東漢時代 譲県自明本志令(述志令)

献帝建安十五年210年)曹操が『譲県自明本志令』を発表しました。

東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1)

 
ここでは『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注から全文を紹介します。
 
十二月己亥、曹操が令を発しました。

「孤(私)が始めて孝廉に挙げられた時はまだ年少で、元々巖穴知名の士(隠遁して名声がある士)ではなかったので、恐らく海内の人から凡愚とみなされることになると思い、一郡守と為ってよく政教(政治と教化)を行うことで名誉を建立し、世士(世の人士)に明知させようと欲した。だから済南にいた時は、始め残(暴虐)を除いて穢(姦悪)を去り、平心(公平な心)によって選挙を行ったが、諸常侍に違迕(意に逆らうこと)することになった。これによって彊豪(強豪)を忿(忿怒)させたため、家に禍を及ぼすことを恐れ、病を理由に(故郷に)還った。官を去った後もまだ年が若く(年紀尚少)、同歳の中を顧みたところ、年が五十でもまだ老を名としなかったので(同じ年に孝廉に推挙された者を見たところ、五十歳でも老齢と呼ばれていなかったので)、内に自らこれを図るに(心中でこれを考えるに)、今から二十年が過ぎ去り、天下が清まるのを待っても、まだ同歳の中で初めて挙げられた者と同等に過ぎないと思った(二十年待機してから世に出たとしても、五十歳で初めて孝廉に挙げられた者と同等に過ぎないと思った。原文「従此却去二十年待天下清,乃與同歳中始挙者等耳」)よって、四時(四季)をもって郷里に帰り(年中、郷里に帰ったままでおり)、譙の東五十里に精舍(学舎。書斎)を築き、秋夏は読書して冬春は射猟しようと欲し、底下の地(低い地)を求めて泥水によって自分を蔽い(隠し)、賓客が往来する望(期待。考え)を絶とうと欲した。しかし如意を得ることはできず(意の通りにすることはできず)、後に徵されて(召されて)典軍校尉に遷った。そこで意を改め、国家のために賊を討って功を立てようと欲し、(ゆくゆくは)封侯されて征西将軍になり、後に墓道に題して『漢故征西将軍曹侯之墓』と書かれたいと望んだ。これが(当時の)志である。

