東漢時代424 献帝(百六) 韓遂・馬超討伐(前) 211年(1)

今回は東漢献帝建安十六年です。三回に分けます。
 
東漢献帝建安十六年
辛卯 211
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、献帝曹操の世子(太子)曹丕を五官中郎将に任命し、官属を置いて丞相の副(補佐)にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の五官中郎将は五官郎を主管しただけで、官属を置きませんでした。また、光禄勳に属しており、丞相の副になったこともありませんでした。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。
庚辰、献帝が前年の曹操の令(『譲県自明本志令(述志令)』)に応えました。
曹操は陽夏、柘、苦三県の二万戸を返上すると言いましたが、献帝は二万戸から五千戸を減らし、曹操が謙譲した三県一万五千戸を曹操の三子に封じました。
曹植が平原侯に、曹拠が范陽侯に、曹豹が饒陽侯になります。食邑はそれぞれ五千戸です。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
太原の人・商曜等が大陵で叛しました。
曹操夏侯淵徐晃を派遣し、包囲して破りました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
当時、張魯が漢中を拠点にしていました。
三月、曹操司隸校尉鍾繇を派遣して張魯を討たせました。
同時に征西護軍夏侯淵等にも兵を率いて河東から出させ、鐘繇と合流させます。
資治通鑑』胡三省注によると、曹操夏侯淵に西征先駆の任を与えましたが、資序(資格、経歴)が征西将軍とするには足りなかったため、征西護軍を官名にしました。
 
倉曹属(『資治通鑑』胡三省注によると、公府の倉曹は倉穀の事を主管しました。掾と属がいます)高柔が諫めて言いました「大兵(大軍)が西に出たら、韓遂馬超は自分が襲われると疑い、必ず互いに扇動します。まず三輔(関中。韓遂馬超等)を招集(招撫。帰順させること)するべきです。もし三輔を平らげることができたら、漢中は檄を伝えれば定められます。」
曹操は従いませんでした。
 
果たして関中諸将は鐘繇が自分達を襲おうとしていると疑いました。
馬超韓遂侯選、程銀、楊秋、李堪、張横、梁興成宜、馬玩の十部が皆反し、その衆は十万に上り、潼関を拠点に駐屯しました。
 
曹操は安西将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、「四安」は魏初東漢末)に置かれました。安東・安西・安南・安北の四将軍です)曹仁を派遣し、諸将を監督して馬超等を拒ませました。
但し、曹操曹仁と諸将にこう勅令しました「関西の兵は精悍なので、壁(営璧)を堅くし、戦ってはならない(堅壁勿與戦)。」
 
また、曹操が令を発し、五官将(五官中郎将)曹丕を留めて鄴を守らせました。奮武将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、奮武将軍は漢末に置かれました)・程昱に曹丕の軍事を助けさせ(参丕軍事)、門下督(『資治通鑑』胡三省注は「門下督」を「督将で門下に居る者(督将之居門下者)」と書いていますが、どのような官かはよくわかりません)広陵の人・徐宣を左護軍にして鄴に留めて諸軍を統率させ、楽安の人・国淵(『資治通鑑』胡三省注によると、斉に国氏がおり、代々上卿になりました。また、鄭七穆(穆公の七人の子)の一人・子国の後代が国を氏にしました)を居府長史にして留守中の事務を統領させました。
 
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「曹操が関中を捨てて張魯を遠征したのは、虢を伐って虞を取る春秋時代の故事。東周恵王二十二年・前655年参照)という計である。馬超韓遂を討ちたかったが名分がないので、まず張魯の勢を討つと主張して馬超等の)背反を速くさせ、それから馬超等に)兵を加えたのであろう。」
 
秋七月、曹操が自ら兵を率いて西行し、馬超等を撃ちました。
議者の多くが言いました「関西の兵は強く、長矛に習熟しているので、前鋒を精選しなければ当たることができません。」
曹操が言いました「戦(戦の決定権)は我にあり賊にあるのではない(戦在我非在賊也)。賊は長矛に習熟しているが、(わしは彼等が)それを刺せないようにしてみせよう。諸君はただそれを観ていればいい。」
 
