東漢時代 魏公曹操(3)

献帝が策命によって曹操を魏公に封じました。

東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1)

東漢時代 魏公曹操(1)

東漢時代 魏公曹操(2)


献帝の策命に答えて曹操が令を発しました。以下、裴松之(元は『魏書』の記述)からです。
曹操はこう言いました「九錫を受けて土宇(国土)を広く開いたのは、周公その人です。漢の異姓八王は高祖と共に布衣から起ちあがり、王業を刱定(創定。確立)しました。その功は至大なので、吾(私)がどうして彼等と比べられるでしょう(周公や漢の諸侯王と同列になることはできません。原文「吾何可比之」)。」
曹操は前後して三回謙譲しました。
 
すると中軍師・陵樹亭侯・荀攸、前軍師・東武亭侯・鍾繇、左軍師・涼茂、右軍師・毛玠、平虜将軍・華郷侯・劉勳、建武将軍・清苑亭侯・劉若、伏波将軍・高安侯・夏侯惇、揚武将軍・都亭侯・王忠、奮威将軍・楽郷侯・劉展、建忠将軍・昌郷亭侯・鮮于輔、奮武将軍・安国亭侯・程昱、太中大夫・都郷侯・賈詡、軍師祭酒・千秋亭侯・董昭、都亭侯・薛洪、南郷亭侯・董蒙、関内侯・王粲、傅巽、祭酒・王選、袁奐、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍・国明亭侯・曹洪、中領軍・万歳亭侯・韓浩、行驍騎将軍・安平亭侯・曹仁、領護軍将軍・王図、長史・万潜、謝奐、袁霸等が曹操に受け入れるように勧めて言いました勧進曰)「古の三代夏商周以来、臣(功臣)に土(領土。封地を授けており(胙臣以土)、受命(天命を受けた建国の君主)も中興(中興の君主)も輔佐に封秩するのは(輔佐の大臣に封地や秩禄を与えるのは)、皆、そうすることで功を褒めて徳を賞し、国の藩衛とするためでした。
以前は天下が崩乱して凶悪横暴な者が群れを成して起ちあがり(群凶豪起)、顛越跋扈の険(天下を転覆させたり凶暴な者が専横する危機)は語るに忍びないほどでしたが(不可忍言)、明公は身を奮って命を投げ出すことでその難に徇じ(命がけでその難に当たり。原文「以徇其難」)、二袁の簒盗の逆を誅し、黄巾の賊乱の類を滅ぼし、謀反の首謀者を全滅させました(殄夷首逆)(こうして)荒地の雑草を刈り除き(芟撥荒穢)、霜露で沐浴して(戦地に身を曝して)二十余年になります。書契以来(文字・記録が作られてから)、このような功はまだありません。
昔、周公は文・武西周文王・武王)の迹を継承し、既に完成した業を受け継いだので、枕を高くして墨筆し(原文「高枕墨筆」。「高枕」は安心して眠ること、「墨筆」は文章を書くことです。「既に平和な世になったので安心して眠り、文章を書くだけで戦地に出る必要がなかった」という意味です)、群后(諸侯)に拱揖(拱手・揖礼。挨拶)するだけで、商・奄の勤(勤務。ここでは叛乱した商・奄に対する討伐を指します)も二年を越えませんでした。呂望呂尚は天下を三分してその二を有している形勢を利用し(因三分有二之形)、八百諸侯の勢(勢力)に拠って、暫く旄鉞(指揮官の旗と鉞)を持ち、一時だけ指麾(指揮)しました。(二人が為した事はこの程度でしたが)しかし二人とも大いに土宇(国土)を啓き(開き)、州を跨いで国を兼ねました(数邑を合わせて領有しました)。周公には八子がいましたが、全て侯伯になり、白牡(白い牡牛)と騂剛(赤い牡牛)を使って天地を郊祀し、典策・備物(制度や器物)は王室に倣いました(擬則王室)。栄章寵盛(栄誉を顕揚する様子や恩寵の盛大さ)はこれほど弘大だったのです。漢興に至ると、佐命の臣(天命を助けた建国の功臣)の中で張耳と呉芮はその功が至薄(極めて少ないこと)だったのに、それでも城を連ねて地を開き、南面して孤を称しました(国君として君臨しました)。これは全て、明君達主(明君や道理に達した主)が上において行い、賢臣聖宰(賢臣や聡明な大臣)が下において受け入れたのであり、三代の令典(美令。優れた制度)、漢帝の明制であります。今、曹操と)労を較べたら周・呂(周公と呂尚が逸(楽。安逸)であり、功を計ったら張・呉(張耳と呉芮)が微(微少)なのに、制(制度。地位)を論じたら斉呂尚の国)・魯(周公の国)が重く、地を言ったら(領土を語ったら)長沙(呉芮の封国)が多くなります(張耳は趙王に封じられましたが、死後間もなくして趙国の王位が廃されたため、ここでは触れていません。呉芮は長沙王に封じられ、死後も子孫が継承して長沙王国は約五十年間存続しました)。このようであるので、魏国の封も九錫の栄も、旧賞に較べたら玉を抱いて褐(粗末な服)を着るようなものです(魏国に封じられるのも九錫の栄誉を得るのも、周・呂・張・呉が受けた恩賞に較べたら、優れた才能が有るのに粗末な服を着ているようなもので、まだ足りないくらいです。原文「況於旧賞,猶懐玉而被褐也」)。そもそも、列侯諸将は幸いにも龍驥(駿馬。優れた君主)にすがって微労(わずかな功労)を盗み得ることができ(幸攀龍驥得竊微労)、紫綬を佩して金印を懐にしている者はおよそ百を数え(功績によって高位に登った者は百人以上おり。原文「佩紫懐黄蓋以百数」)、また、それによって曹操が魏公になることによって、高位や名声を)万世に伝えようとしています。しかし明公だけが上において賞を辞退しているので、下の者に不安を抱かせることになるでしょう(将使其下懐不自安)。上は聖朝の歓心に違え、下は冠帯(官員)の至望(大きな希望)を失わせ、輔弼の大業を忘れて匹夫の細行(細かい品行)を信とするのは(信奉するのは)、攸等(臣等)が大懼(大きな危惧)とするところです。」
曹操は進言した者以外の者に命じて上奏文を作成させ(公勑外為章)、魏郡だけを受領しました。
 
