東漢時代434 献帝(百十六) 蜀平定 214年(2)

今回は東漢献帝建安十九年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、魏公・曹操が廬江太守・朱光を派遣して皖に駐屯させ、大いに稲田を開かせました。
呂蒙孫権に言いました「皖田は肥美なので、もしも一度收孰したら、彼(敵)の衆が必ず増えます(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。「收孰(収熟)」は実った穀物を収穫することで、食糧があれば兵を増やすことができるので、曹操軍が拡大することになります)。早くこれを除くべきです。」
 
閏月(中華書局『白話資治通鑑』は「閏五月」としています)孫権が自ら皖城を攻めました。
諸将は土山を築いて攻具(攻城の道具)を増やそうと欲しましたが、呂蒙がこう言いました「攻具と土山を治めるとしたら(造るとしたら)、必ず日数を費やさなければ完成できません(必歴日乃成)(その間に)城の備えが既に修まり、外救(外からの援軍)が必ず至るので、図れなくなります(城を取れなくなります。原文「不可図也」)。そもそも我々は雨水に乗じて入りました。もし留まって日が経ったら、水が必ず尽きる方向に向かうので(水が少なくなっていくので。原文「水必向尽」)、還る道が艱難になります。蒙()は心中でこれを危ぶみます(蒙竊危之)。今、この城を観るに、守りを十分に固くすることはできないので不能甚固)、三軍の鋭気をもって四面から並攻すれば、時を移すことなく攻略できます(不移時可抜)(その後)水に及んで帰るのが(水があるうちに帰るのが。原文「及水以帰」)全勝の道です。」
孫権はこの意見に従いました。
 
呂蒙甘寧を升城督(攻城の指揮官)に推挙しました。
甘寧は手に練(白い絹)を持ち、体を城壁につけ、士卒に率先して登りました(寧手持練身縁城為士卒先)
呂蒙は精鋭を送って甘寧の後に続かせ、自らも手に枹鼓(戦鼓と桴(ばち)を持ちました。士卒が皆、騰踊(発奮勇躍)します。
侵晨(空が明るくなる頃)に進攻して食時(辰時。朝食の時間。午前七時から九時)には城を破り、朱光および男女数万口を獲ました。
 
やがて張遼が夾石に至りましたが、皖城が既に陥落したと聞いて退きました。
 
孫権呂蒙を廬江太守に任命し、引き還して尋陽に駐屯しました。
 
三国志・呉書二・呉主伝』は「五月、孫権が皖城を征討した。閏月、これに克ち、廬江太守・朱光および参軍・董和と男女数万口を獲た」と書いています。
 
[十一] 『後漢書孝献帝紀』からです。
劉備劉璋を破って益州を占拠しました。
 
以下、『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』から詳しく書きます。
二年前に劉備が葭萌から引き返して劉璋を攻撃しました。
本年、諸葛亮関羽荊州に留めて守らせ、張飛趙雲等と共に兵衆を率いて泝流(川を遡ること)し、巴東を攻略しました。
資治通鑑』胡三省注によると、献帝初平六年(初平は四年しかないので誤りです)、趙韙が巴郡の安漢以下(以東)を分けて永寧郡とし、建安六年206年)劉璋が永寧を巴東郡にしました。
尚、『三国志・蜀書二・先主伝』は前年に「諸葛亮張飛趙雲等が兵を率いて泝流し、白帝、江州、江陽を定めた。関羽だけが留まって荊州を鎮守した」と書いています(既述)
 
諸葛亮等は江州に至り、巴郡太守・厳顔を破って生け獲りにしました。
張飛が厳顔を叱咤しました「大軍が既に至ったのになぜ降らず、敢えて拒戦(抗戦)したのだ!」
厳顔が言いました「卿等は理由もなく我が州を侵奪している(卿等無状侵奪我州)。我が州には断頭する将軍がいるだけだ。投降する将軍はいない(我州但有断頭将軍,無降将軍也)。」
張飛は怒って左右の者に命じ、引きずり出して首を斬らせました(牽去斫頭)。しかし厳顔は容止(様相、振舞い)を変えることなく、こう言いました「頭を斬るのなら斬ればいい。何を怒る必要があるのだ(斫頭便斫頭,何為怒邪)。」
張飛は厳顔を壮士と認めて釈放し(壮而釈之)、賓客として招き入れました。
 
