。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度が投降します。
廬江の営帥雷緒(営帥は軍の将帥です。雷緒は曹操が劉馥を揚州刺史にした時、劉馥に帰順しました(建安五年200年参照)。その後も自分の軍を擁していたようです)も部曲数万口を率いて劉備服従しました。
 
金旋については、『三国志先主伝』裴松之注が『三輔決録注』の記述を引用しています。
金旋の字は元機といい、京兆の人です。黄門郎と漢陽太守を歴任し、朝廷に召されて議郎になり、後に中郎将に遷って武陵太守を兼任しました(領武陵太守)
『三輔決録注』は「劉備の攻劫(攻撃侵略)によって死んだ(為備所攻劫死)」としていますが、『先主伝』本文では劉備に投降しており、『資治通鑑』も『先主伝』本文に従っています(上述)
金旋の子を金禕といいます。
 
江南を平定した劉備諸葛亮を軍師中郎将に任命し(『資治通鑑』胡三省注によると、軍師は古の将軍号です。曹操は軍師祭酒を置き、劉備は軍師中郎将を置きました。どちらも一時的に軍事のために創設された官名です(皆以一時軍事創置官名也)。但し、軍師祭酒は軍謀を決するだけですが、中郎将は兵権を持ちました。諸葛亮は後に軍師将軍になります)、零陵、桂陽、長沙の三郡を監督させました。三郡の賦税を徴収して軍実(軍事物資)を充たします。
三国志諸葛亮伝』裴松之注によると、諸葛亮は当時、臨烝に住みました。
 
偏将軍趙雲に桂陽太守を兼任させました(領桂陽太守)
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
益州劉璋曹操荊州に克った(攻略した)と聞き、別駕張松を派遣して曹操に敬意を伝えさせました。
張松の為人は背が低くて放蕩でしたが(短小放蕩)、見識があって道理に通じ、英明果断でした(識達精果)
曹操は既に荊州を平定し、劉備を走らせていたため、張松に気を留めませんでした(不復存録松)
主簿楊脩が曹操に進言して張松を招聘させましたが、曹操は聴き入れません(建安十七年・212年にも触れます)
そのため張松は怨みを抱き、帰ってから劉璋に対して、曹操との関係を絶ち、劉備と結ぶように勧めました。
劉璋はこれに従います。
 
三国志魏書一武帝紀』には、曹操荊州を平定してから赤壁の戦い前)、「益州劉璋が始めて徵役を受け(徴兵の命令を受け入れ)、兵を派遣して曹操の)軍に供給した」と書かれています。劉璋張松を派遣した時に兵も送ったのかもしれません。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
曹操は田疇の功績を追念し、前年、田疇の謙譲に同意したことを後悔してこう言いました「これは一人の志を成して王法大制を損なうことである(是成一人之志而虧王法大制也)。」
そこで再び田疇を以前の爵位(亭侯)に封じようとしました。
田疇は上書して誠意を述べ、命を懸けて受け入れないと誓いましたが(以死自誓)曹操は同意しませんでした。田疇を招いて拝受させたいと欲したため、再三再四も封侯の命が発せられます。
それでも田疇が受け入れないため、有司(官員)が田疇を弾劾して言いました「狷介(実直で孤高な者)が道に違え、軽率に小節を立てています(苟立小節)。官を免じて刑を加えるべきです。」
 
曹操は世子曹丕および大臣に命じて博議(全面的に議論すること)させました。
曹丕はこう主張しました「田疇は子文が禄を辞し、申胥が賞から逃げたのと同じです春秋時代、楚成王が賢臣子文に禄を与えようとしましたが、子文はそれを拒否しました。楚が呉に滅ぼされそうになった時、申包胥(申胥)が楚を救いましたが、申包胥も賞を受けませんでした)(田疇の意志を)奪わず、そうすることでその節を称賛するべきです(宜勿奪以優其節)。」
尚書荀彧、司隸校尉鍾繇も田疇の気持ちを汲むべきだと考えました。
しかし曹操はやはり封侯したいと思い、以前から田疇との関係が善かった夏侯惇を派遣して、その情によって諭させました。
 
