東漢時代426 献帝(百八) 益州 211年(3)

今回で東漢献帝建安十六年が終わります。
 
[] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。
扶風の人法正が益州牧・劉璋の軍議校尉になりましたが、劉璋は法正を用いることができませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、軍議校尉は軍事を議します。劉璋は法正をこの官に就けながらその意見を採用できませんでした。
 
また、法正は同郷の出身で共に益州に客居している者(其州里俱僑客者)から軽視されていたため、邑邑(楽しめない様子)として志を得られませんでした。
 
益州別駕別駕従事)張松は法正との関係が善く、また、自分の才能に自信があり(自負其才)劉璋は共に事を為すには足らないと思っていたため、常に隠れて嘆息していました。
ある時、張松劉璋に進言して劉備と結ぶように勧めました。
劉璋が問いました「誰を使者にできるか(誰可使者)?」
張松は法正を挙げます。
劉璋はこの意見を採用して法正を派遣することにしました。法正は辞退してから、やむを得ないふりをして出発しました。
 
法正は還ってから張松劉備には雄略があることを語りました。二人は劉備を奉戴して州主に立てることを密謀します。
 
ちょうど曹操鍾繇等を派遣して漢中に向かわせました(三月)
それを遠く益州で聞いた劉璋は内心恐懼を抱きます。
張松がこれを機に劉璋に言いました「曹公は兵が強く、天下に敵がいません。もし張魯の資を利用して蜀土を取ろうとしたら、誰がこれを防げるでしょう(誰能禦之)。」
劉璋が言いました「吾(私)もかねてからそれを憂いていたが、まだ計がない(固憂之而未有計)。」
張松が言いました「劉豫州劉備は使君(あなた)の宗室であり、しかも曹公の深讎で、用兵を善くします。もし彼に張魯を討たせたら、張魯は必ず破れます。張魯が破れたら益州が強くなるので、たとえ曹公が来ても何もできません(無能為也)。今、州の諸将・龐羲(劉焉の諸孫を助けました。献帝帝興平元年・194年参照)、李異劉璋に叛した趙韙を殺しました。建安六年・201年参照)等は功に恃んで驕豪(驕慢放縦)で、外意を持とうとしています(外に附きたいと思っています。原文「欲有外意」)豫州劉備の助け)を得なかったら敵が外を攻めて民が内を攻めるので、必敗の道となります。」
劉璋はこの意見に納得し、法正に四千人を率いて劉備を迎え入れさせました。
 
主簿・巴西の人・黄権が諫めて言いました「劉左将軍劉備は驍名(勇武の名声)があります。今請い招いたとして、部曲として遇しようと欲したら劉備が)不満になります(不満其心)。しかし賓客の礼で接待しようと欲しても、一国が二君を容れることはできないので、もし客に泰山の安(泰山のような安定。安全で安心できる状態)があったら、主に累卵の危(卵を重ねたような危険)が生まれます。境界を閉じて時勢が平穏になるのを待つべきです(不若閉境以待時清)。」
劉璋はこの意見を採用せず、黄権を外に出して広漢長にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、広漢県は広漢郡に属します。
 
従事・広漢の人・王累も自ら州門(州城の門)に逆さ吊りになって諫めましたが(自倒懸於州門以諫)劉璋はやはり聞き入れませんでした。
 
三国志・蜀書九・董劉馬陳董呂伝』によると、劉巴劉璋を諫めて「劉備は雄人(能力が卓越した人物)です。入ったら必ず害を為すので、入れてはなりません(不可内也)」と言い、後に劉備益州に入ってからも「もし劉備張魯を討たせたら、虎を山林に放つのと同じです」と言いましたが、劉璋は聴きませんでした。劉巴は家門を閉じて病と称しました(建安十九年・214年に再述します)
 
本文に戻ります。
法正は荊州に到着してから、この機会を利用して秘かに劉備に献策しました「明将軍の英才をもってして劉牧の懦弱に乗じ、州の股肱重臣である張松が内応すれば張松,州之股肱響応於内)益州を取るのは掌を返すように容易です(猶反掌也)。」
 
三国志・先主伝』裴松之注は韋曜の『呉書』から引用してこう書いています「劉備は前に張松に会い、後に法正を得た。皆、厚遇して恩意によって受け入れ、慇懃の歓(歓待)を尽くした(厚以恩意接納,尽其殷勤之歓)。その機に蜀中の闊狹(大小。状況)や兵器・府庫・人馬の衆寡および諸要害の道里(道程)の遠近を問い、張松等が詳しくそれを語った。また、山川がある場所を地図に描き、こうして益州の虚実をことごとく知ったのである。」
しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「張松はこれ以前に劉備に会ったことがない。『呉書』の誤りである」と解説しています。
 
