東漢時代439  献帝(百二十一) 韓遂の死 215年(1)

今回は東漢献帝建安二十年です。七回に分けます。
 
東漢献帝建安二十年
乙未 215
 
[] 『後漢書孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月甲子(十八日)献帝が貴人・曹氏を皇后に立てました。
魏公・曹操の娘(中女・曹節です。
 
天下の男子に対して一人あたり爵一級を下賜し、孝悌・力田には二級を与えました。
また諸王侯・公卿以下にそれぞれ差をつけて穀物を下賜しました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
雲中、定襄、五原、朔方郡を廃し、それぞれの郡に一県を置いてその民を統領させ、四県を合わせて新興郡にしました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、魏公・曹操が自ら兵を率いて西の張魯を征討しました。陳倉に至り、武都から氐(氐人が住む地域)に入ろうとします。
しかし氐人が道を塞いだため、曹操はまず張郃、朱霊等を派遣してこれを攻め破りました。
資治通鑑』胡三省注によると、武都は元々白馬氐が住んでいた地で、西漢武帝が開拓して郡にしました。
 
夏四月、曹操が陳倉から散関を出て河池に至りました。
氐王・竇茂の衆一万余人が険阻な地形に頼って服従しませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、陳倉県は右扶風に属し、その西南に大散関がありました。河池県は武都郡に属します。
 
五月、曹操軍が氐王・竇茂の衆を攻めて皆殺しにしました(攻屠之)
西平、金城の諸将・麴演、蒋石等が共に韓遂の首を斬って曹操に送りました韓遂は前年に西平に奔りました)
資治通鑑』胡三省注によると、漢末に金城を分けて西平郡が置かれました。
 
三国志武帝紀』裴松之注が韓遂についてこう書いています。
韓遂は字を文約といい、かつては同郡の辺章と共に西州で名が知られていました。辺章は督軍従事になりました。
韓遂が奉計(計簿を提出すること。朝廷に地方の財政や政治に関する報告を行うこと)のため京師を訪ねた時、何進がかねてからその名声を聞いていたため、特別に会見しました。そこで韓遂何進に諸閹人(宦官)を誅殺するように説得します。しかし何進が従わなかったので、韓遂は帰郷の許可を求めました。
ちょうど涼州の宋揚、北宮玉(北宮伯玉。霊帝中平元年・184年参照)等が反し、辺章と韓遂を主に挙げました。間もなくして辺章が病死しました(『資治通鑑』『後漢書董卓列伝(巻七十二)』では霊帝中平四年・187年に韓遂が辺章、北宮伯玉等を殺しています)韓遂は宋揚等に脅されたため、やむなく兵に頼って乱を為しました(阻兵為乱)。それから(中平元年から)三十二年が経ち、ここに至って七十余歳で死にました。
辺章は一名を辺元といいます。
 
[] 『資治通鑑』からです(建安十五年・210年の記述と一部重複します)
以前、劉備荊州にいた時、周瑜甘寧等がしばしば孫権に蜀を取るように勧めました。
そこで孫権が使者を派遣し、劉備にこう言いました「劉璋は不武なので(武勇がないので)、自ら守ることができない。もし曹操が蜀を得たら荊州が危うくなる。今、先に劉璋を攻めて取り、次に張魯を取ろうと欲する。南方を一統(統一)すれば、たとえ十操(十人の曹操がいたとしても憂いることはない(『三国志・蜀書二・先主伝』裴松之注では「一統呉楚,雖有十操,無所憂也」ですが、『資治通鑑』は「一統南方」としています)。」
劉備が答えました「益州は民が豊かで地が険しいので、劉璋は弱いとはいえ、自らを守るに足りています。今、蜀・漢に師(軍)を曝して万里に転運(輸送)させ、戦に勝って攻め取り、事を挙げて利を失わないようにしようと欲しても(欲使戦克攻取挙不失利)、それは孫・呉孫子呉子でも難しいことです。議者は曹操赤壁で利を失ったのを見て、その力が屈し(挫折し)、再び遠念(遠志)を抱くことはなくなったと言っています。しかし今、曹操は既に三分した天下の二分を有しているので(三分天下已有其二)、やがて滄海で馬に水を飲ませ、呉会(呉と会稽)で観兵(閲兵。兵力を顕示すること)することを欲するようになります。どうして甘んじてこれ(現状)を守り、坐したまま老いを待つことがあるでしょうか(何肯守此坐須老乎)。それなのに同盟が故(理由)なく互いに攻伐したら、曹操に枢(扉の軸)を貸し、敵をして隙に乗じさせることになるので、長計ではありません。そもそも備(私)劉璋は宗室に身を置き(託為宗室)、威霊に頼って漢朝を匡す(正す)ことを望んでいます。今、劉璋が左右孫権の近臣)の罪を得たので、備(私)は独り悚懼(恐れおののくこと)しています。敢えて(指示を)聞くことはできません。寛貸(寛恕)が加えられることを願います(この「寛貸」は孫権の指示を聞けない劉備に対しての寛恕とも、孫権の近臣の罪を得た劉璋に対しての寛恕とも取れます。原文「非所敢聞,願加寛貸」)。」
 
