東漢時代433 献帝(百十五) 韓遂敗走 214年(1)
甲午 214年
春正月、始めて籍田を耕しました(始耕籍田)。
「籍田を耕す」というのは、天子や諸侯が農業を奨励するための儀式です。
[二] 『三国志・魏書一・武帝紀』はここで「南安の人・趙衢、漢陽の人・尹奉等が馬超を討ち、その妻子を斬って首を曝した(梟其妻子)。馬超は漢中に奔った」と書いていますが、『資治通鑑』は前年に書いています。
張魯は馬超を派遣し、(北方に)戻って祁山を包囲させます(原文「馬超従張魯求兵,北取涼州,魯遣超還囲祁山」。祁山は漢中の北に位置します。馬超は北の涼州から南に奔って漢中の張魯を頼っていたので、「還囲祁山(北に還って祁山を囲む)」と書いています)。
姜敍等が夏侯淵に急を告げました。
諸将が議して魏公・曹操の節度(指示)を待とうと欲しましたが、夏侯淵はこう言いました「公は鄴におり、反覆(往復)四千里もある。報(曹操の回答・指示)がここに届く頃には、姜敍等は必ず敗れている。これでは急を救うことにならない(非救急也)。」
馬超は敗走しました。
当時、韓遂が顕親にいました。
諸将は韓遂を攻撃しようと欲し、またある者は興国氐を攻めるべきだと主張しました。
夏侯淵はこう考えました「韓遂の兵は精(精鋭)であり、興国の城は固(堅固)なので、攻めてもすぐには攻略できない(攻不可卒抜)。長離の諸羌を撃った方がいい。長離諸羌は多くが韓遂の軍におり、(故郷が攻撃されたら)必ず帰ってその家を救う。もし(韓遂が)羌を捨てて自分だけを守ったら(羌人を失うので)孤立することになり(若捨羌獨守則孤)、もし(韓遂が)長離を救ったら官兵(朝廷の兵。夏侯淵軍)が彼と野戦できるので、必ず虜にできる(必可虜也)。」
夏侯淵は督将を留めて輜重を守らせ、自ら軽兵を率いて長離に至り、羌屯を攻めて焼きました。
果たして韓遂が長離を救いに行きます。
しかし夏侯淵はこう言いました「我々は千里を転闘(転戦)した。今また営塹(営壁や壕)を造ったら、士衆が罷敝(疲弊)して用いられなくなる(不可復用)。賊はたしかに多勢だが与しやすい(対処しやすい。原文「賊雖衆易與耳」)。」
更に兵を進めて興国を包囲します。
氐王・千万は馬超に奔り、残りの衆は全て降りました。
その後、夏侯淵は兵を転じて高平屠各を撃ち、皆破りました(原文「転撃高平屠各皆破之」。「高平」は地名、「屠各」は匈奴の一部族です。「高平の屠各を撃った」のか、「高平と屠各を撃った」のか、はっきりしません。「皆破った」とあるので、「高平と屠各を撃った」が正しいとも思われますが、地名の「高平」が部族名の「屠各」と併記されるのは不自然です)。
韓遂が金城に遷り、氐王・千万の部に入りました(韓遂は建安十六年・211年に曹操に破れてから涼州に奔りました。『資治通鑑』では、韓遂は本年、顕親県(漢陽郡)におり、夏侯淵が顕親を攻めると韓遂は逃走しました。夏侯淵が略陽まで追撃していますが、『後漢書・郡国志五』によると、略陽も漢陽郡に属します。氐王・千万も略陽にいたはずなので(建安十八年・213年参照)、『武帝紀』が「韓遂が金城に遷って氐王・千万の部に入った」としているのは誤りではないかと思われます)。
建安年間、興国の氐王・阿貴と百頃(『三国志』裴松之注では「白項」ですが、『資治通鑑』胡三省注では「百頃」です。『三国志集解』は「百頃」が正しいとしています)の氐王・千万がそれぞれ一万余の部落を有していました。建安十六年(211年)になると、馬超に従って乱を為しましたが、馬超が破れてから、阿貴は夏侯淵に攻められて滅びました。千万は西南に移って蜀に入りましたが、その部落は行くことができず、全て投降しました。
安東郡の詳細はわかりません。
安定太守・毌丘興が着任する時、曹操が戒めて言いました「羌・胡が中国と通じようと欲したら、(彼等が)自ら人を派遣して来るべきだ。間違っても(こちらから)人を派遣してはならない(自当遣人来,慎勿遣人往)。善人は得難く、(悪人が)必ず羌・胡に教えて妄りに請求するようにさせ(羌・胡を示唆して妄りに請求させ)、それに乗じて自分の利にしようと欲する。もし(羌・胡の請求に)従わなかったら異俗(辺境)の意を失い、従っても益となる事がない。」
毌丘興は到着すると校尉・范陵を羌中に送りました。果たして范陵は羌人に示唆して、自分を属国都尉にするように請わせました。
前年、魏公・曹操が三人の娘を献帝の後宮に入れて貴人に立てることにしました。曹操の三人の娘は上から曹憲、曹節、曹華といいます。但し、年少の娘は適齢になるまで国(魏国)で待つことになったため、上の二人が迎え入れられました。
献帝は行太常事・大司農・安陽亭侯・王邑と宗正・劉艾にそれぞれ符節を持たせ、介者(介添え人)五人に束帛・駟馬を携行させ、給事黄門侍郎、掖庭丞および中常侍二人と共に魏公国から二貴人(曹憲と曹節)を迎えさせました。
二月癸亥、魏公の宗廟で二貴人に印綬を授けました。
甲子、(王邑等が)魏公宮の延秋門を訪ね、貴人を迎えて車に乗せました。
魏は郎中令、少府、博士、御府乗黄厩令、丞相掾属を派遣し、貴人に侍って送らせました。
癸酉、二貴人が洧倉に至りました。
(朝廷は)侍中・丹を派遣し、冗従虎賁を率いて前後に絶えることなく連ねさせ(前後駱駅)、二貴人を迎えさせました。
乙亥、二貴人が入宮しました。御史大夫と中二千石が大夫や議郎を率いて殿中で会し、魏国の二卿および侍中、中郎の二人が漢の公卿と共に殿に登って宴に参加しました。
『三国志集解』によると、二卿は郎中令と少府、中郎は虎賁中郎を指します。
『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では諸侯王に金印、赤紱、遠游冠を与えました。
「遠游冠」は「通天冠」と同じ作りで、高さが九寸あり、縦長で上部が少し斜めになった冠です(詳しい解説は省略します)。
夏四月、旱害がありました。
五月、大雨が降って被害が出ました(雨水)。
次回に続きます。