諸葛亮は兵を分け、趙雲を外水から派遣して江陽、犍為を平定させ、張飛には巴西、徳陽を平定させました。
資治通鑑』胡三省注によると、江陽は犍為郡に属す県でしたが、劉璋が分けて江陽郡を置きました。
巴西郡は建安六年206年)劉璋が巴郡の墊江以上(以西)を分けて置いた郡です。
徳陽県は広漢郡に属します。
巴郡から益州に向かって左(南)に遡るのが蜀外水、右(北)に遡るのが涪内水になります。趙雲は南西(犍為方面)に、張飛は北西巴西方面)に進みました。
 
劉備が雒城を包囲して一年近く経ち、龐統が流矢に中って死にました。
 
法正が牋(書信)劉璋に送って形勢の強弱について述べ、併せてこう言いました「左将軍は益州で)挙兵して以来、旧心劉璋に対する厚情)を捨てたことがなく(旧心依依)、実に薄意(悪意。薄情な心)がありません。私が愚考するに、変化(態度の変化。帰順)を図ることで尊門(尊貴な家門。劉璋の家)を保つべきです(愚以為可図変化以保尊門)。」
劉璋は回答しませんでした。
 
やがて雒城が陥落しました。
劉備が兵を進めて成都を包囲し、諸郡県を平定した諸葛亮張飛趙雲等も兵を率いて合流します。
 
当時、馬超張魯を頼っていましたが、共に事を計るには足りないと知り、また、張魯の将・楊昂等がしばしば馬超の能を害したため馬超を讒言して能力を発揮するのを妨害したため。原文「数害其能」)馬超は内心で於邑(于悒。憂憤)を抱きました。
劉備建寧督郵・李恢(『資治通鑑』胡三省注によると、蜀後主(二代皇帝・劉禅建興三年225年)になって益州郡を建寧郡に改めます。この時の李恢益州郡督郵のはずです)を派遣して馬超を説得させると、馬超は武都から逃げて氐中に入り、密書を送って劉備に投降を請いました。
劉備は人を送って馬超を制止させ、秘かに兵を送って援けました馬超の兵を増強させました。原文「潜以兵資之」)
馬超成都に到着すると、劉備馬超に命じ、軍を率いて城北に駐屯させました。
成都城中の人々が震怖(震撼・恐惧)します。
 
劉備が城を包囲して数十日が経ちました。
従事中郎・涿郡の人・簡雍(簡が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、魯に大夫・簡叔がいました。また、簡雍は元の姓を耿といい、後になまって簡になったともいいます)を城内に派遣して劉璋を説得させます。
当時、城中にはまだ精兵三万人がおり、穀帛は一年を支えることができたため、吏民とも全て死戦を欲しました。
しかし劉璋はこう言いました「父子が州にいて二十余年になるが(劉焉は霊帝中平五年・188益州牧になりました。本年で足掛け二十七年です)、恩徳を百姓に加えることがなかった。百姓が攻戦して三年、身をもって草野を育てさせたのは、璋(私)が原因である(原文「肌膏草野者以璋故也」。『三国志・蜀書一・劉二牧伝』『資治通鑑』とも「肌膏草野」と書いていますが、「身膏草野」ではないかと思われます。「自分の体を草地の肥料にする」という意味で、死体を野に曝すことを意味します)。どうして心を安んじることができるだろう(何心能安)。」
こうして劉璋は開城し、簡雍と同じ輿に乗って城を出て、劉備に降りました。
群下で涙を流さない者はいませんでした。
 
劉備劉璋を公安に遷し、全ての財物を返還して振威将軍の印綬を佩させました。
資治通鑑』胡三省注によると、これ以前に曹操劉璋に振威将軍の位を与えていました。劉備は今後もその印綬を佩すことを許しました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代435 献帝(百十七) 劉備の蜀経営(前) 214年(3)