孫権はこれを聴かず、孫瑜を派遣しました。水軍を率いて夏口に駐軍させます。
しかし劉備は軍の通過を許さず、孫瑜にこう言いました「汝が蜀を取ろうと欲するなら、吾(私)は被髪(髪を束ねないこと)して山に入り、天下において信を失わないようにしよう。」
劉備関羽を江陵に、張飛を秭帰に駐屯させ、諸葛亮には南郡を拠点とさせ、自らは潺陵(公安)に向かいました。
孫権はやむなく孫瑜を呼び戻しました。
資治通鑑』胡三省注によると、秭帰県は南郡に属します。
南郡の治所は元々江陵でしたが、呉が荊州を得てから江南に遷しました。晋が呉を平定してからは、南郡を江陵に戻して江南の南郡を南平郡にします。ここで諸葛亮が拠点にしたのは江南の南郡のようです。
 
後に劉備が西に向かって劉璋を攻めると、孫権は「猾虜(狡猾な賊)め。このように詐術を抱いていたのか(乃敢挟詐如此)!」と言いました。
 
劉備は蜀遠征の際、関羽荊州に留めて江陵を守らせました。
魯粛関羽と境界を隣接させることになります。
関羽はしばしば疑貳(猜疑、疑心)を生みましたが、魯粛は常に歓好(友好な態度)によって撫しました(安心させました)
 
以下、『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです(但し『三国志・呉主伝』は前年に書いています)
劉備益州を得ると、孫権は中司馬・諸葛瑾を派遣し、荊州諸郡の返還を要求しました荊州孫権劉備に貸したことになっています)
資治通鑑』胡三省注によると、中司馬は中軍司馬のようです。諸葛瑾は長史から中司馬に転じました。
 
劉備孫権の要求に同意せず、こう言いました「吾(私)はちょうど涼州を図っています。涼州が定まったら、荊州をことごとく呉に与えましょう(尽以荊州相與呉耳)。」
これは『三国志・呉主伝』と『資治通鑑』の記述です。『三国志・先主伝』では「涼州を得るのを待って、荊州を与えましょう(須得涼州当以荊州相與)」と言っています。
 
諸葛瑾の報告を聞いた)孫権は「これは借りておきながら返さず、虚辞によって時間を伸ばそうと欲しているのだ(此假而不反而欲以虚辞引歳也)」と言い、長沙、零陵、桂陽の南三郡に長吏を置きました。
しかし関羽がこれを全て駆逐します。
激怒した孫権呂蒙を派遣し、鮮于丹、徐忠、孫規等と兵二万を監督して三郡を取らせました。
また、関羽を防ぐため、魯粛に一万人を率いて巴丘に駐屯させました裴松之注によるとこの巴丘は後の巴陵を指します)
孫権も陸口に進駐し、自ら諸軍を節度(指揮)しました。
 
 
 
次回に続きます。