東漢時代438 献帝(百二十) 皇后弑殺 214年(6)
献帝は許を都にしてから帝位を守るだけで、左右の侍衛は全て曹氏の人でした。
後に事情があって曹操が殿中に入り献帝に謁見すると、献帝は懼れに堪えられず(不任其懼)、この機に「君がもし輔佐することができるのなら寛厚であれ(または「君がもし輔佐することができるのなら、それは(朕にとって)厚恩である」。原文「君若能相輔則厚」)。しかしそうではないのなら、恩を垂らして捨てるのが幸である(朕に恩を与えて廃位するのが、朕にとって幸である。原文「不爾,幸垂恩相捨」)」と言いました。
曹操は色を失い、俛仰(仰ぎ見ること)して退出を請いました。旧儀では、三公が兵を指揮することになったら天子を朝見し、天子は虎賁(勇士)に武器を持って三公を挟ませました(この時も曹操の周りに武器を持った虎賁がいたはずです)。
『三国志・魏書一・武帝紀』の裴松之注によると、旧制においては、三公が兵を指揮することになったら、皆、入朝して天子に謁見し、(勇士が)戟を交えて首を挟みながら前に進みました。曹操が張繍を討伐する際、天子に朝覲(朝見)して、旧制が恢復されましたが、その後、曹操が朝見することはなくなりました(献帝建安二年・197年記述)。
この事件があってから伏皇后が懼れを抱き、父の屯騎校尉・伏完に書を送って曹操の残逼の状(残虐で皇帝を逼迫している状況)を伝えました。董承が誅殺されたことによって帝が曹操を怨恨していると述べ、その言葉は甚だ醜悪で、しかも秘かに曹操を図るように命じます。
皇后は戸を閉じて壁中に隠れましたが、華歆が戸を壊して壁をはがし(壊戸発壁)、皇后を引きずり出しました。
献帝は「私もこの命が何時まであるのか分からない(我亦不知命在何時也)」と答え、郗慮を顧みて「郗公よ(『資治通鑑』胡三省注によると、郗慮は漢の御史大夫で三公なので「郗公」と呼ばれました)、天下にこのような事があるのだろうか(天下寧有是邪)」と言いました。
皇后の死について、『資治通鑑』は『後漢書・皇后紀下』を元にしており、「皇后を暴室に下し(皇后は)幽死した」と書いています(原文「遂将后下暴室以幽死」。『皇后紀』は「幽死」ではなく「幽崩」ですが意味は同じです)。
『資治通鑑』は「兄弟および宗族の死者は百余人」としており、『後漢書・皇后紀下』の「兄弟および宗族の死者は百余人。(皇后の)母・盈等十九人が涿郡に遷された(兄弟及宗族死者百余人,母盈等十九人徙涿郡)」を元にしています。
華歆について、『資治通鑑』胡三省注がこう書いています「当時、華子魚(華歆)は名称(名声)があり、邴原、管寧と共に三人で一龍を為すと号されていた。華歆が龍頭、邴原が龍腹、管寧が龍尾である。しかし華歆が為した事はこのようであり、邴原も曹操が与えた爵位によって籠絡された(為操爵所縻)。事を高尚にしたのは管寧だけである。当時の『頭尾の論』とは、(実際の行動ではなく)名位(名声と官位)による言であろう。嗚呼(悲しいことだ)。」
十二月、魏公・曹操が孟津に至りました。
乙未、曹操が令を発しました「徳行がある士が必ず進取(向上、昇進)できるとは限らず、進取した士に必ず徳行があるとも限らない(夫有行之士未必能進取,進取之士未必能有行也)。陳平は徳行を重んじ、蘇秦は信を守っただろうか(陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪)。しかし陳平は漢業を定め、蘇秦は弱燕を救った。これによって言うと(こうして見ると。原文「由此言之」)、士に偏短(不足、欠点)があっても、どうして廃せるだろう(庸可廃乎)。有司(官員)がこの義を明思すれば(思案してこの道理に通じれば)、士には遺滞(遺漏や停滞。優れた人材が用いられなかったり、出世が遅れること)がなくなり(士無遺滞)、官には廃業がなくなるだろう(「廃業」は「必要なのに実行できていない事業」です。「官無廃業」は「実務を行っていない無駄な官がなくなる」という意味です)。」
曹操が言いました「刑とは百姓の命である(刑とは百姓の命に関わることである)。しかし軍中の典獄の者(刑獄を管理する者)は、あるいは相応しい人ではないのに(或非其人)、(彼等に)三軍の死生の事を任せているので、吾(わし)は甚だこれを懼れる。よって、法理に明達した者を選んで典刑を持たせよ(刑獄を管理する権限を与えよ)。」
こうして理曹掾属が置かれることになりました。理曹は司法の官署です。
以下、『資治通鑑』からです。
旧法では、軍征において士卒が逃亡したら妻子を考竟(刑を尽くすこと。拷問して死に至らせること)しましたが、それでも逃亡がなくなりませんでした。
そこで曹操は更に刑を重くして父母・兄弟にも刑を及ぼそうと欲しました。
高柔が進言しました(高柔の言は『資治通鑑』だけでは分かりにくいので、『三国志・魏書二十四・韓崔高孫王伝』を元にします)「士卒が軍から逃亡するのは、誠に憎むべきです(誠在可疾)。しかし窺い聞いたところ、時にはその中に悔いている者もいるとのことです。愚見によるなら(愚謂)、その妻子を赦すべきです(原文「宜貸其妻子」。この「貸」は「赦す」の意味です)。一つは賊の中(関係)を不信にさせることができ、二つは還ろうとする心を誘わせることができます(一可使賊中不信,二可使誘其還心)。以前の科(今までの法令)のようであったら、既にその意望(帰ろうとする気持ち)を絶たせています(正如前科,固已絶其意望)。その上、また(刑を)加えて重くしたら(猥復重之)、柔(私)は今後、軍にいる士が一人亡逃(逃亡)するのを見たら、誅が自分に及ぶことになると考え、またそれに従って逃走し、殺す者(兵やその家族)がいなくなってしまうのではないか(不可復得殺也)と恐れます。刑を重くしても逃亡を止めることにはならず、逆に逃亡を増やすことになるだけです(此重刑非所以止亡乃所以益走耳)。」
次回に続きます。