東漢時代438 献帝(百二十) 皇后弑殺 214年(6)

今回で東漢献帝建安十九年が終わります。
 
[十七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
献帝は許を都にしてから帝位を守るだけで、左右の侍衛は全て曹氏の人でした。
議郎・趙彦が常に献帝に時策(時勢に対応する計策)を進言したため、曹操が趙彦を憎んで殺してしまいました。
後に事情があって曹操が殿中に入り献帝に謁見すると、献帝は懼れに堪えられず(不任其懼)、この機に「君がもし輔佐することができるのなら寛厚であれ(または「君がもし輔佐することができるのなら、それは(朕にとって)厚恩である」。原文「君若能相輔則厚」)。しかしそうではないのなら、恩を垂らして捨てるのが幸である(朕に恩を与えて廃位するのが、朕にとって幸である。原文「不爾,幸垂恩相捨」)」と言いました。
曹操は色を失い、俛仰(仰ぎ見ること)して退出を請いました。旧儀では、三公が兵を指揮することになったら天子を朝見し、天子は虎賁(勇士)に武器を持って三公を挟ませました(この時も曹操の周りに武器を持った虎賁がいたはずです)
曹操は退出してから左右を顧み、汗が流れて背を濡らしました(汗流浹背)。この後、二度と朝請(朝見)しなくなります。
 
資治通鑑』のこの記述は『後漢書・皇后紀下』を元にしていますが、いつの事かははっきりしません。
三国志・魏書一・武帝紀』の裴松之注によると、旧制においては、三公が兵を指揮することになったら、皆、入朝して天子に謁見し、(勇士が)戟を交えて首を挟みながら前に進みました。曹操張繍を討伐する際、天子に朝覲(朝見)して、旧制が恢復されましたが、その後、曹操が朝見することはなくなりました献帝建安二年・197年記述)
後漢書・皇后紀下』の記述は張繍討伐前に朝見した時の事かもしれません。
 
董承の娘が献帝の貴人になりましたが、曹操は董承を誅殺してから献帝建安五年・200年)、董貴人も求めて殺しました。献帝は貴人が妊娠していることを理由に重ねて命乞いをしましたが、許されませんでした。
この事件があってから伏皇后が懼れを抱き、父の屯騎校尉・伏完に書を送って曹操の残逼の状(残虐で皇帝を逼迫している状況)を伝えました。董承が誅殺されたことによって帝が曹操を怨恨していると述べ、その言葉は甚だ醜悪で、しかも秘かに曹操を図るように命じます。
しかし、伏完は実行することができず、本年(建安十九年・214年)になって事が洩れてしまいました(『後漢書・皇后紀下』によると、伏完は建安十四年・209年に死んでいます)
 
十一月、激怒した曹操御史大夫・郗慮を派遣し、符節を持って策命によって皇后の璽綬を没収させました。尚書令・華歆を副とし、兵を率いて入宮させ、皇后を逮捕させます。
皇后は戸を閉じて壁中に隠れましたが、華歆が戸を壊して壁をはがし(壊戸発壁)、皇后を引きずり出しました。
この時、献帝は外殿におり、郗慮を招いて座席に着かせました(引慮於坐)
皇后は髪がばらばらになり、裸足のまま歩きながら泣き(被髪、徒跣、行泣)、帝の前を通る時、帝の手を取って別れを告げ、「もう(私を)活かすことはできないのですか不能復相活邪)」と言いました。
献帝は「私もこの命が何時まであるのか分からない(我亦不知命在何時也)」と答え、郗慮を顧みて「郗公よ(『資治通鑑』胡三省注によると、郗慮は漢の御史大夫で三公なので「郗公」と呼ばれました)、天下にこのような事があるのだろうか(天下寧有是邪)」と言いました。
皇后は位を廃され、暴室後宮の監獄)に下されて幽死(幽禁されたまま死ぬこと)しました。皇后が生んだ二皇子も酖毒で殺され、兄弟や宗族の死者は百余人に上りました。
 
皇后の死について、『資治通鑑』は『後漢書・皇后紀下』を元にしており、「皇后を暴室に下し(皇后は)幽死した」と書いています(原文「遂将后下暴室以幽死」。『皇后紀』は「幽死」ではなく「幽崩」ですが意味は同じです)
三国志武帝紀』では「皇后は廃位されて死んだ(后廃黜死)」、『武帝紀』裴松之注では「曹操が)皇后を殺した(遂将后殺之)」です。
また、『武帝紀』裴松之注は「伏完および宗族の死者は数百人(完及宗族死者数百人)」としていますが、伏完はこれ以前に死んでいます。
資治通鑑』は「兄弟および宗族の死者は百余人」としており、『後漢書・皇后紀下』の「兄弟および宗族の死者は百余人。(皇后の)母・盈等十九人が涿郡に遷された(兄弟及宗族死者百余人,母盈等十九人徙涿郡)」を元にしています。
後漢書孝献帝紀』は「十一月丁卯、曹操が皇后・伏氏を殺し、その族および二皇子を滅した」と書いており、『孝献帝紀』の注には「劉備が蜀でこれを聞いて喪を発した」とあります。
 
