東漢時代428 献帝(百十) 劉備と劉璋 212年(2)

今回は東漢献帝建安十七年の続きです。
 
[十二] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、曹操が東進して孫権を撃ちました。
 
董昭が曹操に言いました「古から今まで、人臣の匡世(世を正すこと)において今日ほどの功はなく曹操ほど功績がある者はなく)、今日の功がありながら、久しく人臣の勢(形勢、地位)にいた者もいませんでした。今、明公は慙徳があること(徳に背いて慚愧すること)を恥じとし、名節を保つことを楽しんでいます。しかし(いつまでも)大臣の勢(形勢、地位)にいたら、人に大事をもって自分を疑わせることになるので(原文「使人以大事疑己」。他者に「曹操は野心を持っている」と疑わせることになるので)、誠に重慮(熟慮)しないわけにはいきません。」
 
資治通鑑』のこの記述だけでは理解が困難なので、『三国志・魏書十四・程郭董劉蒋劉伝』を参照します。
まず、董昭が「古に学んで五等の封爵を建てるべきです(宜脩古建封五等)」と建議し、曹操が「五等を建てて設けるのは聖人であり、人臣が制定することではない。吾(私)がどうして(その責任に)堪えられるか」と答えたため、董昭が上記の発言をしました。
董昭は、曹操が大功臣でありながら普通の臣下のままで居続けたら身の危険を招く恐れがあるので、自ら爵位を設けて基礎を固めるべきだと進言しました。
 
本文に戻ります。
董昭は列侯・諸将と討議し、丞相のまま爵位を国公に進め、九錫を全てそろえて曹操の殊勳を表彰するべきだと考えました。
「九錫」は天子が功臣に下賜する器物等の特典で、車馬、衣服(尊貴を示します)、楽器(古代は音楽が教養の一つとされていました。楽器を下賜するのは、民の教化を命じたことを表します)、朱戸(赤い門です。住居の中が整っており、他の者とは異なるということを示します)、納陛(殿上に登るために作られた貴人専用の階段です。詳細はわかりません。殿上に自由に登る権利を得たということかもしれません)、虎賁百人(虎賁は禁衛の勇士です)、鈇鉞(斧鉞。生殺の権限を表します)、弓矢(征伐の権限を表します)、秬鬯(美酒です。祭祀に使います)を指します。
 
荀彧が董昭等に反対しました「曹公は本来、朝廷を正して国を安寧にさせるために(匡朝寧国)義兵を興し、忠貞の誠を持って退譲の実を守ってきました。君子とは人を愛するに徳をもってするものです(人を愛する君子でいるなら、徳を守らなければなりません。原文「君子愛人以徳」)。そのようにするべきではありません(国公になって九錫を受け入れるべきではありません。原文「不宜如此」)。」
曹操は不快になりました。
 
曹操孫権を撃った時、朝廷に上表して荀彧に譙で軍を慰労させるように請いました(荀彧は漢朝の侍中・尚書令なので、朝廷に上表して請う必要がありました)
曹操はこの機に荀彧を留め、官位を侍中・光禄大夫にして、符節を持って丞相の軍事に参与させました(持節・参丞相軍事)
 
曹操軍が濡須に向かった時、荀彧は病のため寿春に留まり、薬を飲んで死にました。
荀彧は義を行って身を正し、しかも智謀があり、賢才を推薦して士人を進めることを好んだため、当時の人々が皆その死を惜しみました。
 
三国志・魏書十・荀彧荀攸賈詡伝』は荀彧の死について「憂いによって死んだ(以憂薨)。この時五十歳で、諡号を敬侯という」と書いています。
しかし裴松之注には「太祖曹操が荀彧に食べ物を送り、それを開けてみると空の器だったため、(荀彧は)薬を飲んで死んだ」とあり、『後漢書・鄭孔荀列伝(巻七十)』もほぼ同じ内容になっています。
空の食器を与えられたというのは、荀彧に用が無くなったことを意味します。
資治通鑑』胡三省注は「曹操(荀彧の)誅殺を隠した。陳寿(『三国志』)曹操に殺されたことを書かず)『憂いによって死んだ』と言っているのは、闕疑(憶測を加えず疑問を残したままにしておくこと)であろう」と解説しています。
 
[十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです(何月の事かはわかりません)
河内の蕩陰・朝歌・林慮、東郡の衛国・頓丘・東武陽・発干、鉅鹿の陶・曲周・南和、広平の任城、趙の襄国・邯鄲・易陽を割き、魏郡を拡大しました(翌年、曹操が魏公に封じられます)
 
[十四] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、五諸侯に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
五諸侯は五つの星で形成される星座で、井宿五諸侯と太微垣五諸侯の二種類があります。
 
