東漢時代428 献帝(百十) 劉備と劉璋 212年(2)
董昭が曹操に言いました「古から今まで、人臣の匡世(世を正すこと)において今日ほどの功はなく(曹操ほど功績がある者はなく)、今日の功がありながら、久しく人臣の勢(形勢、地位)にいた者もいませんでした。今、明公は慙徳があること(徳に背いて慚愧すること)を恥じとし、名節を保つことを楽しんでいます。しかし(いつまでも)大臣の勢(形勢、地位)にいたら、人に大事をもって自分を疑わせることになるので(原文「使人以大事疑己」。他者に「曹操は野心を持っている」と疑わせることになるので)、誠に重慮(熟慮)しないわけにはいきません。」
まず、董昭が「古に学んで五等の封爵を建てるべきです(宜脩古建封五等)」と建議し、曹操が「五等を建てて設けるのは聖人であり、人臣が制定することではない。吾(私)がどうして(その責任に)堪えられるか」と答えたため、董昭が上記の発言をしました。
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「九錫」は天子が功臣に下賜する器物等の特典で、車馬、衣服(尊貴を示します)、楽器(古代は音楽が教養の一つとされていました。楽器を下賜するのは、民の教化を命じたことを表します)、朱戸(赤い門です。住居の中が整っており、他の者とは異なるということを示します)、納陛(殿上に登るために作られた貴人専用の階段です。詳細はわかりません。殿上に自由に登る権利を得たということかもしれません)、虎賁百人(虎賁は禁衛の勇士です)、鈇鉞(斧鉞。生殺の権限を表します)、弓矢(征伐の権限を表します)、秬鬯(美酒です。祭祀に使います)を指します。
荀彧が董昭等に反対しました「曹公は本来、朝廷を正して国を安寧にさせるために(匡朝寧国)義兵を興し、忠貞の誠を持って退譲の実を守ってきました。君子とは人を愛するに徳をもってするものです(人を愛する君子でいるなら、徳を守らなければなりません。原文「君子愛人以徳」)。そのようにするべきではありません(国公になって九錫を受け入れるべきではありません。原文「不宜如此」)。」
曹操は不快になりました。
曹操軍が濡須に向かった時、荀彧は病のため寿春に留まり、薬を飲んで死にました。
荀彧は義を行って身を正し、しかも智謀があり、賢才を推薦して士人を進めることを好んだため、当時の人々が皆その死を惜しみました。
空の食器を与えられたというのは、荀彧に用が無くなったことを意味します。
『資治通鑑』胡三省注は「曹操が(荀彧の)誅殺を隠した。陳寿(『三国志』)が(曹操に殺されたことを書かず)『憂いによって死んだ』と言っているのは、闕疑(憶測を加えず疑問を残したままにしておくこと)であろう」と解説しています。
十二月、五諸侯に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
五諸侯は五つの星で形成される星座で、井宿五諸侯と太微垣五諸侯の二種類があります。
当時、劉備が葭萌にいました。
龐統が劉備に進言しました「今、秘かに精兵を選び、昼夜兼行して直接成都を襲えば(昼夜兼道徑襲成都)、劉璋は勇武がなく普段からの備えもないので(既不武又素無豫備)、大軍を突然至らせ、一挙して平定できます。これが上計です。楊懐、高沛は劉璋の名将で、それぞれ強兵を擁して関頭(白水関)を拠守しています。聞くところによると、(彼等は)しばしば牋(書信)によって劉璋を諫め、将軍を荊州に送り還らせようとしています。将軍が人を送って(彼等に)連絡し(遣與相聞)、荊州に急があるので還ってそれを救いたいと説明して、同時に装束(荷物をまとめること。ここでは帰還の準備です)して外見は帰る形(姿)を作れば、この二子は将軍の英名に服しており、また、将軍が去ることを喜ぶので、計るに、必ず軽騎に乗って将軍に会いに来ます。それを利用して彼等を捕え(因此執之)、進んでその兵を取り、それから成都に向かう、これが中計です。退いて白帝(白帝城。『資治通鑑』胡三省注によると、巴東魚復県です。かつて公孫述が成都を拠点にして白帝を自称し、魚復を白帝に改名しました)に還り、荊州の兵を連ねて引き入れ、ゆっくり(西に)戻って図る(連引荊州徐還図之)、これが下計です。もし躊躇してここを去らなかったら(沈吟不去)、やがて大困を招きます。久しくはできません(これ以上、躊躇してはなりません。葭萌に留まってはなりません。原文「不可久矣」)。」
劉備は中計に同意しました。
劉備が劉璋に書を送りました「孫氏と孤(私)は元々脣歯(唇と歯の関係)を為していますが、関羽の兵は弱いので、今、救いに行かなかったら、曹操が必ず荊州を取り、転じて州界(益州界)を侵し、その憂いは張魯より甚だしくなります。張魯は自守の賊(自分を守るだけの賊)なので、憂いるに足りません。」
劉備が使者を送って劉璋にこう告げました「曹公が呉を征し、呉が危急を憂いています(原文「曹公征呉,呉憂危急」。劉備が曹操を「曹公」と呼ぶことはないはずですが、『三国志』の記述に従います)。孫氏と孤(私)は元々脣歯を為しており、また、楽進が青泥で関羽と相拒(対峙)しているので、今、関羽を救いに行かなかったら、楽進が必ず大克(大勝)し、転じて州界を侵し、その憂いは張魯より甚だしくなります。張魯は自守の賊なので、憂いるに足りません。」
しかし劉璋は四千の兵だけを与えることに同意し、その他の物資等も全て要求の半数しか与えませんでした。
劉備はこれを機に自分の衆を激怒させようとしてこう言いました(激怒其衆曰)「吾(私)は益州のために強敵を征し、師徒(軍隊)が勤瘁(勤労辛苦)しているのに、(劉璋は)財を積んで賞を惜しんだ(積財吝賞)。これでどうして士大夫に死戦させることができるか(何以使士大夫死戦乎)!」
『三国志・蜀書二・先主伝』裴松之注では、劉備はこう言っています「吾(私)は益州のために彊敵(強敵)を征し、師徒が勤瘁して寧居する暇もない(不遑寧居)。しかし今(劉璋は)帑藏(国庫)の財を積んで賞功を惜しんだ(積帑藏之財而恡於賞功)。士大夫が(彼のために)死力を出して戦うことを望んでも、得られるはずがない(望士大夫為出死力戦,其可得乎)!」
『三国志・蜀書二・先主伝』裴松之注によると、張粛は威儀があり、容貌が甚だ偉(雄偉)でした。張松は人為が短小(背が低いこと)で、放蕩して節操を治めませんでしたが、見識があって道理に通じ、英明果断で(識達精果)才幹(能力)がありました。
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次回に続きます。