東漢時代436 献帝(百十八) 劉備の蜀経営(後) 214年(4)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。
 
[十一(続き)] 成都が包囲された時、劉備が士衆にこう約束しました「もし事が定まったら、府庫の百物に孤(私)は関与しない(府庫の財物は自由にしていい。原文「府庫百物孤無預焉」)。」
成都が攻略されると、士衆は皆、干戈(武器)を捨てて諸藏(諸倉庫)に赴き、競って宝物を奪いました。
そのため軍用(軍需物資)が不足し、劉備は甚だ憂いました。
すると劉巴がこう言いました「これは容易なことです(此易耳)。ただ百銭に値する貨幣を鋳造し、諸物価を平らにして、吏に官市を為すように命じるだけのことです。」
原文は「但当鋳直百銭,平諸物價,令吏為官市」です。
「直百銭」は値百銭の貨幣です(「直」は「値」に通じます)。『資治通鑑』胡三省注によると、蜀が鋳造した「直百銭」には「直百」という文字が刻まれました。また、蜀では「五銖銭」も流通しており、大きさも重さも「直百銭」と同じで、直径七分、重さ四銖でした。
「直百銭」の価値は通常の「五銖銭」の百倍になるため、鋳造すればするほど政府の財政が潤います。しかし額面が大きい貨幣を乱発したら貨幣価値が下がり、物価が上がることになります。そこで、官吏に命じて官市(官府が監督する市場)を組織させ、物価を安定させました。
 
劉備劉巴の意見に従いました。
その結果、数カ月間で府庫が充実しました。
 
当時、議者が成都の名田宅を分けて諸将に与えることを欲しました。
趙雲がこう言いました「霍去病は匈奴が滅んでいなかったので家(豪華な邸宅)を必要としませんでした(原文「霍去病以匈奴未滅無用家為」。西漢武帝元狩四年・前119年参照)。今の国賊匈奴程度ではないので匈奴よりも強敵なので。原文「国賊非但匈奴」)、まだ安(安逸)を求めることはできません。天下が全て定まり、それぞれ桑梓(故郷。元は祖父母や父母が植えた桑・梓の樹で、『詩経・小雅·小弁』の「維桑與梓,必恭敬止」が元になっています。ここから「桑梓」は「故郷」を表すようになりました)に戻り、還って本土を耕すようになるのを待ってから、そうするのが相応しいでしょう(乃其宜耳)益州の人民は兵革(戦争)に遭ったばかりなので(初罹兵革)、田宅を全て帰還(返還)するべきであり、まず安居復業させれば、その後に役調(兵役・課税)ができ、彼等の歓心を得られます(または「まず安居復業させ、その後に役調すれば、彼等の歓心を得られます」。原文「令安居復業然後可役調得其歓心」)。それ(民の田宅)を奪って愛する者(諸將)を私情によって寵遇するべきではありません(不宜奪之以私所愛也)。」
劉備はこの意見に従いました。
 
劉備劉璋を襲った時、中郎将・南郡の人・霍峻を留めて葭萌城を守らせました。
張魯が楊昂を派遣して霍峻を誘い、共に城を守ることを求めましたが、霍峻はこう言いました「小人(私)の頭は得ることができるが、城は得ることができない!」
楊昂は退却しました。
後に劉璋の将・扶禁(扶が氏、禁が名です)、向存等が一万余人を率いて閬水を遡り、霍峻を包囲攻撃しました。
資治通鑑』胡三省注によると、閬水は西漢水、現在の嘉陵江です。
 
霍峻は一年近く包囲されました。城中の兵はわずか数百人しかいません。しかし敵の怠隙(怠惰と隙)を伺い、精鋭を選んで出撃しました。その結果、劉璋軍を大破して向存を斬りました。
劉備は蜀を平定してから、広漢を分けて梓潼郡を置き、霍峻を梓潼太守に任命しました。
 
法正は外は都畿(法正は蜀郡太守です。『資治通鑑』胡三省注によると、劉備成都を都とし、蜀郡を都畿と呼びました)を統率し、内は謀主となりました。
法正は一餐の徳(一飯の恩恵)にも睚眦の怨(些細な怨み)にも報いないことがなく、かつて自分(法正)を毀傷した者(傷つけた者)数人を勝手に殺しました。
ある人が諸葛亮に言いました「法正は縦横(専横)し過ぎです。将軍は主公に報告してその威福を抑えさせるべきです(原文「宜啓主公,抑其威福」。この「啓」は「陳述」の意味です。「威福」は「賞罰を行う権利」です)。」
諸葛亮はこう言いました「主公が公安にいた時、北は曹操の強を畏れ、東は孫権の逼を憚り孫権による逼迫を畏れ)、近くは孫夫人劉備の妻。孫権の妹)が肘腋(身辺)で変を為すことを懼れた。法孝直(孝直は法正の字です)(主公の)輔翼(補佐)となり、(主公の)状況を一変して飛翔させ、再び制されることがないようにした(原文「令翻然翔不可復制」。劉備益州に迎え入れた功績を指します)。どうして孝直を禁止(制御)し、その意をわずかに行うこともできないようにさせられるだろう(法正の些細な専横は禁じることができない。原文「如何禁止孝直,使不得少行其意邪」)。」
 
