東漢時代420 献帝(百二) 合肥の戦い 209年

今回は東漢献帝建安十四年です。
 
東漢献帝建安十四年
己丑 209
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、曹操軍が譙に至りました赤壁から帰還しました)
軽舟を作り、水軍を治めました。
 
[] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。
孫権が城合肥を攻めて月を越えましたが、下せませんでした。
曹操荊州から還ると、張喜に騎兵を率いて合肥に赴かせました。(張喜が)至る前に孫権は退きました。
 
以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。
孫権合肥を包囲しましたが(前年)、久しく攻略できませんでした。
孫権は軽騎を率いて自ら突撃しようとします。
長史・張紘が諫めて言いました「兵器とは凶器であり、戦とは危険なことです(夫兵者凶器,戦者危事也)。今、麾下(将帥。孫権を指します)は盛壮の気を持って強暴な虜()を軽視しているので、三軍の衆で心を寒くしない者はいません(惧れて心配しない者はいません。原文「莫不寒心」)。たとえ(敵の)将を斬って旗を抜き、威が敵陣を震わせたとしても(斬将搴旗威震敵場)、これは偏将の任であり、主将の宜(主将として相応しいこと)ではありません。賁・育(孟賁・夏育。古代の勇士)の勇を抑え、霸王の計を抱くことを願います。」
孫権は中止しました。
 
曹操が将軍張喜を派遣し、兵を率いて包囲を解かせようとしましたが、張喜は久しくしても合肥に到着しませんでした。
三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』によると、当時は曹操の大軍が荊州を征討して疾疫に遭ったばかりだったため、将軍張喜に千騎だけを率いさせ、まず汝南に行って兵を受け取ってから(過領汝南兵)包囲を解きに向かわせました。しかし張喜軍でも疾疫が流行っていました。
 
資治通鑑』に戻ります。
揚州別駕楚国の人蒋済が秘かに刺史に建議しました。張喜の書を得たふりをして歩騎四万が既に雩婁(『資治通鑑』胡三省注によると、雩婁県は廬江郡に属します)に至ったと宣言し、主簿を送って張喜を迎え入れるように勧めます。
また、使者を三部に分けて書を持たせ、城中の守将に(援軍が来たことを)告げさせました。一部は城に入ることができましたが、二部は孫権の兵に捕まります。
孫権はその内容曹操軍の援軍が迫っていること)を信じ、急いで包囲(攻城の兵器や陣営)を焼いて走りました(遽焼囲走)
 
この『資治通鑑』の記述は理解が少し困難です。元になっている『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』の原文を載せます。
「建安十三年,孫権率衆囲合肥。時大軍征荊州遇疾疫,唯遣将軍張喜単将千騎過領汝南兵以解囲頗復疾疫。(蒋)済乃密白刺史偽得喜書,云歩騎四万已到雩婁,遣主簿迎喜。三部使齎書語城中守将,一部得入城,二部為賊所得。権信之,遽焼囲圍走,城用得全。」
 
資治通鑑』の原文も併記します。
曹操遣将軍張喜将兵解囲久而未至。揚州別駕楚国蒋済密白刺史偽得喜書,云歩騎四万已到雩婁,遣主簿迎喜。三部使齎書語城中守将,一部得入城,二部為権兵所得。権信之,遽焼囲走。」
 
まず、『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』は建安十三年(前年)に書いていますが、『三国志魏書一武帝紀』では前年十二月に孫権合肥を包囲しており、『三国志呉書二呉主伝』には「月を越えても下せなかった(踰月不能下)」とあるので、孫権合肥を包囲したのは前年ですが、撤退したのは本年の事です。
 
次に、蒋済が揚州刺史に計策を進言しましたが、この刺史が誰かはわかりません。建安五年200年)曹操が劉馥を揚州刺史に任命しましたが、『三国志魏書十五劉司馬梁張温賈伝』を見ると劉馥は建安十三年208年。前年)に死んでおり、その後に孫権が十万の衆を率いて合肥城を包囲しています。
三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』では、孫権合肥の包囲を解いた後に、温恢が揚州刺史に任命されています。
劉馥が死んでから温恢が刺史に任命されるまでの間合肥の戦いの期間)、誰が刺史を勤めたのかは不明です。あるいは温恢が刺史を代行していたのかもしれません。
 
最も理解しがたいのは「蒋済がどこにおり、使者がどこからどこに派遣されたか」です。
劉馥は揚州刺史に任命された時、合肥を治所にしました(建安五年200年参照)。ということは、孫権合肥を包囲した時、揚州刺史(誰かは不明)と揚州別駕蒋済は合肥城内にいたはずです。その場合は、援軍が迫っているという偽りの書を持った使者は合肥城内で準備された者達で、一度秘かに城外に出され、外から来たふりをして城内に入ったと考えられます。
あるいは、当時の治所は合肥ではなく、揚州刺史と蒋済は合肥の外から使者を送ったのかもしれません。その場合、揚州の治所がどこだったのかは分かりません。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、曹操が水軍を率いて渦水から淮水に入り、肥水に出て合肥に駐軍しました。
 
辛未、曹操が令を発しました「近来、軍がしばしば征行し、あるいは疫気に遇い、吏士が死亡して帰らず、家族が長期離別し(家室怨曠)、百姓が流離している。仁者がこのような状況を楽しむだろうか(仁者が喜んでこのようにさせるだろうか。原文「仁者豈楽之哉」)。やむを得なかったのである(不得已也)。よって令を下す。死者の家(家族)に基業(事業。家業)がなく、自存できない者に対して、県官は廩(食糧の供給)を絶ってはならない。長吏は存卹撫循(愛情をかけて慰安すること)して我が意に符合させよ(以称吾意)。」
 