八月、曹操が潼関に至りました。馬超等と関を挟んで駐軍します。
曹操馬超等と激しく対峙し(原文「急持之」。激しく攻撃して馬超等を動けなくさせたのだと思います)、その間に秘かに徐晃、朱霊等を派遣しました。歩騎四千人を率いて夜の間に蒲阪津から黄河を渡らせ、河西を占拠して営を築かせます。
 
三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』によると、曹操は潼関に至ってから黄河を渡れないことを恐れ、徐晃を召して意見を求めました。徐晃はこう言いました「公がここで盛兵しているので(精鋭を集めているので)、賊は別に(兵を分けて)蒲阪を守ろうとしません。彼等に謀がないことが分かります。今、臣に精兵を与え(『三国志裴松之注は「当時、徐晃はまだ臣と称すべきではない。伝書した者の誤りだ」と解説しています)、蒲阪津を渡らせ、軍先(軍の先行部隊)として(河西に)置き、そうすることでその後ろを絶てば(以截其裏)、賊を擒(虜)にできます。」
曹操は「善し(善)」と言い、徐晃に歩騎四千人を率いて河津を渡らせました。
 
本文に戻ります。
閏八月、曹操が潼関から北に向かって黄河を渡ろうとしました。兵衆が先に渡り、曹操はわずか虎士百余人と共に南岸に留まって後を断ちます。
全軍が渡り終える前に、馬超が歩騎一万余人を率いて曹操を攻めました。船に向かって急攻し、矢が雨のように降ります。
しかし曹操は胡牀(折り畳みができる椅子)に拠ったまま(座ったまま)動きません。許褚曹操を抱えて船に乗せましたが、船工が流矢に中って死んだため、許褚は左手で馬鞍を挙げて曹操を庇い、右手で船の舵を取りました(刺船)
校尉・丁斐が牛馬を放って賊馬超等の兵)を誘ったため(餌賊)、賊は乱れて牛馬を奪いました。
その間に曹操は渡河できました。
 
この時の状況を『三国志武帝紀』裴松之注はこう書いています。
曹操が河を渡ろうとしました。ちょうど前隊が渡っている時、馬超等が突然至ります。しかし曹操は胡牀に座ったまま立ち上がりません。張郃等は事が逼迫しているのを見て、共に曹操を引っぱって船に入れました。
河の水が急なため、北に渡る際、四五里も流されました。
馬超等の騎兵が追撃して矢を射ち、雨のように降り注ぎます。諸将は軍が敗れたのを見て、しかも曹操がどこにいるかも分からないため、皆、惶懼(恐慌)しました。やがて曹操に会うことができると、諸将は皆悲喜し、ある者は涙を流しました。
曹操は大笑して「今日は小賊のために困窮するところだった(今日幾為小賊所困乎)」と言いました。
 
本文に戻ります。
曹操は蒲阪から西河に渡り徐晃等によって営が構えられています)、河に沿って甬道を造りながら南に向かいました。
「甬道」は屋根や壁で覆われた通路ですが、曹操は壁を築いたのではなく、車を並べたり木で柵を造って道の両側を守ったようです(下述します)
 
馬超等は退いて渭口渭水黄河と合流する場所)曹操を拒みました。
資治通鑑』胡三省注によると、渭口は華陰県に属し、その東が潼関になります。
 
曹操は多数の疑兵を設け、秘かに舟に兵を乗せて渭水に入らせ、浮橋を造りました。
夜、兵を分けて渭南に営を構えさせます。
 
馬超等が夜に営を攻撃しましたが、曹操軍の伏兵がこれを撃破しました。
馬超等は渭南に駐屯し、書信を送って黄河以西を割くことで和を請いましたが、曹操は許しませんでした。
 
九月、曹操が進軍して全軍が渭水を渡りました。
 
馬超等がしばしば戦いを挑みましたが、曹操は一切応じません。
そこで馬超等は頑なに地を割くことを請い、任子(朝廷に仕えさせる子弟。実際は人質です)を送る許可を求めました。
 
賈詡は偽って同意するべきだと判断しました。
曹操がその計策を問うと、賈詡は「彼等を離間させるだけです(離之而已)」と答えます。
曹操は「分かった(解)」と言いました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代425 献帝(百七) 韓遂・馬超討伐(後) 211年(2)