東漢時代426 献帝(百八) 益州 211年(3)
張松は法正を挙げます。
劉璋はこの意見を採用して法正を派遣することにしました。法正は辞退してから、やむを得ないふりをして出発しました。
張松が言いました「劉豫州(劉備)は使君(あなた)の宗室であり、しかも曹公の深讎で、用兵を善くします。もし彼に張魯を討たせたら、張魯は必ず破れます。張魯が破れたら益州が強くなるので、たとえ曹公が来ても何もできません(無能為也)。今、州の諸将・龐羲(劉焉の諸孫を助けました。献帝帝興平元年・194年参照)、李異(劉璋に叛した趙韙を殺しました。建安六年・201年参照)等は功に恃んで驕豪(驕慢放縦)で、外意を持とうとしています(外に附きたいと思っています。原文「欲有外意」)。豫州(劉備の助け)を得なかったら敵が外を攻めて民が内を攻めるので、必敗の道となります。」
主簿・巴西の人・黄権が諫めて言いました「劉左将軍(劉備)は驍名(勇武の名声)があります。今請い招いたとして、部曲として遇しようと欲したら(劉備が)不満になります(不満其心)。しかし賓客の礼で接待しようと欲しても、一国が二君を容れることはできないので、もし客に泰山の安(泰山のような安定。安全で安心できる状態)があったら、主に累卵の危(卵を重ねたような危険)が生まれます。境界を閉じて時勢が平穏になるのを待つべきです(不若閉境以待時清)。」
『資治通鑑』胡三省注によると、広漢県は広漢郡に属します。
『三国志・蜀書九・董劉馬陳董呂伝』によると、劉巴も劉璋を諫めて「劉備は雄人(能力が卓越した人物)です。入ったら必ず害を為すので、入れてはなりません(不可内也)」と言い、後に劉備が益州に入ってからも「もし劉備に張魯を討たせたら、虎を山林に放つのと同じです」と言いましたが、劉璋は聴きませんでした。劉巴は家門を閉じて病と称しました(建安十九年・214年に再述します)。
本文に戻ります。
法正は荊州に到着してから、この機会を利用して秘かに劉備に献策しました「明将軍の英才をもってして劉牧の懦弱に乗じ、州の股肱(重臣)である張松が内応すれば(張松,州之股肱響応於内)、益州を取るのは掌を返すように容易です(猶反掌也)。」
『三国志・先主伝』裴松之注は韋曜の『呉書』から引用してこう書いています「劉備は前に張松に会い、後に法正を得た。皆、厚遇して恩意によって受け入れ、慇懃の歓(歓待)を尽くした(厚以恩意接納,尽其殷勤之歓)。その機に蜀中の闊狹(大小。状況)や兵器・府庫・人馬の衆寡および諸要害の道里(道程)の遠近を問い、張松等が詳しくそれを語った。また、山川がある場所を地図に描き、こうして益州の虚実をことごとく知ったのである。」
本文に戻ります。
龐統が劉備に言いました「荊州は荒残(荒廃)して人も物も空虚になり(人物殫尽)、東には孫車騎(孫権)がいて北には曹操がいるので、志を得るのは困難です。今、益州の戸口は百万を数え、土地が肥沃で財が富んでいるので、もしこれを得て資本にできたら、大業を成せます(誠得以為資,大業可成也)。」
劉備が言いました「今、私と水火の関係にある者を指すなら、曹操である(私と反対の立場にいるのは曹操である。原文「今指與吾為水火者,曹操也」)。曹操が急をもってしたら私は寛をもってし(「曹操が急いだら私はゆっくり行動し」。または「曹操が厳しくしたら私は寛大にし」)、曹操が暴をもってしたら私は仁をもってし、曹操が譎(詐術)をもってしたら私は忠をもってしている(操以急,吾以寛。操以暴,吾以仁。操以譎,吾以忠)。いつも曹操の反対を行っているから、事が成せるのだ(每與操反事乃可成耳)。今、小利によって天下に信義を失ったらどうする(
柰何)。」
龐統が言いました「乱離の時とは、元より一道(一つの道理、方法)によって定められるのではありません。そもそも、弱者を兼併して愚昧を攻め(兼弱攻昧)、逆取してから順守するのは(主君に逆らって天下を取ってから道義に従ってそれを治めるのは。原文「逆取順守」)、古人が貴んだことです。事が定まった後に(劉璋を)大国に封じれば、どうして信に背くことになるでしょう(何負於信)。今日取らなかったら、最後は人の利(他人の利益)となってしまいます。」
劉備はついに納得しました。
劉備は江州から北に向かい、墊江水を経由して涪に至りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、江州は巴郡の治所です。墊江県は巴郡に、涪県は広漢郡に属します。
双方が出会ってとても歓びます(相見甚歓)。
謀臣・龐統もこう進言しました「今、会を利用して捕えれば、将軍は用兵の労がなく、坐して一州を定めることができます。」
双方が率いる吏士も互いに往来し、百余日にわたって歓飲しました。
この年、趙王・劉赦が死にました。
劉豫の後を継いだのが子の劉赦ですが、いつの事かははっきりしません。
この年、孫権が治所を秣陵に遷しました。翌年、石頭に築城し、秣陵を建業に改名します。
『資治通鑑』は翌年にまとめて書いています。
次回に続きます。