東漢時代422 献帝(百四) 周瑜の死 210年(2)

今回は東漢献帝建安十五年の続きです。
 
[] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
劉表の旧吏士で北軍曹操軍)に従わされていた者の多くが曹操に叛して劉備に帰順しました。
劉備周瑜から与えられた地が狭く、その衆を収容するには足りないため、自ら京(『資治通鑑』胡三省注によると「京口城」を指します。孫権が住んでいました。後に孫権は秣陵を都とし、京口には京督を置きました。または徐陵督ともいいます)を訪ねて孫権に会い、荊州を都督(総領。監督)することを求めました。
 
資治通鑑』胡三省注が解説しています。荊州には八郡があり、既に周瑜が江南四郡を劉備に与えていました。今回、劉備は長江漢水の間に位置する四郡も得ようとしました。
 
尚、『三国志・先主伝』は劉備孫権の妹を娶った後(前年)に「先主劉備が京に至って孫権に会った。双方は深く睦みった(原文「綢繆恩紀」。「綢繆」は「睦みあうこと」「慣れ親しむこと」、「恩紀」は「恩情」です)」と書いていますが、ここは『資治通鑑』に従いました。あるいは、本年になって劉備孫権の妹を迎えに行き、併せて領土を求めたのかもしれません。
 
周瑜孫権に上疏(上書)しました「劉備は梟雄の姿をもってし、しかも関羽張飛という熊虎の将がいるので、決して久しく屈して人に用いられる者ではありません(必非久屈為人用者)。私が大計を思うに(愚謂大計)劉備を移して呉に置き、彼のために盛んに宮室を築き、美女玩好を多くしてその耳目を楽しませるべきです(娯其耳目)。また、この二人関羽張飛を分けてそれぞれ一方に置き、瑜(私)のような者に彼等を統率させて共に攻戦できるようにすれば、大事を定めることができます関羽張飛を分けてから、周瑜のような者が彼等を指揮できるようになれば、大事を成し遂げられます。原文「分此二人各置一方,使如瑜者得挟與攻戦,大事可定也」)今は妄りに多くの土地を割いて業劉備の大業、覇業)を助けていますが(猥割土地以資業之)、この三人が集まって疆埸(辺界。戦場)にいたら、恐らく蛟龍が雲雨を得たのと同じで、最後は池の中の物ではなくなるでしょう。」
呂範も劉備を留めるように勧めました。
しかし孫権曹操が北におり、広く英雄を集めるべきだと考えたため、二人の意見に従いませんでした。
 
劉備は公安に還って久しくしてからこのことを聞き、嘆息して「天下の智謀の士は、見るところがほとんど同じだ(所見略同)。当時、孔明が孤(私)に行くべきではないと諫めたが、その意もこれを憂慮したのだ。孤(私)は正に危急の中にあり、行かなければならなかったが、これは誠に険塗(危険な道)であり、危うく周瑜の手から免れられなくなるところだった」と言いました。
 
三国志・先主伝』裴松之注によると、劉備は京から還る時、左右の者に「孫車騎(車騎将軍・孫権は上が長く下が短いので、(人の)下に為るのは難しい(原文「長上短下其難為下」。「長上短下」は上半身が長くて脚が短いことです。このような者は、座ったら高大に見えますが、立ったら背が低くなるので、常に座って人に会おうとします。よって、「長上短下」は「人より上の立場にいて、座ったまま部下を接見する人物」を意味します)。吾(私)は再び彼に会うべきではない(不可以再見之)」と言って、昼夜兼行しました。
 
裴松之はここでこう書いています「『魏書』は劉備孫権の語(会話)を載せているが、『蜀志』が述べる諸葛亮孫権による語(会話)とまさに同じだ。劉備は、魏軍を破る前にはまだ孫権と会ったことがないので、この説があるはずがない(この説は正しくない)。よって『蜀志』が正しいとわかる。」
裴松之のこの注釈は恐らく赤壁の戦い以前の記述に関係するもので、ここに書かれているのは後世の伝書時の誤りが原因ではないかと思われます。
 
本文に戻ります。
周瑜が京を訪ねて孫権に会い、こう言いました「今、曹操は敗れたばかりで、憂いが腹心にあるので(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。曹操赤壁の敗戦で威望が損なわれたため、中国(中原)の人の中に敗戦に乗じて謀反する者がいるのではないかと憂いました)、将軍と兵を連ねて交戦することができません(原文「未能與将軍連兵相事也」。「相事」は互いに戦事を行うことです)(私が)奮威(奮威将軍孫瑜。下述します)と共に進み、蜀を取って張魯を併合し、それを機に奮威を留めてその地を固守させ、馬超と結援(同盟)し、瑜(私)は還ってから将軍と共に襄陽を拠点にして曹操に迫ることを乞います。こうすれば北方を図ることができます。」
孫権はこれに同意しました。
奮威将軍は孫堅の弟の子に当たる丹陽太守孫瑜です。
 
