東漢時代427 献帝(百九) 建業 212年(1)

今回は東漢献帝建安十七年です。二回に分けます。
 
東漢献帝建安十七年
壬辰 212
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、曹操が鄴に還りました。
 
献帝が詔を発して曹操に「賛拝不名(入朝・謁見等の時、会をしきる官員から氏名を直接呼ばれないこと)」「入朝不趨(入朝時に小走りになる必要がないこと)」「剣履上殿(剣を帯びて履物を履いたまま上殿できること)」を命じ、蕭何の故事(前例)と同等にしました。
この三つは大功臣に与える特権です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
曹操が西征した時、河間の民・田銀と蘇伯が反し、幽州や冀州を扇動しました。
五官将(五官中郎将)曹丕は自ら討伐しようと欲しましたが、功曹・常林(『資治通鑑』胡三省注によると、五官将の功曹です)がこう言いました「北方の吏民は安を楽しんで乱を嫌い(楽安厭乱)、服化服従帰化して既に久しいので、善を守る者が多く、田銀や蘇伯は犬羊が集まっただけなので、害を為すことができません(銀伯犬羊相聚不能為害)。今は大軍が遠くにおり、外に強敵がいて、将軍は天下の鎮と為りました(鄴を鎮守するという大切な任務を与えられました)。軽率に動いて遠くで行動したら、たとえ克ったとしても勇武とはいえません(軽動遠挙,雖克不武)。」
曹丕は将軍・賈信を派遣して田銀等を討たせました。
 
賈信はすぐに戦勝して田銀等を滅しました。残った賊千余人が投降を請います。
議者が皆こう言いました「公曹操には旧法(以前定めた法)があり、包囲してから降った者は赦さないことになっています(囲而後降者不赦)。」
程昱が言いました「それは混乱した時における一時的な規則です(此乃擾攘之際,権時之宜)。今、天下はほぼ定まっているので、誅してはなりません。たとえ誅殺するとしても、先に曹操に)啓聞(報告)するべきです。」
議者が皆言いました「軍事には専(専断すること)があります。指示を請う必要はありません(有専無請)。」
程昱が言いました「凡そ専命(専断)というのは、臨時の急があるからそうするのです(凡宣命者,謂有臨時之急耳)。今、この賊は賈信の手によって制されているので、老臣は将軍がこれを行うこと(専断すること)を願いません。」
曹丕は「善し(善)」と言ってすぐ曹操に報告しました。
果たして曹操は彼等を誅殺しませんでした。
 
後に曹操は程昱の謀だと聞いて甚だ悦び、こう言いました「君はただ軍計に明るいだけでなく、人の父子の関係も善く対処した(原文「善処人父子之間」。曹丕が勝手に投降した者を誅殺していたら、父子の関係が悪化したはずです。程昱がそれを防いだことを称賛しています)。」
 
今までの慣例では、賊を破ったことを報告する文書では一を十にしました(戦功を十倍にして報告しました)
しかし国淵(留守中の政務を管理しました)が首級を報告した時は、全て実数でした。
曹操が理由を問うと、国淵はこう答えました「外寇を征討した時に、斬獲の数を多くするのは、そうすることで武功を大きくし、民に聞かせて震撼させたいと欲するからです(欲以大武功聳民聴也)。しかし河間は封域(領域)の内にあり、田銀等は叛逆しました。確かに克捷(戦勝)して功がありますが、淵(私)は心中でこれを恥じています(竊恥之)(だから武功を大きくしなかったのです。)
曹操は大いに悦びました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月癸未(中華書局『白話資治通鑑』は「癸未」を恐らく誤りとしています)曹操が)衛尉・馬騰を誅殺し、三族を皆殺しにしました(夷三族)
馬超曹操に叛したためです。馬騰は建安十三年208年)に家族と共に鄴に遷されていました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月庚寅晦、日食がありました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
秋七月、洧水と潁水が溢れました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
(害虫)に襲われました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
馬超の余衆・梁興等が藍田に駐屯しました。
曹操夏侯淵にこれを撃たせて平定しました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
馬超等の余衆が藍田に駐屯しましたが、夏侯淵がこれを撃って平定しました。
 
鄜賊・梁興が馮翊を寇略(侵略)しました。
資治通鑑』胡三省注によると、鄜県は、西漢は左馮翊に属しましたが、東漢になって廃されました梁興が挙兵した時、再び鄜県が置かれていたのか、鄜が他の県下に属していたのかはわかりません)
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、藍田は京兆尹に属します。『三国志武帝紀』は「馬超の余衆・梁興等が藍田に駐屯した(上述)」と書いていますが、『資治通鑑』の記述を見ると、藍田に駐屯した馬超の余衆と左馮翊を侵した梁興は別々に行動していたようです。あるいは、梁興も藍田に駐屯していましたが、藍田が夏侯淵に破れたため、移動して馮翊を侵したのかもしれません。
 