夏侯惇が侯位を受けるように勧めるため、田疇の宿(住居)に行きました。しかし田疇は夏侯惇の意向を察知して何も発言しません。
夏侯惇は去る時になって頑なに田疇を招こうとしました(または「頑なに要求しました」。原文「固邀疇」)
すると田疇はこう言いました「疇(私)は義に背いて逃げ隠れした人に過ぎません(原文「負義逃竄之人耳」。『資治通鑑』胡三省注は「劉虞の讎に報いることができず、徐無山に逃亡したことを言っている」と解説しています)。恩を蒙って活きることを全うするだけで大きな幸となっています(蒙恩全活為幸多矣)。どうして盧龍の塞を売って賞禄に換えることができるでしょう。たとえ国が特別に疇(私)を遇したとして、疇(私)が心中で慚愧しないというのでしょうか(縦国私疇,疇独不愧於心乎)。将軍はかねてから疇(私)を知っていますが、それでもこのようにしています。もし必ずそうしなければならないのなら、命を捨てて(将軍の)前で首を刎ねること自刎すること)を請い願います(請願效死刎首於前)。」
田疇は言い終わる前に泣いて顔中に涙を流しました。
 
夏侯惇は帰ってから詳しく曹操に報告しました。
曹操は田疇を屈服させることができないと知って嘆息し、議郎に任命しました。

[十七] 『資治通鑑』からです。
曹操の幼子曹倉舒が死にました。
三国志魏書二十武文世王公伝』によると、倉舒は鄧哀王曹沖の字で、十三歳でした。
 
曹操は曹沖の死を非常に傷惜(悲傷哀惜)しました。
司空掾邴原の娘が早くに死んだため、曹操は曹沖との合葬を求めようとしました。
しかし邴原はこう言って断りました「成人する前に死んだ者に嫁ぐのは礼ではありません(原文「嫁殤非礼也」。「殤」は成人前に死ぬことです)。原(私)が明公の下で身を安んじ、公が原(私)を遇しているのは、(私が)訓典を守って変えずにいられるからです(原之所以自容於明公,公之所以待原者,以能守訓典而不易也)。もしも明公の命を聴いたら凡庸になってしまいます。明公はどうしてそのようにするのでしょう(明公焉以為哉)。」
曹操はあきらめました。
 
[十八] 『三国志呉書二呉主伝』と『資治通鑑』からです。
孫権が威武中郎将賀斉(『資治通鑑』胡三省注によると、賀氏は本来、慶氏でした。賀斉の伯父・慶純が安帝時代に侍中になり、安帝の父劉慶の名を避けて賀氏に改めました)に丹陽郡下の黟歙の賊を討伐させました。
 
当時、黟帥陳僕、祖山等が率いる二万戸が林歴山に駐屯していました。
資治通鑑』胡三省注によると、黟と歙は丹陽郡に属す県で、黟県に林歴山がありました。
 
林歴山は四面が絶壁だったため(四面壁立)、攻撃することができず、賀斉軍はここに駐留して月を経ました。
賀斉は秘かに軽捷の士を募り、周りから見えない険阻な場所で夜間に鉄戈を使って山を開きました。隠れて山を登り、布を懸けて下の者を引き上げます。こうして百余人が山を登ることができました。
その後、四面に分布して鼓角を鳴らすように命じます。
賊は大いに驚れ、路を守っていた者が皆、逆に走って本営に逃げ還りました(逆走還依衆)
その隙に賀斉の大軍が山路を登ることができ、大勝しました。
 
孫権は歙県を分けて歙、始新、新定、犁陽、休陽県とし、そこに黟県を加えた六県を丹陽郡から離して新都郡にしました。賀斉が太守に任命されます。
この新都郡六県は『三国志呉主伝』の記述で、『資治通鑑』胡三省注は「歙、徙新(『呉主伝』では「始新」)、新定、休陽、黎陽(『呉主伝』では「犁陽」)、黟」としています。
また、『三国志呉書十五賀全呂周鍾離伝』では「歙、始新、新定、黎陽(『呉主伝』では「犁陽」)、休陽、黟県」となっています。
三国志呉主伝』裴松之注と『資治通鑑』胡三省注によると、晋代になって新定県は遂安県に、休陽県は海寧県に、新都郡は新安郡に改名されます。
 
 
 
次回に続きます。