周瑜は出征の準備をするために江陵に還ろうとしましたが、道中で病に倒れて重症になりました。
周瑜孫権に牋(信書。上書)を送りました「(命の)脩短(長短)は天命なので、誠に惜しむには足りません(脩短命矣,誠不足惜)。ただ微志をまだ展開できず、教命孫権の命令)を奉じられなくなったことを恨むだけです(但恨微志未展不復奉教命耳)。今は曹操が北におり、疆埸(辺界)が静かになっていません。また、劉備が寄寓しているのは、虎を養っているようなものです(有似養虎)。天下の事はまだ終始(結末)が分からず、これは朝士が食事を遅らせてでも職務に励む時であり(此朝士旰食之秋)、至尊孫権が絶えず思慮する時でもあります(至尊垂慮之日也)魯粛は忠烈で、事に臨んで疎かにしないので(臨事不苟)、瑜(私)に代わることができます。もし進言が採用されるなら、瑜(私)は死んでも不朽です(儻所言可采瑜死不朽矣)。」
周瑜は巴丘で死にました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、この巴丘は巴陵を指すようです。西晋武帝の時代に巴陵県が置かれ、南宋文帝の時代に巴陵郡に、更に後に岳州になります(現在の岳陽です)
三国志呉書九周瑜魯粛呂蒙伝』によると、周瑜は三十六歳でした。何年に死んだかは明記されていませんが、周瑜孫策と同じ歳で、孫策は建安五年200年)に二十六歳で死んだので、三十六歳の周瑜は本年(建安十五年)に死んだと分かります。
 
孫権周瑜の死を聞いて哀慟し、こう言いました「公瑾周瑜の字)には王佐の資(帝王を輔佐する資質、才能)があった。今、突然短命で死んだが、孤(私)は何に頼ればいいのだ(今忽短命孤何賴哉)。」
孫権は自ら蕪湖で周瑜の喪(霊柩)を迎えました。
資治通鑑』胡三省注によると、蕪湖県は丹陽郡に属します。
 
周瑜には一女と二男がいました。
孫権は長子孫登に周瑜の娘を娶らせ、周瑜の息子・周循を騎都尉に任命して孫権の娘を娶らせ、周胤を興業都尉に任命して宗女(宗族の女性)を娶らせました。
 
以前、周瑜孫策に会って友人になったので、太夫(呉夫人。孫権の母)孫権に命じて兄として周瑜を敬わせました。
当時、孫権の位は将軍に過ぎなかったので、諸将や賓客が行う礼はまだ簡単でしたが、周瑜だけは率先して敬を尽くし、臣節(臣下としての礼節)を持って孫権に仕えました。
程普は周瑜より年がかなり上だったため、しばしば周瑜を陵侮(侮って虐げること)しました。しかし周瑜は節を曲げて程普の下になり、最後まで対抗しませんでした。
後に程普は自ら敬服して親重し、人にこう告げました「周公瑾と交わるのは、醇醪(美酒)を飲むようなもので、知らないうちに自ら酔ってしまう(若飲醇醪不覚自酔)。」
 
孫権魯粛を奮武校尉に任命し、周瑜に代わって兵を統領させました。
また、程普に南郡太守を兼任させました(領南郡太守)
 
魯粛荊州劉備に貸して共に曹操を拒むように孫権に勧めました。
孫権はこれに従います。
三国志呉書九周瑜魯粛呂蒙伝』は、「曹公曹操孫権が土地を使って劉備に業を成させた劉備が大事を為すために、孫権が土地を与えた。原文「権以土地業備」)と聞き、文書を書いているところだったが、筆を地に落としてしまった」と書いています。しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「恐らく曹操がそこまで動揺することはない(恐操不至於是)」と解説しています。
 
孫権は豫章を分けて鄱陽郡(番陽郡)を置き、長沙を分けて漢昌郡を置きました(長沙は劉備が治めていますが、孫権が貸したことになっているため、一部が割かれたようです)
資治通鑑』胡三省注によると、漢昌は後に呉によって呉昌に改名されます。
 
孫権は程普に江夏太守を兼任させ(領江夏太守)魯粛を漢昌太守にして陸口に駐屯させました。
 
三国志・呉書十・程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝』によると、程普は元々、裨将軍に任命されて江夏太守を兼任し(領江夏太守。建安十四年・209年参照)周瑜が死んでから代わって南郡太守を兼任しました(領南郡太守。上述)。しかし孫権荊州を分けて劉備に貸し与えたため、程普は再び江夏太守を兼任することになり(領江夏太守)盪寇将軍に昇格しました。
また、『三国志・先主伝』裴松之注には「劉備が)孫権から荊州数郡を借りた」とあります。前年、孫権劉備荊州南部四郡(零陵・桂陽・武陵・長沙)を貸しており、今回、また魯粛の進言を聴いて南郡を劉備に貸したようです。
 
尚、鄱陽太守には歩騭が任命されました(下に鄱陽太守・歩騭の記述があります)
 
 
 
次回に続きます。