華歆について、『資治通鑑』胡三省注がこう書いています「当時、華子魚(華歆)は名称(名声)があり、邴原、管寧と共に三人で一龍を為すと号されていた。華歆が龍頭、邴原が龍腹、管寧が龍尾である。しかし華歆が為した事はこのようであり、邴原も曹操が与えた爵位によって籠絡された(為操爵所縻)。事を高尚にしたのは管寧だけである。当時の『頭尾の論』とは、(実際の行動ではなく)名位(名声と官位)による言であろう。嗚呼(悲しいことだ)。」
 
[十八] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、魏公・曹操が孟津に至りました。
 
[十九] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
献帝曹操に命じて旄頭(帝王が外出する時に先駆する騎兵)を置かせ、宮殿に鍾虡(鐘を掛ける台。猛獣の飾りがあります)を設けさせました。
 
[二十] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
乙未、曹操が令を発しました「徳行がある士が必ず進取(向上、昇進)できるとは限らず、進取した士に必ず徳行があるとも限らない(夫有行之士未必能進取,進取之士未必能有行也)。陳平は徳行を重んじ、蘇秦は信を守っただろうか(陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪)。しかし陳平は漢業を定め、蘇秦は弱燕を救った。これによって言うと(こうして見ると。原文「由此言之」)、士に偏短(不足、欠点)があっても、どうして廃せるだろう(庸可廃乎)。有司(官員)がこの義を明思すれば(思案してこの道理に通じれば)、士には遺滞(遺漏や停滞。優れた人材が用いられなかったり、出世が遅れること)がなくなり(士無遺滞)、官には廃業がなくなるだろう(「廃業」は「必要なのに実行できていない事業」です。「官無廃業」は「実務を行っていない無駄な官がなくなる」という意味です)。」
 
[二十一] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
曹操が言いました「刑とは百姓の命である(刑とは百姓の命に関わることである)。しかし軍中の典獄の者(刑獄を管理する者)は、あるいは相応しい人ではないのに(或非其人)(彼等に)三軍の死生の事を任せているので、吾(わし)は甚だこれを懼れる。よって、法理に明達した者を選んで典刑を持たせよ(刑獄を管理する権限を与えよ)。」
こうして理曹掾属が置かれることになりました。理曹は司法の官署です。
 
以下、『資治通鑑』からです。
曹操尚書郎・高柔を理曹掾にしました。
 
旧法では、軍征において士卒が逃亡したら妻子を考竟(刑を尽くすこと。拷問して死に至らせること)しましたが、それでも逃亡がなくなりませんでした。
そこで曹操は更に刑を重くして父母・兄弟にも刑を及ぼそうと欲しました。
高柔が進言しました(高柔の言は『資治通鑑』だけでは分かりにくいので、『三国志・魏書二十四・韓崔高孫王伝』を元にします)「士卒が軍から逃亡するのは、誠に憎むべきです(誠在可疾)。しかし窺い聞いたところ、時にはその中に悔いている者もいるとのことです。愚見によるなら(愚謂)、その妻子を赦すべきです(原文「宜貸其妻子」。この「貸」は「赦す」の意味です)。一つは賊の中(関係)を不信にさせることができ、二つは還ろうとする心を誘わせることができます(一可使賊中不信,二可使誘其還心)。以前の科(今までの法令)のようであったら、既にその意望(帰ろうとする気持ち)を絶たせています(正如前科,固已絶其意望)。その上、また(刑を)加えて重くしたら(猥復重之)、柔(私)は今後、軍にいる士が一人亡逃(逃亡)するのを見たら、誅が自分に及ぶことになると考え、またそれに従って逃走し、殺す者(兵やその家族)がいなくなってしまうのではないか(不可復得殺也)と恐れます。刑を重くしても逃亡を止めることにはならず、逆に逃亡を増やすことになるだけです(此重刑非所以止亡乃所以益走耳)。」
曹操は「善し(善)」と言い、すぐに逃亡した妻子への処罰を止めて殺さないようにしました(即止不殺)
 
 
 
次回に続きます。