[十五]  『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。
当時、劉備が葭萌にいました。
龐統が劉備に進言しました「今、秘かに精兵を選び、昼夜兼行して直接成都を襲えば(昼夜兼道徑襲成都劉璋は勇武がなく普段からの備えもないので(既不武又素無豫備)、大軍を突然至らせ、一挙して平定できます。これが上計です。楊懐、高沛は劉璋の名将で、それぞれ強兵を擁して関頭(白水関)を拠守しています。聞くところによると、(彼等は)しばしば牋(書信)によって劉璋を諫め、将軍を荊州に送り還らせようとしています。将軍が人を送って(彼等に)連絡し(遣與相聞)荊州に急があるので還ってそれを救いたいと説明して、同時に装束(荷物をまとめること。ここでは帰還の準備です)して外見は帰る形(姿)を作れば、この二子は将軍の英名に服しており、また、将軍が去ることを喜ぶので、計るに、必ず軽騎に乗って将軍に会いに来ます。それを利用して彼等を捕え(因此執之)、進んでその兵を取り、それから成都に向かう、これが中計です。退いて白帝白帝城。『資治通鑑』胡三省注によると、巴東魚復県です。かつて公孫述が成都を拠点にして白帝を自称し、魚復を白帝に改名しました)に還り、荊州の兵を連ねて引き入れ、ゆっくり(西に)戻って図る(連引荊州徐還図之)、これが下計です。もし躊躇してここを去らなかったら(沈吟不去)、やがて大困を招きます。久しくはできません(これ以上、躊躇してはなりません。葭萌に留まってはなりません。原文「不可久矣」)。」
劉備は中計に同意しました。
 
曹操孫権を攻めると、孫権劉備を呼んで救援させました。
劉備劉璋に書を送りました「孫氏と孤(私)は元々脣歯(唇と歯の関係)を為していますが、関羽の兵は弱いので、今、救いに行かなかったら、曹操が必ず荊州を取り、転じて州界益州界)を侵し、その憂いは張魯より甚だしくなります。張魯は自守の賊(自分を守るだけの賊)なので、憂いるに足りません。」
 
これは『資治通鑑』の記述です。『三国志・蜀書二・先主伝』は若干異なり、こう書いています。
劉備が使者を送って劉璋にこう告げました「曹公が呉を征し、呉が危急を憂いています(原文「曹公征呉,呉憂危急」。劉備曹操を「曹公」と呼ぶことはないはずですが、『三国志』の記述に従います)。孫氏と孤(私)は元々脣歯を為しており、また、楽進が青泥で関羽と相拒(対峙)しているので、今、関羽を救いに行かなかったら、楽進が必ず大克(大勝)し、転じて州界を侵し、その憂いは張魯より甚だしくなります。張魯は自守の賊なので、憂いるに足りません。」
 
劉備は一万の兵と資糧を増やすように劉璋に求め、東に行こうとしました。
しかし劉璋は四千の兵だけを与えることに同意し、その他の物資等も全て要求の半数しか与えませんでした。
劉備はこれを機に自分の衆を激怒させようとしてこう言いました(激怒其衆曰)「吾(私)益州のために強敵を征し、師徒(軍隊)が勤瘁(勤労辛苦)しているのに、劉璋は)財を積んで賞を惜しんだ(積財吝賞)。これでどうして士大夫に死戦させることができるか(何以使士大夫死戦乎)!」
 
三国志・蜀書二・先主伝』裴松之注では、劉備はこう言っています「吾(私)益州のために彊敵(強敵)を征し、師徒が勤瘁して寧居する暇もない(不遑寧居)。しかし今劉璋は)帑藏(国庫)の財を積んで賞功を惜しんだ(積帑藏之財而恡於賞功)。士大夫が(彼のために)死力を出して戦うことを望んでも、得られるはずがない(望士大夫為出死力戦,其可得乎)!」
 
張松劉備と法正に書を送りました「今、大事がすぐに立つのに、なぜそれを棄てて去るのですか(今大事垂立,如何釈此去乎)。」
張松の兄に当たる広漢太守・張粛は禍が自分に及ぶことを恐れ、張松の陰謀を告発しました。
劉璋張松を逮捕して斬ります。
こうして劉備との間に嫌隙(怨恨。対立)が生まれました。
 
三国志・蜀書二・先主伝』裴松之注によると、張粛は威儀があり、容貌が甚だ偉(雄偉)でした。張松は人為が短小(背が低いこと)で、放蕩して節操を治めませんでしたが、見識があって道理に通じ、英明果断で(識達精果)才幹(能力)がありました。
以前、劉璋張松を派遣して曹操を訪ねさせましたが(建安十三年・208年参照)曹操は全く礼遇せず、主簿・楊脩が張松の才能を深く重んじて招聘するように進言しても曹操は同意しませんでした。
楊脩が曹操によって書かれた兵書を示すと、張松は飲宴の間に一見しただけで闇誦(暗誦)しました。そのため楊脩はますます張松を異としました(ますますその異才を認めました)
 
本文に戻ります。
劉璋は関戍(関所や営塞)の諸将に文書で命令を発して、今後、劉備との連絡を全て絶たせました(皆勿復得與備関通)
 
劉備は大いに怒って劉璋の白水軍督・楊懐と高沛を招き、無礼を譴責して斬りました。
資治通鑑』胡三省注は「客主の礼がないことを譴責した」と解説しています。楊懐と高沛は劉璋の命を聴いて劉備との関係を絶ったため、劉備の譴責を受けて殺されたようです。
尚、『三国志・蜀書二・先主伝』では、楊懐しか殺されていません。『三国志・蜀書七・龐統法正伝』で楊懐と高沛が殺されているため、『資治通鑑』も二人が殺されたとしています。
 
劉備黄忠、卓膺を派遣し、兵を率いて劉璋に向かわせました。
劉備自身は直接、関頭(白水関)に入り、その兵を吸収して諸将や士卒の妻子を人質にします。その後、兵を率いて黄忠、卓膺等と共に進軍し、涪に至って城を占拠しました。
 
 
 
次回に続きます。