東漢時代 魏公曹操(1)

献帝建安十八年213年)献帝曹操を魏公に封じました。

東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1)


以下、『三国志・魏書一・武帝紀』から策命の内容を紹介します。二回に分けます。
 
「朕献帝は不徳によって幼少から愍凶(父母の死。または不幸)に遭い、越えて西土あり、唐・衛に遷った(遥か遠い西方の長安に遷り、その後また唐・衛(河東・河南)に遷った。原文「越在西土,遷于唐衛」)。その時に当たっては、綴旒のようであり(原文「若綴旒然」。「綴旒」は装飾の垂れがついた旗です。旗は下の者が持ちあげて移動するので、実権を持たないことの比喩に使われました。「若綴旒然」は「飾りがついた旗のように下の者に操られ、実権を持たなかった」という意味です)、宗廟が祀(祭祀)を乏しくし、社稷に位(神位、牌位。または社稷があるべき地位)がなくなった。群凶が覬覦(分不相応な野心を抱くこと)し、諸夏(中華。中原)を分裂させ、率土(全国)の民を朕は獲られなかった(朕が民を治めることはできなかった)。こうして我が高祖の命(高祖が受けた天命。漢朝の国運)が地に墜ちようとしたのである。そこで朕は朝早く起きて仮眠を取るだけで(用夙興假寐)、この心に震悼(恐れと悲痛)を抱いてこう言った「祖先よ、父よ、股肱よ、先正よ(原文「惟祖惟父,股肱先正」。裴松之注によると、「先正」は公卿大夫を指します)、誰が朕の身を憐れむことができるのか(其孰能恤朕躬)。」それが天衷(天の善意)を誘い、丞相曹操を誕育し(産み育て)、我が皇家を保乂し(守って安定させ)、艱難から弘済したので(広く救ったので)、朕は実にこれに頼っている。
今、君に典礼を授けるので、朕の命を敬聴せよ(謹んで朕の命を聴け)
昔、董卓が初めて国難を興し、群后が位を棄てて王室を謀った時(諸侯が自分の国を棄てて皇室を助けようと図った時)、君は率先して進み、始めに戎行(軍事)を開いた(率先して董卓誅討の道を開いた。原文「君則攝進,首啓戎行」)。これは本朝に対する君の忠である。後に黄巾が天常(天理)に逆らってそれを転覆させ(反易天常)、我が三州を侵して(害が)平民に及んだが、君はまたこれを翦し(滅ぼし)、東夏(中原の東部)を安寧にした。これもまた君の功である。韓暹、楊奉が威命を専用(専断)すると、君は討を到らせ(討伐を行い)、その難に克って取り除き(克黜其難)、こうして許都に遷り、我が京畿を造り、官を設けて祭祀を始め(設官兆祀)、旧物(古い制度や器物)を失うことなく、天地・鬼神がこれによって乂(安定)を獲た。これもまた君の功である。袁術が僭逆(僭号・謀反)して淮南で専横したが(肆於淮南)袁術は)君の霊(心霊。威霊)が英明な謀を用いるのではないかと懼れ憚った(懾憚君霊用丕顕謀)。蘄陽の役では橋蕤が首を授け、稜威(威風)が南に邁進し、袁術はそれによって隕潰(覆滅)した。これもまた君の功である。戈を廻らして(軍の向きを変えて)東征し、呂布が戮に就いた(誅殺された)。轅(車)に乗って引き返す時、張楊が殂斃(殺害・処刑)され、眭固が罪に伏し、張繍が稽服(拝服。投降)した。これもまた君の功である。袁紹は天常に逆乱し、社稷を危うくしようと謀り、その衆(大軍)に恃み(憑恃其衆)、軍事を起こして侮りの心を抱いていた(称兵内侮)。その時に当たって、王師は寡弱で天下が心を寒くさせ、固志(固い意志)を持つ者がいなかったが、君は大節を執り(持ち)、精が白日を貫き(原文「精貫白日」。「精」は「精誠」「忠誠」です。天に届くほどの忠義を表します)、その武怒(威怒。盛怒)を奮わせ、その神策を運用し、官渡で屆(極。殛。誅殺)をもたらして醜類を大殲(殲滅)させ(致屆官渡,大殲醜類)、我が国家を危墜(危機。危亡)から救わせた(俾我国家拯於危墜)。これもまた君の功である。師(軍)に洪河(大河。黄河を渡らせて四州を拓定(平定)し、袁譚と高幹が皆その首を曝し(咸梟其首)、海盗が奔迸(逃亡離散)して黒山(賊)が順軌した(帰順した。正道に帰った)。これもまた君の功である。烏丸三種は二世にわたって崇乱(騒乱)し、袁尚がこれを利用して塞北を逼拠(逼迫占拠)したが、(君は)馬を束ねて車を繋げ(原文「束馬縣車」。複数の馬で車を引っぱることで、険しい山道を進む様子です)、一征して滅ぼした。これもまた君の功である。劉表が背誕(命に背いて勝手に行動すること)して貢職を供えなくなると(貢物を献上しなくなると)、王師が道に就き(原文「王師首路」。「首路」は道に就く、出発するという意味です)、威風が先に逝き、百城八郡が腕を交えて膝を屈した(腕を縛って跪いた。投降した。原文「交臂屈膝」)。これもまた君の功である。馬超成宜が悪を同じくして助けあい(共に悪を行って助け合い。原文「同悪相済」)、河・潼に濱拠し黄河や潼関に沿って立て籠もり)、欲をほしいままにしようとしたが(求逞所欲)(君は)渭南でこれを殄(殲滅)し、献上した馘(殺した敵兵の耳)は万を数え、こうして辺境を定め、戎狄を撫和(慰撫順和)した。これもまた君の功である。鮮卑・丁零が訳を重ねて至り(原文「重訳而至」。複数の通訳を経て朝見するというのは、遠方の民族が帰順したことを意味します)、箄于・白屋が官吏の派遣を要請して朝貢した(原文「請吏率職」。官吏の派遣を請うというのは、朝廷の統治を受け入れたことを意味します)。これもまた君の功である。
君には天下を定めた功があり、それに重ねて明徳を海内に班敘(発布。施行)し、風俗を美に導き(宣美風俗)、勤教(勤勉な教化)を広く施し、刑獄を恤慎(慎重)にしたので、吏に苛政がなく、民に懐慝(心中の邪悪な考え)がなくなった。帝族を敦崇し(厚く敬い)、絶えた家系を継がせること(血筋が絶えた家を復興すること)を上表し(表継絶世)、旧徳・前功に対して全て序列に基いて秩(官位)を与えた(罔不咸秩)。伊尹(の明徳)は皇天に届き(格于皇天)、周公(の明徳)は四海を照らしたが(光于四海)、これら(曹操の明徳・功績)と比べたら些細なものである(方之蔑如也)。」
 
 
 
途中ですが、字数の関係でここで区切ります。