東漢時代437 献帝(百十九) 傅幹の諫言 214年(5)
『三国志・魏書十九・任城陳蕭王伝』によると、この時、曹操が曹植を戒めてこう言いました「吾(わし)が昔、頓邱令になった時は、歳が二十三だった。あの頃に行ったことを思いおこして、今後悔することはない(思此時所行無悔於今)。今、汝の歳も二十三である。努力しなければならない(可不勉與)。」
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そこで劉楨が文書で曹植を諫めました「君侯(あなた)は庶子(私)の春華(春の花。表面の美しさ)を採って家丞の秋実(秋の実り。本当に大切なこと)を忘れています。上に謗りを招いたら(上(曹操)の批難を招くことになったら。原文「為上招謗」)その罪は小さくないので、愚(私)は実に懼れています。」
曹操が出征する時、参軍・傅幹が諫めました「天下を治める大具(要点)は二つあります。文と武です。武を用いるなら威を優先し、文を用いるなら徳を優先します(用武則先威,用文則先徳)。威徳が補い合うに足りたら(威と徳が行われて互いに補い合うようになったら)、その後、王道が備わります(威徳足以相済而後王道備矣)。以前、天下が大乱して上下が序(秩序)を失った時、明公は武を用いてこれを払い除き、十のうち九を平らげました(用武攘之十平其九)。今、王命を受け入れていないのは呉と蜀で、呉には長江の険があり、蜀には崇山の阻があるので、威をもって服すのは困難ですが、徳をもって懐柔するのは容易です(難以威服易以徳懐)。愚見によるなら、暫く甲冑を置いて兵器を寝かせ(按甲寝兵)、軍を休めて士を養い(息軍養士)、土地を分けて封爵を定め(分土定封)、論功行賞するべきです。このようにすれば、内之の心が固まり、功績がある者が奨励され(有功者勧)、天下が制(制度。是非善悪や秩序)を知ります。その後、徐々に学校を興し、そうすることで善性を導いて義節を長じさせます。公の神武は四海を震わせているので、もし文を修めてこれを補えば(若修文以済之)、普天の下(天下)で不服を思う者がいなくなります。
今、十万の衆を挙げて長江の濱(辺)に頓(駐屯)しても、もし賊が堅固な地形に頼って深く隠れたら(負固深藏)、士馬がその能力を発揮できません(不能逞其能)。もし奇変がその権(臨機応変な態度)を用いるところがなかったら(臨機応変な奇策を用いることができなかったら。原文「奇変無所用其権」)、大威が屈して(挫かれて)敵心を服させることはできません。明公には、虞舜(帝舜)が干戚を舞った義を思い(「干」は「盾」、「戚」は「斧」です。舜の時代、有苗氏が服従しなかったため、禹が征伐しようとしましたが、舜は「徳が行われていないのに武に頼るのは道ではない」と言って三年間教化に努めました。その後、舜自ら干戚をもって舞を行ったところ、有苗氏が服従しました。ここから「(虞)舜舞干戚」は徳によって人を帰心させることを意味するようになりました)、威を全うして徳を養い、道によって勝ちを制すことを望みます。」
曹操は諫言に従わず出征し、結局、軍には戦功がありませんでした。
傅幹は字を彦材といい、北地の人です。最後は丞相倉曹属になりました。子がおり、傅玄といいます。
荀攸は深密(慎重で考えが奥深いこと。内心を見せないこと)で智防(事を測って自分を守る智謀)があり、曹操の攻討に従ってからは常に帷幄で謀謨(策謀。計策を立てること)しましたが、当時の人は子弟でも荀攸が発言したことを知りませんでした。
曹操はかつて荀攸を称賛してこう言いました「荀文若(文若は荀彧の字です)の進善(良策を進めること)は、進められなかったら止めなかった(良策を採用されるまであきらめなかった。原文「不進不休」)。荀公達(公達は荀攸の字です)の去悪(誤りや過失を除くこと)は、去らなければ止めなかった(悪が除かれるまであきらめなかった。原文「不去不止」)。」
また、こう称しました「二荀令(荀彧は漢の尚書令、荀攸は魏の尚書令でした)の論人(人を論じること。評論)は久しくしてますます信があった(時間が経てば経つほど評論が正しいと証明された。原文「久而益信」)。吾(私)は没世(終生)忘れない。」
西平と張掖の間に湟中城があり、小月氏の地でした。ここを小湟中といいます。
次回に続きます。