東漢時代437 献帝(百十九) 傅幹の諫言 214年(5)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。
 
[十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、魏公・曹操孫権を撃ちました。少子・臨菑侯・曹植を留めて鄴を守らせます。
 
三国志・魏書十九・任城陳蕭王伝』によると、この時、曹操曹植を戒めてこう言いました「吾(わし)が昔、頓邱令になった時は、歳が二十三だった。あの頃に行ったことを思いおこして、今後悔することはない(思此時所行無悔於今)。今、汝の歳も二十三である。努力しなければならない(可不勉與)。」
 
本文に戻ります。
曹操は諸子のために高い基準で官属を選んでおり、邢顒を曹植の家丞にしました。
刑顒は礼を用いて曹植を厳しく律し(防閑以礼)、屈橈(屈服)することがなかったため、曹植と合いませんでした。
庶子(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では列侯に家丞と庶子を各一人置きました。主に仕えて家事を管理します)・劉楨は文辞が美しかったため曹植に親愛されました。
そこで劉楨が文書で曹植を諫めました「君侯(あなた)庶子()の春華(春の花。表面の美しさ)を採って家丞の秋実(秋の実り。本当に大切なこと)を忘れています。上に謗りを招いたら(上曹操の批難を招くことになったら。原文「為上招謗」)その罪は小さくないので、愚(私)は実に懼れています。」
 
三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。
曹操が出征する時、参軍・傅幹が諫めました「天下を治める大具(要点)は二つあります。文と武です。武を用いるなら威を優先し、文を用いるなら徳を優先します(用武則先威,用文則先徳)。威徳が補い合うに足りたら(威と徳が行われて互いに補い合うようになったら)、その後、王道が備わります(威徳足以相済而後王道備矣)。以前、天下が大乱して上下が序(秩序)を失った時、明公は武を用いてこれを払い除き、十のうち九を平らげました(用武攘之十平其九)。今、王命を受け入れていないのは呉と蜀で、呉には長江の険があり、蜀には崇山の阻があるので、威をもって服すのは困難ですが、徳をもって懐柔するのは容易です(難以威服易以徳懐)。愚見によるなら、暫く甲冑を置いて兵器を寝かせ(按甲寝兵)、軍を休めて士を養い(息軍養士)、土地を分けて封爵を定め(分土定封)、論功行賞するべきです。このようにすれば、内之の心が固まり、功績がある者が奨励され(有功者勧)、天下が制(制度。是非善悪や秩序)を知ります。その後、徐々に学校を興し、そうすることで善性を導いて義節を長じさせます。公の神武は四海を震わせているので、もし文を修めてこれを補えば(若修文以済之)、普天の下(天下)で不服を思う者がいなくなります。
今、十万の衆を挙げて長江の濱(辺)に頓(駐屯)しても、もし賊が堅固な地形に頼って深く隠れたら(負固深藏)、士馬がその能力を発揮できません不能逞其能)。もし奇変がその権臨機応変な態度)を用いるところがなかったら臨機応変な奇策を用いることができなかったら。原文「奇変無所用其権」)、大威が屈して(挫かれて)敵心を服させることはできません。明公には、虞舜(帝舜)が干戚を舞った義を思い(「干」は「盾」、「戚」は「斧」です。舜の時代、有苗氏が服従しなかったため、禹が征伐しようとしましたが、舜は「徳が行われていないのに武に頼るのは道ではない」と言って三年間教化に努めました。その後、舜自ら干戚をもって舞を行ったところ、有苗氏が服従しました。ここから「(虞)舜舞干戚」は徳によって人を帰心させることを意味するようになりました)、威を全うして徳を養い、道によって勝ちを制すことを望みます。」
曹操は諫言に従わず出征し、結局、軍には戦功がありませんでした。
傅幹は字を彦材といい、北地の人です。最後は丞相倉曹属になりました。子がおり、傅玄といいます。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
魏の尚書令・荀攸が死にました。
 
荀攸は深密(慎重で考えが奥深いこと。内心を見せないこと)で智防(事を測って自分を守る智謀)があり、曹操の攻討に従ってからは常に帷幄で謀謨(策謀。計策を立てること)しましたが、当時の人は子弟でも荀攸が発言したことを知りませんでした。
曹操はかつて荀攸を称賛してこう言いました「荀文若(文若は荀彧の字です)の進善(良策を進めること)は、進められなかったら止めなかった(良策を採用されるまであきらめなかった。原文「不進不休」)。荀公達(公達は荀攸の字です)の去悪(誤りや過失を除くこと)は、去らなければ止めなかった(悪が除かれるまであきらめなかった。原文「不去不止」)。」
また、こう称しました「二荀令(荀彧は漢の尚書令、荀攸は魏の尚書令でした)の論人(人を論じること。評論)は久しくしてますます信があった(時間が経てば経つほど評論が正しいと証明された。原文「久而益信」)。吾(私)は没世(終生)忘れない。」
 
[十五] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三十余年前、隴西枹罕の人・宋建が涼州の乱に乗じて自ら河首平漢王を号し、枹罕で兵を集め、改元して百官を置きました。
資治通鑑』胡三省注によると、枹罕県は、西漢は金城郡に属しましたが、東漢は隴西郡に属しました。「河首」は賜支河上流を意味します。
 
冬十月、魏公・曹操夏侯淵に命じ、興国から出撃して宋建を討たせました。
 
夏侯淵が枹罕を包囲して攻略しました。枹罕を屠して(皆殺しにして)宋建を斬ります。
夏侯淵は別に張郃等を派遣し、河を渡って小湟中に入らせました。
河西の諸羌が皆、投降し、隴右が平定されました(『三国志武帝紀』は「涼州を平定した」と書いていますが、ここは『資治通鑑』に従って「隴右」としました)
 
資治通鑑』胡三省注によると、西海塩池の西北に湟水の源があり、湟水は東の金城允吾県に至って黄河に入ります。湟水を挟む両岸の地を湟中といいます。
西平と張掖の間に湟中城があり、小月氏の地でした。ここを小湟中といいます。
 
後漢書孝献帝紀』は「冬十月、曹操が将・夏侯淵を派遣し、枹罕で宋建を討たせてこれを獲た」と書いています。この「獲」は「首を獲た」の意味だと思います。
孝献帝紀』の注はここで「夏侯淵は字を妙才といい、沛国譙の人である」と紹介しています。
 
[十六] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
曹操合肥から還りました曹操孫権を討伐していました)
 
 
 
次回に続きます。