東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1)

今回は東漢献帝建安十五年です。三回に分けます。
 
東漢献帝建安十五年
庚寅 210
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
当時は崔琰と毛玠が選挙を管理しており、品行を重視して清正の士を推挙していました(建安十三年208年参照)
 
丞相掾・和洽が曹操に言いました「天下の人は材徳(才能と品徳)がそれぞれ異なるので、一節(一つの基準)によって取るべきではありません。度を過ぎた倹素は、自分の身に対するのなら問題ありませんが、それによって他者の行為まで正したら、あるいは失うものが多くなります(倹素過中自以処身則可,以此格物所失或多)。今は朝廷の議において、吏(官吏)で新衣を着て好車(良い車)に乗る者がいたら、それを不清(清廉ではない)と言っています。形容(外貌)を飾らず、衣裘(四季の衣服)が敝壊(古くて痛んでいること)している者がいたら、それを廉潔と言っています。そのため、士大夫には故意にその衣服を汚して(原文「故汙辱其衣」。この「汙辱」は「汚す」の意味です)、その輿服(車服)をしまわせるようになっており、朝府の大吏でも、ある者は自ら壺飧(食物)を持って官寺(官署)に入っています。教化を立てて風俗を観察する時、貴ぶべきは中庸にあることで、そうすれば継続することができます(夫立教観俗,貴処中庸,為可継也)。今は一概に堪えがたい行動を尊重し、そうすることで異なる道の者を拘束していますが(崇一概難堪之行以検殊塗)、強制してこれを為したら、必ず疲瘁(欠陥。混乱)が生まれます。古の大教は、人情(人が普通にもつ感情。世情)に通じようと務めただけでした。凡そ激詭の行(過度に世情から離れた行為)とは隠偽(虚偽。隠れた姦邪)を許容することになるものです。」
曹操はこの意見を称賛しました。
 