しかしちょうど董卓の難に遭ったので、義兵を興挙した。この時、兵を集めるに多くを得ることができたが(多くの兵を集められたが。原文「合兵能多得耳」)(私は)常に自ら損ない(わざと兵を削り)、多くすることを欲しなかった。その理由は、兵が多ければ意が盛んになり、彊敵(強敵)と争ったら、あるいは逆に禍始(禍根)になってしまうかもしれないからだ(原文「多兵意盛,與彊敵争,儻更為禍始」。兵が多ければ強敵と戦わなければならず、逆に禍を招くことになるという意味だと思います)。だから汴水の戦では数千(の兵しかおらず)、後に還って揚州に至り、改めて募った時も、また三千人を越えなかった。これは(私の)本志に限りがあったからである(本来は大きな志を抱いていなかったからである)
後に兗州を領し、黄巾三十万の衆を破って降した。袁術が九江で僭号した時は、下(袁術の部下)が皆、臣を称し、門に建号門と名付け、衣被(衣服)は全て天子の制を為し(天子の制度に則り)、両婦(二人の婦人)があらかじめ皇后になることを争った。志計(志と計画)が既に定まり、ある人が袁術にすぐ帝位に即いて天下に露布(公開)するように勧めたが、袁術は)答えてこう言った『曹公がなお存在しているから、まだできない(曹公尚在,未可也)』。後に孤(私)がその四将を討って禽(虜)にし、その人衆を獲たので、遂に袁術を窮亡・解沮(瓦解・崩壊)させ、袁術は)発病して死んだのである。
袁紹が河北を占拠するに至り、兵勢が彊盛(強盛)になると、孤(私)は自分の勢力を計算して実に敵対できないと思ったが(孤自度勢実不敵之)、ただ国のために死に投じ、義によって身を滅ぼすのは、後世に垂らす(名を残す)に足りると計ったのである(考えたのである)。そして、幸いにも袁紹を破り、その二子の首を曝すことができた(梟其二子)
また、劉表は自らが宗室であることを利用し、姦心を隠し持ち(包藏姦心)、突然進んだり退いたりして(乍前乍却)、世事を観察し、当州(本州。自分が統治する州。ここでは荊州を指します)を占有していた。しかし孤(私)がまたこれを定めたので、ついに天下が平らげられた。
この身は宰相になり、人臣の貴が既に極まって、既に意望を過ぎた(既に願いを超越した)
今、孤(私)がこれを言うのは自大(誇大)しているようだが、人言(他者の言論、誹謗)を尽きさせよう(絶たせよう)と欲したから、遠慮しなかったのである(欲尽人言故無諱耳)。もしも国家に孤(私)がいなかったら、幾人が帝を称し、幾人が王を称したか分からない。あるいは、人が孤(私)の彊盛(強盛)を見て、また性(その人の性格)が天命の事を信じないので、私心(心中)(私を)批評し、(私に)不遜の志があると言い、妄りに忖度(推測)して、いつも耿耿(不安な様子)としている恐れがある(「私の強盛を見て天命を信じない人が、心中で秘かに私を批評し、簒奪の意思があると言い、勝手に推測して不安でいるかもしれない」。または「私の強盛を見て天命を信じない人が、心中で秘かに私を批評し、簒奪の意思があると言い、勝手に推測していることを恐れるので、私はいつも耿耿としている」。原文「或者人見孤彊盛又性不信天命之事,恐私心相評,言有不遜之志,妄相忖度,每用耿耿」)。斉桓・晋文が今日に至るまで称賛を残しているのは(垂称至今日者)、その広大な兵勢をもって、なお周室を奉じて仕えることができたからである。『論語』はこう言っている『(周は)天下を三分してその二を有しても殷に服して仕えたのだから、周の徳は至徳(最上の徳)といえるだろう。』これが大によって小に仕えることができるというものである(夫能以大事小也)。昔、楽毅が趙に走った時、趙王が彼と共に燕を図ろうと欲したが、楽毅は伏して涙を流し、こう答えた(伏而垂泣対曰)『臣が(燕の)昭王に仕えたのは、大王に仕ているのと同じです。臣がもしも戾(罪)を獲て他国に放たれたとしても(趙から追放されたとしても)、世に没して終るだけのことです(没世然後已)。趙の徒隷(奴隷)を謀る(狙う)のも忍びないのですから、燕の後嗣に対してはなおさらです。』胡亥が蒙恬を殺した時、蒙恬はこう言った『吾(私)の先人から子孫に至るまで、秦の三世において信を積んできた。今、臣は兵三十余万を率い、その勢は背叛するに足りる。しかし自ら必ず死ぬと知っているのに義を守るのは、敢えて先人の教えを辱めて先王(の恩)を忘れることができないからである。』孤(私)はこの二人の書を読むたびに、愴然(悲傷の様子)として涙を流さないことがなかった。孤(私)の祖父から孤(私)の身に至るまで、皆、親重の任(皇帝に近い重要な職)に当たったのは、信用されたからだといっていいだろう(可謂見信者矣)。子桓曹操の子・曹丕の字)兄弟に及んだら三世(三代)を越えることになる(祖父、父、自分、子の四代が信任されたことになる)。孤はただ諸君に対してこれを説くのではなく、常に妻妾にも語り、皆、深くその意を知らせている(私の気持ちを理解させている)。孤(私)はこう言っている『私の万年の後(死後)を考えると(顧我万年之後)、汝曹(汝等)は皆出嫁するはずだ(別の者に嫁ぐことになるはずだ)(その時には汝等に)我が心を伝道させ(伝え広めさせ)、他の人にも皆にこれを知らせたいと欲する。』孤(私)のこの言は、皆、肝鬲の要(胸中の要。大切な思い)である。勤勤懇懇として心腹を敘すのは(懇切丁寧に心中の思いを述べるのは)、周公が金縢(金の帯で縛った箱)の書があったことで自明したのを見て(周公が金縢の書によって自分の忠心を明らかにできたのを見て)、人が曹操の心意を)信用しないことを恐れるからである(周公・旦は西周武王が病になった時、自分が身代わりになることを望んで祈祷し、その祭文を金縢に入れて保管しました。後に武王の子・成王が即位すると、周公・旦の忠心を疑いましたが、金縢の書を見つけて誤解を悟りました。西周武王十三年および成王二年参照)
しかしこれによって孤(私)に管理している兵衆を放棄させ、そうすることで執事(実権)を還し、武平侯国に帰らせようと欲するのは、実にできないことだ(忠心を疑われるかもしれないからといって、私が自分自身に兵権を解かせて、実権を返し、封国に帰るというのはできない)。それはなぜか(何者)。自分が兵権から離れた後、人に害されることを誠に恐れるからだ。既に子孫のために計っており、また、私自身が敗れたら国家が傾危(転覆)するので、虚名を慕って実禍に身を置くようなことは、できないのである。以前、朝恩によって三子が侯に封じられた時、固く辞して受けなかったが、今、改めてこれを受けようと欲するのは、それによってまた栄を為そうと欲しているのではなく(更に栄誉を加えたいからではなく)、それを外援とすることで万安の計を為そうと欲するからである。孤(私)は介推(介之推)が晋封(晋による封賞)を避け、申胥(申包胥)が楚賞(楚による賞賜)から逃げたと聞き、書を捨てて(置いて)嘆息しないことはない。これによって自省することがあるからだ。
国の威霊を奉じ、鉞を持って征伐し(仗鉞征伐)、弱を推して(進めて)それによって彊(強)に克ち(推弱以克彊)、小にいながら大を虜にし(処小而禽大)、意の図るところは、動けば事に違わず(心中で計画したことは、実行したら失敗することなく。原文「意之所図,動無違事」)、心の慮るところは、済まないはずがない(心中で考慮したことは必ず成功する。原文「心之所慮,何向不済」)。こうして天下を蕩平(平定)し、主命を辱めなかったのは、天が漢室を助けたと言うべきであり、人力(私の力)によるものではない。それなのに封じられて四県を兼ね、食戸は三万に上る。どのような徳がこれに堪えられるだろう(私にはそれほどの徳はない。原文「何徳堪之」)。江湖(南方。孫権劉備がまだ静かではないので、位(官位)を譲ることはできないが、邑土に至っては辞すことができる。今、陽夏・柘・苦の三県、戸二万を上還(返上)し、ただ武平の万戸を食(食邑)とすることで、とりあえず謗議を分損して孤の責を少減させることにする。」