本文に戻ります。
法正が益州を取る策を述べましたが、劉備は躊躇して決断できませんでした。
龐統が劉備に言いました「荊州は荒残(荒廃)して人も物も空虚になり(人物殫尽)、東には孫車騎孫権がいて北には曹操がいるので、志を得るのは困難です。今、益州の戸口は百万を数え、土地が肥沃で財が富んでいるので、もしこれを得て資本にできたら、大業を成せます(誠得以為資,大業可成也)。」
劉備が言いました「今、私と水火の関係にある者を指すなら、曹操である(私と反対の立場にいるのは曹操である。原文「今指與吾為水火者,曹操也」)曹操が急をもってしたら私は寛をもってし(「曹操が急いだら私はゆっくり行動し」。または「曹操が厳しくしたら私は寛大にし」)曹操が暴をもってしたら私は仁をもってし、曹操が譎(詐術)をもってしたら私は忠をもってしている(操以急,吾以寛。操以暴,吾以仁。操以譎,吾以忠)。いつも曹操の反対を行っているから、事が成せるのだ(每與操反事乃可成耳)。今、小利によって天下に信義を失ったらどうする
柰何)。」
龐統が言いました「乱離の時とは、元より一道(一つの道理、方法)によって定められるのではありません。そもそも、弱者を兼併して愚昧を攻め(兼弱攻昧)、逆取してから順守するのは(主君に逆らって天下を取ってから道義に従ってそれを治めるのは。原文「逆取順守」)、古人が貴んだことです。事が定まった後に劉璋を)大国に封じれば、どうして信に背くことになるでしょう(何負於信)。今日取らなかったら、最後は人の利(他人の利益)となってしまいます。」
劉備はついに納得しました。
そこで諸葛亮関羽等を留めて荊州を守らせ、趙雲に留営司馬を兼任させ(領留営司馬。『資治通鑑』胡三省注によると、「留営司馬」は留守中の軍営を管理します)、自ら歩卒数万人を率いて益州に入りました。

孫権劉備が西上したと聞き、舟船を送って妹劉備の妻)を迎えに行かせました。
夫人が劉備の子・劉禅を連れて呉に還ろうとしましたが、張飛趙雲が兵を率いて江を遮ったため、劉禅荊州に還ることができました。
 
劉璋が各地に勅令して劉備に供奉(物資を供給すること)させました。劉備は故郷に還る時のように入境し、前後に送られた物資(の額)は巨億を数えます。
劉備が巴郡に至った時、巴郡太守・厳顔が胸を叩いて嘆息し、こう言いました「これはいわゆる『独り深山に坐り、虎を放って自分を守らせる(独坐窮山,放虎自衛者)』というものだ。」
 
劉備は江州から北に向かい、墊江水を経由して涪に至りました。
資治通鑑』胡三省注によると、江州は巴郡の治所です。墊江県は巴郡に、涪県は広漢郡に属します。
 
劉璋は自ら劉備を出迎えるため、歩騎三万余人を指揮し、車乗(車輌)に帳幔を張り、精光耀日として(「精光耀日」は「精気をみなぎらせる」「意気揚々とする」という意味だと思います)会いに行きました。
双方が出会ってとても歓びます(相見甚歓)
 
張松が法正を使って劉備に「会において劉璋を襲うべきだ」と建議させましたが、劉備は「この事は倉卒(唐突。軽率)にはできない」と言いました。
謀臣・龐統もこう進言しました「今、会を利用して捕えれば、将軍は用兵の労がなく、坐して一州を定めることができます。」
劉備はやはり反対して「他国に入ったばかりで恩信がまだ顕著ではない。それはできない(此不可也)」と答えました。
 
劉璋劉備を推挙して行大司馬・領司隸校尉にしました。
劉備劉璋を推挙して行鎮西大将軍・領益州牧にします(「行」は代理・代行、「領」は兼任の意味です)
双方が率いる吏士も互いに往来し、百余日にわたって歓飲しました。
 
劉璋劉備の兵を増やし、資給(物資)を厚く加えて張魯を撃たせました。同時に白水軍を監督させます。
資治通鑑』胡三省注によると、広漢白水県に白水関があり、劉璋が楊懐、高沛の軍を駐屯させていました。
 
劉備軍は合計三万余人になり、車甲・器械・資貨(資財・貨物)が甚だ豊富でした。
劉璋成都に還り、劉備は北に向かって葭萌に至ります。
資治通鑑』胡三省注によると、葭萌県は広漢郡に属します。先秦時代に蜀王が弟の葭萌をこの地に封じたため、葭萌が地名になりました。後に劉備が漢寿に改めます。
 
劉備はすぐに張魯を討とうとせず、恩徳を厚く樹立することで衆心(人心)を収攬しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
この年、趙王・劉赦が死にました。
 
趙王は光武帝の叔父に当たる劉良が封じられました(諡号は孝王です)。その後、節王・劉盱(または「劉栩」)、頃王・劉商、靖王・劉宏、恵王・劉乾、懐王・劉豫と継承しました桓帝延熹七年・164年参照)
劉豫の後を継いだのが子の劉赦ですが、いつの事かははっきりしません。
 
後漢書・宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉赦の諡号は献王です。子の劉珪が継ぎました。
劉珪は建安十八年(213)に博陵王に遷され、九年後の魏王朝建国当初に崇徳侯になります。
 
[] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。
この年、孫権が治所を秣陵に遷しました。翌年、石頭に築城し、秣陵を建業に改名します。
資治通鑑』は翌年にまとめて書いています。
 
 
 
次回に続きます。