東漢時代424 献帝(百六) 韓遂・馬超討伐(前) 211年(1)
辛卯 211年
『資治通鑑』胡三省注によると、漢の五官中郎将は五官郎を主管しただけで、官属を置きませんでした。また、光禄勳に属しており、丞相の副になったこともありませんでした。
曹植が平原侯に、曹拠が范陽侯に、曹豹が饒陽侯になります。食邑はそれぞれ五千戸です。
太原の人・商曜等が大陵で叛しました。
当時、張魯が漢中を拠点にしていました。
倉曹属(『資治通鑑』胡三省注によると、公府の倉曹は倉穀の事を主管しました。掾と属がいます)・高柔が諫めて言いました「大兵(大軍)が西に出たら、韓遂・馬超は自分が襲われると疑い、必ず互いに扇動します。まず三輔(関中。韓遂・馬超等)を招集(招撫。帰順させること)するべきです。もし三輔を平らげることができたら、漢中は檄を伝えれば定められます。」
曹操は従いませんでした。
果たして関中諸将は鐘繇が自分達を襲おうとしていると疑いました。
また、曹操が令を発し、五官将(五官中郎将)・曹丕を留めて鄴を守らせました。奮武将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、奮武将軍は漢末に置かれました)・程昱に曹丕の軍事を助けさせ(参丕軍事)、門下督(『資治通鑑』胡三省注は「門下督」を「督将で門下に居る者(督将之居門下者)」と書いていますが、どのような官かはよくわかりません)・広陵の人・徐宣を左護軍にして鄴に留めて諸軍を統率させ、楽安の人・国淵(『資治通鑑』胡三省注によると、斉に国氏がおり、代々上卿になりました。また、鄭七穆(穆公の七人の子)の一人・子国の後代が国を氏にしました)を居府長史にして留守中の事務を統領させました。
『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「曹操が関中を捨てて張魯を遠征したのは、虢を伐って虞を取る(春秋時代の故事。東周恵王二十二年・前655年参照)という計である。馬超・韓遂を討ちたかったが名分がないので、まず張魯の勢を討つと主張して(馬超等の)背反を速くさせ、それから(馬超等に)兵を加えたのであろう。」
議者の多くが言いました「関西の兵は強く、長矛に習熟しているので、前鋒を精選しなければ当たることができません。」
曹操は馬超等と激しく対峙し(原文「急持之」。激しく攻撃して馬超等を動けなくさせたのだと思います)、その間に秘かに徐晃、朱霊等を派遣しました。歩騎四千人を率いて夜の間に蒲阪津から黄河を渡らせ、河西を占拠して営を築かせます。
『三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』によると、曹操は潼関に至ってから黄河を渡れないことを恐れ、徐晃を召して意見を求めました。徐晃はこう言いました「公がここで盛兵しているので(精鋭を集めているので)、賊は別に(兵を分けて)蒲阪を守ろうとしません。彼等に謀がないことが分かります。今、臣に精兵を与え(『三国志』裴松之注は「当時、徐晃はまだ臣と称すべきではない。伝書した者の誤りだ」と解説しています)、蒲阪津を渡らせ、軍先(軍の先行部隊)として(河西に)置き、そうすることでその後ろを絶てば(以截其裏)、賊を擒(虜)にできます。」
本文に戻ります。
しかし曹操は胡牀(折り畳みができる椅子)に拠ったまま(座ったまま)動きません。許褚が曹操を抱えて船に乗せましたが、船工が流矢に中って死んだため、許褚は左手で馬鞍を挙げて曹操を庇い、右手で船の舵を取りました(刺船)。
その間に曹操は渡河できました。
河の水が急なため、北に渡る際、四五里も流されました。
馬超等の騎兵が追撃して矢を射ち、雨のように降り注ぎます。諸将は軍が敗れたのを見て、しかも曹操がどこにいるかも分からないため、皆、惶懼(恐慌)しました。やがて曹操に会うことができると、諸将は皆悲喜し、ある者は涙を流しました。
本文に戻ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、渭口は華陰県に属し、その東が潼関になります。
夜、兵を分けて渭南に営を構えさせます。
賈詡は偽って同意するべきだと判断しました。
次回に続きます。