春、曹操が令を下しました「古より、受命および中興の君(開国と中興の君主)で、賢人君子を得て彼等と共に天下を治めなかった者がいたであろうか(曷甞不得賢人君子與之共治天下者乎)。賢を得るに及んで、閭巷(街道・郷里。民間)に出たことがないのに、どうして幸いにも(賢人に)遭遇できるのだ(豈幸相遇哉)。上の人がそれを求めていないだけである(賢人を得られないのは上にいる者が求める努力をしていないからだ)。今、天下はなお定まっておらず、これは特に賢を求める急時である。孟公綽は趙・魏の老(家老。家臣の長)になったら余裕があったら、滕・薛の大夫になることはできなかった(原文「孟公綽為趙魏老則優,不可以為滕薛大夫」。孟公綽は春秋時代・魯の大夫で、趙・魏は大国・晋の卿です。滕・薛は小国です。大国には余裕があるため、趙・魏の家老という立場なら優れた品行が求められるだけでしたが、小国は余裕がなくて政務が多忙だったため、孟公綽では務まりませんでした。胡三省は孟公綽を「清廉で欲が少なかったが、才(能力)は欠けていた(廉静寡欲而短於才)」と書いています)。もしも必ず廉潔の士であってから用いるとしたら(廉潔の士でなければ用いることができないとしたら)、斉桓公はどうして世に覇を称えられただろう(原文「若必廉士而後可用,則斉桓其何以霸世」。管仲は清廉とはいえませんでしたが、斉桓公管仲を信任して覇者になりました)。今、天下には被褐懐玉(粗末な服を着て玉を懐に入れていること。外見は貧困でも優れた能力を持っていることの比喩です)して渭濱で釣りをしている者西周建国の功臣・呂尚を指します)はいないのか。また、盗嫂受金(嫂と姦通したり賄賂を受け取ること)してまだ無知(魏無知)に遇っていない者西漢建国の功臣・陳平を指します。魏無知によって劉邦に推挙されました)はいないのかしました。二三子(諸君)は私を輔佐して仄陋(卑賎の者)でも明揚(推挙)せよ(二三子其佐我明揚仄陋)。才(能力)ありさえすれば推挙することにし、私は彼等を得て任用しよう(唯才是挙,吾得而用之)。」
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月乙巳朔、日食がありました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、曹操が鄴に銅爵台を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、銅爵台は鄴城西北にあり、城壁を利用して建てられました。高さ十丈で百余間の部屋がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
十二月己亥(中華書局『白話資治通鑑』は「己亥」を恐らく誤りとしています)曹操が令を下しました「孤(私)が始め孝廉に挙げられた時曹操は二十歳で孝廉に挙げられて郎になりました)、元々巖穴知名の士(隠遁して名声がある士)ではなかったので、恐らく世人から凡愚とみなされることになると思い、好く政教(政治と教化)を為すことで名誉を立てようと欲した(欲好作政教以立名誉)。だから済南にいた時は、残(暴虐)を除いて穢(姦悪)を去り、平心(公平な心)によって選挙を行った(済南相になった時の事です)。しかしそれが強豪に忿怒されることになり(以是為強豪所忿)、家に禍をもたらすことを恐れたので、病を理由に郷里に還った。当時は年がまだ若かったので(年紀尚少)、譙から東五十里に精舍(学舎。書斎)を築き、秋夏に読書して冬春に射猟を行い、これを二十年の計画として、天下が清まるのを待ってから出仕しようと欲したのである(欲秋夏読書冬春射猟為二十年規,待天下清乃出仕耳)。しかし如意を得ることはできず(意の通りにすることはできず)、徵されて(召されて)典軍校尉になった。そこで意を改め、国家のために賊を討って功を立てようと欲した。墓道に題して『漢故征西将軍曹侯之墓』と書かれる、これが(当時の)志だった。
ちょうど董卓の難に遭値(遭遇)したので、義兵を興挙した。後には兗州を領し(兗州牧になり)、黄巾三十万の衆を破って降した。また、袁術を討撃し、窮沮(困窮挫折)して死なせた。袁紹を摧破(撃破)してその二子を梟した(首を斬って曝した)。そして劉表を定め、ついに天下を平らげた。身は宰相になり、人臣の貴が既に極まって、意望を既に過ぎた(既に願いを超越した)
もしも国家に孤(私)がいなかったら、幾人が帝を称し、幾人が王を称したか分からない(不知当幾人称帝,幾人称王)。あるいは、人が孤(私)の強盛を見て、また性(その人の性格)が天命を信じないため、妄りに忖度(推測)して、(私に)不遜の志(簒奪の野心)があると言う恐れがあり、(私は)いつも耿耿(不安な様子)としている(恐妄相忖度言有不遜之志,每用耿耿)。よって諸君のためにこの言を陳道(陳述)した。皆、肝鬲の要(心中の重要な思い)である。
しかしこれによって孤(私)に管理している兵衆を放棄させ、そうすることで執事(実権)を還し、武平侯国に帰らせようと欲するのは、実にできないことだ(然欲孤便爾委捐所典兵衆以還執事,帰就武平侯国,実不可也)。それはなぜか(何者)。自分が兵権から離れた後、人に害されることを誠に恐れるからだ(誠恐己離兵為人所禍)。既に子孫のために計っており、また、私自身が敗れたら国家が傾危(転覆)するので、虚名を慕って実禍に身を置くようなことはできないのである(不得慕虚名而処実禍也)
とはいえ、四県を兼封され、食戸が三万に上るのは、どのような徳が堪えられるであろう(私にはそれほどの徳はない。原文「何徳堪之」)。江湖(南方。孫権劉備がまだ静かではないので、位(官位)を譲ることはできないが、邑土に至っては辞すことができる。今、陽夏・柘・苦の三県、戸二万を上還(返上)し、ただ武平の万戸を食(食邑)とすることで、とりあえず謗議を分損して孤の責を少減させることにする。」
資治通鑑』胡三省注によると、武平、陽夏、柘、苦の四県とも陳国に属します。
 
曹操によるこの令は『譲県自明本志令(県を譲って自ら本志を明らかにする令)』または『述志令(志を述べる令)』と呼ばれています。ここで紹介した『資治通鑑』の内容は要約したもので、全文は『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注に見られます(『魏武故事』からの引用です)。別の場所で紹介します。

東漢時代 譲県自明本志令(述志令)

 
 
 
次回に続きます。