しかし荀攸等が再び進言しました「伏して魏国の初封を見るに、聖朝(漢朝。献帝が慮(思慮。考え)を発し、群寮(群臣)に稽謀(意見を求めること)してから、策命したのです。しかし明公は久しく上指(天子の意旨)に違え、大礼(魏公任命の儀式)に即きませんでした。今、既に謹んで詔命を奉じ(虔奉詔命)、衆望に副って順じましたが(魏公の位を受け入れましたが)、また多を辞して少に当たろうと欲し、九を譲って一だけを受け入れています。これではまだ漢朝の賞が行われず、攸等(臣等)の請(請願)もまだ許されていないのと同じです。昔、斉・魯の封は東海を全て有し、疆域の井賦(井田制によって納められる田賦)は四百万家に上り、基(農業)が興隆して業(産業)が広くなり、功を立てるのが容易でした。だから翼戴の勳(天子を輔佐する勲功)を成し、一匡の績(全天下を正す功績)を立てることができたのです。今、魏国には十郡の名がありますが、それでも曲阜(魯)より少なく(猶減於曲阜)、その戸数を計ったら半数にもなりません不能参半)。王室(朝廷)の壁となって守らせ、石垣を築いて屏(壁)を建てるには(朝廷を守る諸侯とするには)、まだ足りないのです(藩衛王室立垣樹屏,猶未足也)。そもそも聖上(陛下。献帝)は亡秦に輔(補佐)がなかった禍をご覧になり、曩日(往日)の震蕩の艱(動乱の艱苦)を懲(誡め)としたので、忠賢を立てて託し、衰退を廃すことを為そうとしているのです(衰退を止めようとしているのです。原文「廃墜是為」)。明公が恭しく帝命を承り、拒違(拒絶)しないことを願います。」
曹操はついに命を受け入れました。
 
裴松之注は曹操による感謝の上書も紹介しています。次回に続きます。