本文に戻ります。
梁興が馮翊を侵したため、諸県は皆、恐懼して県の官府を郡府下に遷しました(皆寄治郡下)
議者が険阻な地に移るべきだと主張しましたが、左馮翊・鄭渾はこう言いました「梁興等は破散し(破れて四散し)、山谷に藏竄(逃げ隠れ)している。まだ従っている者もいるが、多くは脅されているだけだ(雖有隨者,率脅従耳)。今は広く降路を開き、威信を宣諭するべきだ。逆に険阻な地を保って自分を守るのは、弱い姿を示すことになる(保険自守此示弱也)。」
鄭渾は吏民を集めて城郭を修築し、守備を整え、賊を駆逐するために民を募り、財物や婦女を得たら十分の七を賞として与えることにしました。
民は大いに悦び、皆、賊を捕えることを願い出ます。
 
賊で妻子を失った者は皆、山谷から帰って投降を求めました。鄭渾は彼等に他の婦女を奪ってくるように義務づけてから、彼等の妻子を返します(渾責其得他婦女然後還之)
その結果、梁興の勢力は内部で互いに寇盗(侵犯略奪)するようになり、党与が離散しました。
 
また、鄭渾は吏民の中で恩信(恩徳威信)がある者を送り、山谷に分布して告諭させました。山谷から出て帰順する者が相次ぎます。
そこで諸県の長吏をそれぞれ本治(本来の治所)に還らせ、人々を安集(安定和睦)させました。
 
梁興等は懼れを抱き、余衆を率いて鄜城に集まりました。
曹操夏侯淵を派遣し、鄭渾を助けて討伐させます。
こうしてついに梁興を斬り、余党を全て平定しました。
鄭渾は鄭泰献帝初平元年・190年および初平三年・192年参照)の弟です。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
八月、馬超涼州を破り、刺史・韋康を殺しました。
資治通鑑』は翌年に書いています。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月庚戌(二十一日)献帝が皇子・劉熙を済陰王に、劉懿を山陽王に、劉𨘷(『後漢書孝献帝紀』では「劉𨘷」、『資治通鑑』では「劉邈」です)を済北王に、劉敦を東海王に封じました。
 
孝献帝紀』の注によると、当時、許靖が蜀におり、諸王が立てられたと聞いてこう言いました「収縮させようと欲したら、必ず暫くは膨張させる。奪おうと欲したら、必ず暫くは与える。これは孟徳(曹操の字)の考えだ(将欲翕之,必姑張之。将欲奪之,必姑與之。其孟徳之謂乎)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
秣陵の山川が形勝(地形が優れていること)なので、以前、張紘が孫権に治所を置くように勧めました。
劉備が東に向かって秣陵を通った時も、孫権に秣陵を居とするように勧めました。
そこで孫権は石頭城を築き、秣陵に治所を遷して建業に改名しました。
 
三国志・呉書二・呉主伝』では前年に孫権が治所を秣陵に遷し、本年、石頭に築城して秣陵を建業に改名しています(既述)
 
資治通鑑』胡三省注を元に秣陵について簡単に解説します。
秣陵は丹陽郡に属します。元は「金陵」といいましたが、秦始皇帝が「秣陵」に改名し、孫権が更に「建業」に改めました。後に西晋愍帝の諱(本名。「司馬業」または「司馬鄴」といいます)を避けて「建康」に改名します。
張紘は孫権にこう進言しました「秣陵は楚武王が置いた場所で、名を金陵といいました。その地勢は岡阜(山丘)に石頭(石。岩石)が連なっています。昔、秦始皇が東巡してこの県を経由した時、望気の者(気を観測する者)が『金陵の地形には王者の都邑の気がある』と言ったので、連岡(岩石が連なった岡)を掘って(王者の気を)断ち、秣陵に改名しました。今もその場所が残っているので都邑にするべきです(今処所具存,宜為都邑)。」
孫権は秣陵に遷る時、こう宣言しました「秣陵には小江が百余里もあり、大船を安定させることができる(可以安大船)。吾(私)はちょうど水軍を理しているので(水軍を整理編成しているので)、移って拠点にするべきである。」
 
[十一] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
曹操が東に兵を進めようとしている」と呂蒙が聞きました。そこで孫権に進言して濡須水口を挟んで塢(営塞)を建てるように勧めます。
諸将は皆こう言いました「岸に上がって賊を撃ち、足を洗って船に入るだけのことです。塢が何の役に立つでしょう(上岸撃賊,洗足入船,何用塢為)。」
呂蒙が言いました「兵には利鈍があり、戦には百勝がありません(軍事には勝敗があり、百戦百勝ということはありません)。もしも邂逅(突然の遭遇)があり、敵の歩騎が人(我が軍)を逼迫したら、水に及ぶ暇もありません(水上・川辺に至る余裕もありません)。どうして船に入ることができるのでしょう。」
孫権は「善し(善)」と言って濡須塢を築きました。
 
 
 
次回に続きます。