諸葛亮劉備を輔佐して蜀を治めましたが、非常に厳峻を重んじたため、多くの人が怨歎(怨恨・悲嘆)しました。
そこで法正が諸葛亮に言いました「昔、高祖が関に入った時、法を簡約にして三章だけを制定したので(約法三章、秦民がその徳を知りました。今、君(あなた)は威力(威勢)を借り、一州を跨いで占拠し(假借威力,跨拠一州)、この国を有したばかりで、まだ恵撫(恩恵・慰撫)を垂らしていません。そもそも客主の義とは(客が態度を)降下させるべきです(客と主という関係においては、客が態度を低くさせるのが道理です。荊州から来た劉備の勢力は客になります。原文「客主之義宜相降下」)。刑を緩めて禁(禁制)を弛め、その望を慰めること(人々の怨みを慰めること。人々を安心させること)を願います。」
諸葛亮はこう言いました「君は一を知っているが、まだ二を知らない(君知其一,未知其二)。秦は無道をもってし、政治が苛刻だったので、民が怨恨し、匹夫(平民)が大呼して、天下が土崩(崩壊)した。高祖はこれに因ったので広く救済できたのだ(秦の政治が苛刻で民が苦しんでいたので、高祖は寛大な政治を行い、人々を広く救うことができた。原文「高祖因之可以弘済」)劉璋は暗弱で、劉焉劉璋の父)以来、累世の恩(二世にわたる恩)があるので、文法(法令)が制御され(原文「文法羈縻」。法礼が群臣に制御されて正しく行われていないという意味だと思います。「羈縻」は「制御」「束縛」です)、互いに承奉(阿諛)し合い、徳政が挙げられず、威刑が厳粛ではなかった(威刑不粛)。蜀土の人士は専権して自らほしいままにし(専権自恣)、君臣の道が徐々に衰落した(漸以陵替)。もし位を与えることで人を寵したら、位が極まった時に(その人は主を)軽視するようになり(寵之以位,位極則賎)、恩恵を与えることで人の要求に順じたら、恩恵が尽きた時に(その人は主に対して)怠慢になる(順之以恩,恩竭則慢)。敝(弊害。衰敗)を招く理由は実にこれが原因なのだ(所以致敝,実由於此)
(私)は今、法によって人に威を与えており、法が行われれば(人々は)恩を知ることになる(威之以法,法行則知恩)。また、爵をもって(人々を)制限しており爵位によって臣下の権限を定めているという意味だと思います)、爵が加われば(人々は)栄を知ることになる(限之以爵,爵加則知栄)。栄と恩が共に成就できたら、上下に節が生まれる(栄恩並済,上下有節)。為治の要はここにおいて著されるのである(「栄と恩が共に成就できて上下に節が生まれたら、為治の要が顕著になる」「そうすることで正しい政治が行われるようになる」。原文「為治之要於斯而著矣」)。」
 
劉備が零陵の人・蒋琬を広都長にしました。
以前、劉備が游観の機会に突然、広都に至ったことがありました。そこで蒋琬の衆事(諸政務)が治まっていないのを見ます。しかも蒋琬自身は沈酔(泥酔)していました。
劉備は大いに怒って罪戮(死刑)を加えようとしました。
しかし諸葛亮が命乞いをして言いました「蒋琬は社稷の器であって、百里(県長)の才ではありません。為政とは安民を本とし、修飾(表面上の飾った姿)を先(優先、筆頭)とはしないものです。主公が重ねて察(考察)を加えることを願います。」
劉備はかねてから諸葛亮を敬っていたため、蒋琬に罪(刑)を加えず、すぐに免官しただけでした。
 
[十二] 『三国志・呉書二・呉主伝』は「この年、劉備が蜀を定めた。孫権劉備が既に益州を得たので、諸葛瑾に命じて劉備から荊州諸郡を求めさせた(以下略)」と書いています。
資治通鑑』は翌年に書いています。
 
 
 
次回に続きます。