東漢時代431 献帝(百十三) 馬超の反撃 213年(3)
参涼州軍事・楊阜が曹操に進言しました「馬超には信・布(韓信・英布)の勇があり、甚だ羌・胡の心を得ています。もし大軍が還り、備えを設けなかったら、隴上諸郡は国家のものではなくなってしまいます(非国家之有也)。」
しかし冀城だけは州郡を奉じて(州刺史と郡太守を輔佐して)固守しました。
冀県は漢陽郡に属します。郡と涼州刺史の治所だったため、「州郡を奉じて」と書いています。
馬超が冀城を攻撃しましたが、正月から八月に至っても救兵が来ませんでした。
冀城が数重に包囲されていたため、閻温は夜の間に水中を潜って外に出ました。
ところが閻温は城に向かって大声でこう呼びかけました「大軍は三日もせずに至る。努力せよ(大軍不過三日至,勉之)!」
城中の者は皆泣いて万歳を称えました。
馬超は怒りましたが、久しく城を攻めても落とせなかったため、改めてゆっくり閻温を誘い、閻温が意思を変えることを期待しました。
しかし閻温が「君(主)に仕えたら死ぬことはあっても二心を抱くことはない。それなのに卿は長者に不義の言を発させようと欲するのか(事君有死無二而卿乃欲令長者出不義之言乎)」と答えたため、馬超はついに閻温を殺しました。
一方、城内では、暫くしても外からの救援が来ないため、韋康と太守が投降を欲しました。
楊阜が号哭して諫め、「阜(私)等が父兄子弟を率いて義によって互いに励まし、たとえ死んでも二心を抱かなかったのは、使君(州郡の長)を助けてこの城を守るためです(阜等率父兄子弟以義相勵有死無二,以為使君守此城)。今、なぜすぐに成る功を棄てて、不義の名に陥るのでしょうか(柰何棄垂成之功,陷不義之名乎)」と言いました。
しかし刺史と太守はこれを聴かず、城門を開いて馬超を迎え入れます。
『資治通鑑』に戻ります。
この時、氐王・千万が反して馬超に応じ、興国に駐屯しました。
夏侯淵は軍を率いて還りました。
楊阜の外兄(父の姉妹の子で自分より年上の者)に当たる天水の人・姜敍は撫夷将軍になり、兵を擁して歴城に駐屯していました。
楊阜は姜敍とその母に会いに行き、むせび泣いて甚だ悲痛しました(歔欷悲甚)。
姜敍が問いました「なぜそのようにするのだ(何があったのだ。原文「何為乃爾」)?」
楊阜が言いました「城を守っても完遂できず、君(主)が亡くなっても死ねませんでした。また何の面目があって天下に視息できるでしょう(活きていけるでしょう。「視息」は「見たり息をすること」で、「とりあえず活きること」を意味します)。馬超は父に背いて(馬超が挙兵したために父・馬騰が殺されました)君(主)に叛し、州将を虐殺しました。どうして阜(私)だけの憂責(憂憤・自責)なのでしょう。一州の士大夫が皆、その恥を蒙っています。君(あなた)は兵を擁して専制しているのに(権力を握っているのに)、賊を討つ心がありません。これは趙盾が『君を弑した(弑君)』と書かれた理由です(春秋時代、晋の趙穿が君主・霊公を殺した時、史官が「趙盾がその君を弑した」と書きました。趙盾は自分ではないと言いましたが、史官は「あなたは正卿でありながら賊を討とうとしないので、あなたの責任です」と答えました。東周匡王六年・前607年参照)。馬超は強いものの義がなくて釁(過失。罪)が多いので、容易に図れます。」
姜敍の母が慨然として(憤慨して)言いました「咄(叱咤の声です)!伯奕(姜敍の字)よ、韋使君(韋康)が難に遭ったのは汝の負(責任)でもあります。義山(楊阜の字)だけの責任ではありません(豈独義山哉)。人は誰が死なないのでしょう。忠義のために死ぬのなら、死に場所を得たことになります(人誰不死,死於忠義得其所也)。(あなたがすべきことは)ただ速やかに発するだけです。私を顧慮する必要はありません(勿復顧我)。私は汝のために自らこれに当たります(自分のことは自分でします。原文「我自為汝当之」)。余年(余生)をもって汝に迷惑をかけることはありません(不以余年累汝也)。」
こうして姜敍は同郡の人・趙昂、尹奉や武都の人・李俊等と共に馬超を討つ謀をし、また、人を冀に送って安定の人・梁寛、南安の人・趙衢と結び、内応させました。
次回に続きます。