曹操が揚州郡県の長吏を置き、芍陂を開いて屯田を始めました(開芍陂屯田
 
芍陂は水利施設(巨大な溜池)です。曹操はこれを屯田に利用しました。
資治通鑑』胡三省注によると、芍陂は寿春県の南八十里に位置し、陂(池)の周囲は約百二十里ありました。春秋時代、楚相・孫叔敖によって造られました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、荊州地震がありました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、曹操軍が譙に還りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
廬江の人陳蘭と梅成が灊と六を拠点にして叛しました(『資治通鑑』胡三省注によると、灊と六の二県とも廬江郡に属します)
曹操は盪寇将軍張遼を送って討伐させ、これを斬りました。
 
三国志魏書十七張楽于張徐伝』には具体的な年が書かれていませんが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、繁欽曹操の主簿。『三国志魏書二十一王衛二劉傅伝』に記述があります)の『征天山賦』が灊六の割拠と張遼の治兵(出兵)を「建安十四年十二月甲辰」の事としているので、『資治通鑑』はここに書いています。
 
曹操はこれを機に張遼および楽進、李典等を派遣し、七千余人を率いて合肥に駐屯させました。
 
[] 『三国志・蜀書二・先主伝』裴松之注含む)、『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
前年、周瑜曹仁を攻撃しました。双方が対峙して一年余りが経ち、曹仁軍で)殺傷された者が甚だ多かったため、曹仁は城を棄てて走りました。
 
孫権周瑜に南郡太守を兼任させて(領南郡太守)江陵に屯拠させ(江陵に駐屯して拠点にさせ)、程普に江夏太守を兼任させて(領江夏太守)沙羡を治めさせ(沙羡を郡の治所にさせ)、呂範に彭沢太守を兼任させ(領彭沢太守。『資治通鑑』胡三省注によると、呂範は領彭沢太守になり、彭沢、柴桑、歴陽を奉邑(俸禄とする租税を得る地)にしました)呂蒙に尋陽令を兼任させました(領尋陽令)
 
劉備が上表して孫権を行車騎将軍・領徐州牧(車騎将軍代行・徐州牧兼任)にしました。
ちょうど荊州牧・劉琦が死んだため、群下(恐らく劉琦と劉備の群臣)劉備荊州牧に推しました。
そこで、孫権劉備荊州牧を兼任させ(領荊州牧)周瑜が南岸の地を分けて劉備に与えました。
資治通鑑』胡三省注によると、南岸の地は零陵、桂陽、武陵、長沙の四郡を指します(この四郡は劉備が占拠しましたが、孫権から借りたことになっていたようです。建安二十年・215年に孫権劉備荊州諸郡の返還を要求しますが、劉備が応じないため、孫権が長沙、零陵、桂陽の三郡に長吏を置きます)
 
劉備は油江口(「油口」ともいいます。油水が長江に合流する場所です)に営を築き、公安に改名しました。
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、公安は南郡と武陵の境に位置します。
 
孫権はしだいに劉備を畏れるようになったため、妹を劉備に嫁がせて友好関係を固めました。
三国志・先主伝』ではここで劉備が京に至って孫権に会っていますが、『資治通鑑』では翌年に劉備が京に行って領土の拡張を求めます(再述します)
 
孫権の妹は才智性格が敏捷剛猛(才捷剛猛)で、諸兄孫策孫権の気風がありました。侍婢百余人が皆、刀を持って侍立(立ったまま目上の者に侍ること)していたため、劉備(部屋に)入る度に、心中が常に凜凜(畏れる様子)としました。
 
曹操が秘かに九江の人蒋幹を派遣し、周瑜に遊説させました。
蒋幹は才辨(才智と弁論の能力)によって江淮の間で独歩していました(「独歩」は並ぶ者がいないという意味です。江淮の人士で才辨が蒋幹に勝る者はいませんでした)
蒋幹は布衣(庶民の服)葛巾(葛布の頭巾)を身につけ、私行(私人としての行動)という名目で周瑜を訪ねました。
 
周瑜が出迎えて立ったまま蒋幹に言いました「子翼(蒋幹の字)よ、ご苦労だった(子翼良苦)。遠く江湖を渡って来たのは、曹氏のために説客になったのか(遠渉江湖,為曹氏作説客邪)。」
周瑜はそのまま蒋幹を招き、共に営内を回って参観させたり、倉庫、軍資、器仗(武器)を巡視しました。
全て観終わってから、戻って酒宴を開き、その席で侍者や服飾珍玩の物を見せました。
そこで周瑜が蒋幹に言いました「丈夫が処世するにおいて(大丈夫がこの世で生きる際)、知己の主に遇い、外は君臣の義に託し、内は骨肉の恩を結び、言が行われて計が採用され(原文「言行計従」。深く信用されるという意味です)、禍福を共にしていたら、たとえ蘇蘇秦張儀が更生したとしても(弁論に巧みな者が再び生まれたとしても)、その意思を動かすことができるだろうか(能移其意乎)。」
蒋幹はただ笑うだけで最後まで何も言えませんでした(終無所言)
 
蒋幹は還ってから曹操に報告し、「周瑜は雅量高致(度量が大きく情緒が高尚なこと)で、言辞では離間させることができません」と称賛しました。
 
 
 
次回に続きます。