東漢時代420 献帝(百二) 合肥の戦い 209年
己丑 209年
軽舟を作り、水軍を治めました。
以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。
孫権は軽騎を率いて自ら突撃しようとします。
長史・張紘が諫めて言いました「兵器とは凶器であり、戦とは危険なことです(夫兵者凶器,戦者危事也)。今、麾下(将帥。孫権を指します)は盛壮の気を持って強暴な虜(敵)を軽視しているので、三軍の衆で心を寒くしない者はいません(惧れて心配しない者はいません。原文「莫不寒心」)。たとえ(敵の)将を斬って旗を抜き、威が敵陣を震わせたとしても(斬将搴旗威震敵場)、これは偏将の任であり、主将の宜(主将として相応しいこと)ではありません。賁・育(孟賁・夏育。古代の勇士)の勇を抑え、霸王の計を抱くことを願います。」
孫権は中止しました。
『三国志・魏書十四・程郭董劉蒋劉伝』によると、当時は曹操の大軍が荊州を征討して疾疫に遭ったばかりだったため、将軍・張喜に千騎だけを率いさせ、まず汝南に行って兵を受け取ってから(過領汝南兵)包囲を解きに向かわせました。しかし張喜軍でも疾疫が流行っていました。
『資治通鑑』に戻ります。
揚州別駕・楚国の人・蒋済が秘かに刺史に建議しました。張喜の書を得たふりをして歩騎四万が既に雩婁(『資治通鑑』胡三省注によると、雩婁県は廬江郡に属します)に至ったと宣言し、主簿を送って張喜を迎え入れるように勧めます。
「建安十三年,孫権率衆囲合肥。時大軍征荊州遇疾疫,唯遣将軍張喜単将千騎過領汝南兵以解囲頗復疾疫。(蒋)済乃密白刺史偽得喜書,云歩騎四万已到雩婁,遣主簿迎喜。三部使齎書語城中守将,一部得入城,二部為賊所得。権信之,遽焼囲圍走,城用得全。」
『資治通鑑』の原文も併記します。
まず、『三国志・魏書十四・程郭董劉蒋劉伝』は建安十三年(前年)に書いていますが、『三国志・魏書一・武帝紀』では前年十二月に孫権が合肥を包囲しており、『三国志・呉書二・呉主伝』には「月を越えても下せなかった(踰月不能下)」とあるので、孫権が合肥を包囲したのは前年ですが、撤退したのは本年の事です。
次に、蒋済が揚州刺史に計策を進言しましたが、この刺史が誰かはわかりません。建安五年(200年)に曹操が劉馥を揚州刺史に任命しましたが、『三国志・魏書十五・劉司馬梁張温賈伝』を見ると劉馥は建安十三年(208年。前年)に死んでおり、その後に孫権が十万の衆を率いて合肥城を包囲しています。
最も理解しがたいのは「蒋済がどこにおり、使者がどこからどこに派遣されたか」です。
劉馥は揚州刺史に任命された時、合肥を治所にしました(建安五年・200年参照)。ということは、孫権が合肥を包囲した時、揚州刺史(誰かは不明)と揚州別駕・蒋済は合肥城内にいたはずです。その場合は、援軍が迫っているという偽りの書を持った使者は合肥城内で準備された者達で、一度秘かに城外に出され、外から来たふりをして城内に入ったと考えられます。
辛未、曹操が令を発しました「近来、軍がしばしば征行し、あるいは疫気に遇い、吏士が死亡して帰らず、家族が長期離別し(家室怨曠)、百姓が流離している。仁者がこのような状況を楽しむだろうか(仁者が喜んでこのようにさせるだろうか。原文「仁者豈楽之哉」)。やむを得なかったのである(不得已也)。よって令を下す。死者の家(家族)に基業(事業。家業)がなく、自存できない者に対して、県官は廩(食糧の供給)を絶ってはならない。長吏は存卹撫循(愛情をかけて慰安すること)して我が意に符合させよ(以称吾意)。」
十二月、曹操軍が譙に還りました。
『三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』には具体的な年が書かれていませんが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、繁欽(曹操の主簿。『三国志・魏書二十一・王衛二劉傅伝』に記述があります)の『征天山賦』が灊・六の割拠と張遼の治兵(出兵)を「建安十四年十二月甲辰」の事としているので、『資治通鑑』はここに書いています。
孫権は周瑜に南郡太守を兼任させて(領南郡太守)江陵に屯拠させ(江陵に駐屯して拠点にさせ)、程普に江夏太守を兼任させて(領江夏太守)沙羡を治めさせ(沙羡を郡の治所にさせ)、呂範に彭沢太守を兼任させ(領彭沢太守。『資治通鑑』胡三省注によると、呂範は領彭沢太守になり、彭沢、柴桑、歴陽を奉邑(俸禄とする租税を得る地)にしました)、呂蒙に尋陽令を兼任させました(領尋陽令)。
『資治通鑑』胡三省注によると、南岸の地は零陵、桂陽、武陵、長沙の四郡を指します(この四郡は劉備が占拠しましたが、孫権から借りたことになっていたようです。建安二十年・215年に孫権が劉備に荊州諸郡の返還を要求しますが、劉備が応じないため、孫権が長沙、零陵、桂陽の三郡に長吏を置きます)。
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、公安は南郡と武陵の境に位置します。
孫権の妹は才智・性格が敏捷剛猛(才捷剛猛)で、諸兄(孫策・孫権)の気風がありました。侍婢百余人が皆、刀を持って侍立(立ったまま目上の者に侍ること)していたため、劉備は(部屋に)入る度に、心中が常に凜凜(畏れる様子)としました。
蒋幹は才辨(才智と弁論の能力)によって江・淮の間で独歩していました(「独歩」は並ぶ者がいないという意味です。江・淮の人士で才辨が蒋幹に勝る者はいませんでした)。
全て観終わってから、戻って酒宴を開き、その席で侍者や服飾・珍玩の物を見せました。
そこで周瑜が蒋幹に言いました「丈夫が処世するにおいて(大丈夫がこの世で生きる際)、知己の主に遇い、外は君臣の義に託し、内は骨肉の恩を結び、言が行われて計が採用され(原文「言行計従」。深く信用されるという意味です)、禍福を共にしていたら、たとえ蘇・張(蘇秦・張儀)が更生したとしても(弁論に巧みな者が再び生まれたとしても)、その意思を動かすことができるだろうか(能移其意乎)。」
蒋幹はただ笑うだけで最後まで何も言えませんでした(終無所言)。
次回に続きます。