東漢時代431 献帝(百十三) 馬超の反撃 213年(3)

今回も東漢献帝建安十八年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、魏公・曹操馬超を追って安定に至りましたが、田銀と蘇伯が反したと聞き、軍を率いて還りました曹操は前年正月に鄴に帰還しました)
涼州軍事・楊阜が曹操に進言しました「馬超には信・布韓信・英布)の勇があり、甚だ羌・胡の心を得ています。もし大軍が還り、備えを設けなかったら、隴上諸郡は国家のものではなくなってしまいます(非国家之有也)。」
 
曹操が還ると、果たして馬超が羌・胡の兵を率い、隴上の諸郡県を撃ちました。郡県は皆、馬超に応じます。
しかし冀城だけは州郡を奉じて(州刺史と郡太守を輔佐して)固守しました。
資治通鑑』胡三省注によると、隴西、南安、漢陽、永陽が隴上諸郡に当たります。永陽は献帝初平四年193年)に漢陽と上郡を分けて置かれました。
冀県は漢陽郡に属します。郡と涼州刺史の治所だったため、「州郡を奉じて」と書いています。
 
馬超は隴右の衆を全て兼併しました。張魯も大将・楊昂を派遣して馬超を助けたため、合わせて一万余人の勢力になります。
 
馬超が冀城を攻撃しましたが、正月から八月に至っても救兵が来ませんでした。
涼州刺史・韋康は別駕・閻温を外に送り、夏侯淵に急を告げさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、夏侯淵はこの時、長安に駐屯しています。
 
冀城が数重に包囲されていたため、閻温は夜の間に水中を潜って外に出ました。
しかし翌日、馬超の兵が迹(形跡、足跡)を見つけました。馬超が人を送って追跡させ、閻温を捕らえます。
馬超は閻温を車に乗せて城下に至り(載温詣城下)、城中に「東方の救援はない(東方無救)」と伝えさせました。
ところが閻温は城に向かって大声でこう呼びかけました「大軍は三日もせずに至る。努力せよ(大軍不過三日至,勉之)!」
城中の者は皆泣いて万歳を称えました。
馬超は怒りましたが、久しく城を攻めても落とせなかったため、改めてゆっくり閻温を誘い、閻温が意思を変えることを期待しました。
しかし閻温が「君(主)に仕えたら死ぬことはあっても二心を抱くことはない。それなのに卿は長者に不義の言を発させようと欲するのか(事君有死無二而卿乃欲令長者出不義之言乎)」と答えたため、馬超はついに閻温を殺しました。
 
一方、城内では、暫くしても外からの救援が来ないため、韋康と太守が投降を欲しました。
楊阜が号哭して諫め、「阜(私)等が父兄子弟を率いて義によって互いに励まし、たとえ死んでも二心を抱かなかったのは、使君(州郡の長)を助けてこの城を守るためです(阜等率父兄子弟以義相勵有死無二,以為使君守此城)。今、なぜすぐに成る功を棄てて、不義の名に陥るのでしょうか(柰何棄垂成之功,陷不義之名乎)」と言いました。
しかし刺史と太守はこれを聴かず、城門を開いて馬超を迎え入れます。
馬超は入城すると刺史と太守を殺し、自ら征西将軍・領并州并州牧兼任)・督涼州軍事涼州の軍事を監督する地位)を称しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述を元にしました。『後漢書孝献帝紀』は昨年に「八月、馬超涼州を破り、刺史・韋康を殺した」と書いています。あるいは、韋康が殺されるまでの記述は昨年の出来事かもしれません。
 
資治通鑑』に戻ります。
魏公・曹操夏侯淵を派遣して冀を救わせましたが、到着する前に冀が敗れました。
夏侯淵が冀から二百余里の地に至った時、馬超が迎撃しました。夏侯淵軍が不利になります。
この時、氐王・千万が反して馬超に応じ、興国に駐屯しました。
資治通鑑』胡三省注によると、氐王・千万は略陽清水の氐種(氐族)です。その後代が仇池(地名)の楊氏になります。興国は城の名です。
 
夏侯淵は軍を率いて還りました。
 
ちょうど楊阜が妻を喪ったため、妻を埋葬するため、馬超に假(休暇)を求めました。
楊阜の外兄(父の姉妹の子で自分より年上の者)に当たる天水の人・姜敍は撫夷将軍になり、兵を擁して歴城に駐屯していました。
資治通鑑』胡三省注によると、歴城は西県にあり、仇池の近くです。後に建安城に改名されます。
 
楊阜は姜敍とその母に会いに行き、むせび泣いて甚だ悲痛しました(歔欷悲甚)
姜敍が問いました「なぜそのようにするのだ(何があったのだ。原文「何為乃爾」)?」
楊阜が言いました「城を守っても完遂できず、君(主)が亡くなっても死ねませんでした。また何の面目があって天下に視息できるでしょう(活きていけるでしょう。「視息」は「見たり息をすること」で、「とりあえず活きること」を意味します)馬超は父に背いて馬超が挙兵したために父・馬騰が殺されました)(主)に叛し、州将を虐殺しました。どうして阜(私)だけの憂責(憂憤・自責)なのでしょう。一州の士大夫が皆、その恥を蒙っています。君(あなた)は兵を擁して専制しているのに(権力を握っているのに)、賊を討つ心がありません。これは趙盾が『君を弑した(弑君)』と書かれた理由です春秋時代、晋の趙穿が君主・霊公を殺した時、史官が「趙盾がその君を弑した」と書きました。趙盾は自分ではないと言いましたが、史官は「あなたは正卿でありながら賊を討とうとしないので、あなたの責任です」と答えました。東周匡王六年・前607年参照)馬超は強いものの義がなくて釁(過失。罪)が多いので、容易に図れます。」
姜敍の母が慨然として(憤慨して)言いました「咄(叱咤の声です)!伯奕(姜敍の字)よ、韋使君(韋康)が難に遭ったのは汝の負(責任)でもあります。義山(楊阜の字)だけの責任ではありません(豈独義山哉)。人は誰が死なないのでしょう。忠義のために死ぬのなら、死に場所を得たことになります(人誰不死,死於忠義得其所也)(あなたがすべきことは)ただ速やかに発するだけです。私を顧慮する必要はありません(勿復顧我)。私は汝のために自らこれに当たります(自分のことは自分でします。原文「我自為汝当之」)。余年(余生)をもって汝に迷惑をかけることはありません(不以余年累汝也)。」
 
こうして姜敍は同郡の人・趙昂、尹奉や武都の人・李俊等と共に馬超を討つ謀をし、また、人を冀に送って安定の人・梁寛、南安の人・趙衢と結び、内応させました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代432 献帝(百十四) 馬超敗退 213年(4)