東漢時代439 献帝(百二十一) 韓遂の死 215年(1)
乙未 215年
天下の男子に対して一人あたり爵一級を下賜し、孝悌・力田には二級を与えました。
また諸王侯・公卿以下にそれぞれ差をつけて穀物を下賜しました。
雲中、定襄、五原、朔方郡を廃し、それぞれの郡に一県を置いてその民を統領させ、四県を合わせて新興郡にしました。
夏四月、曹操が陳倉から散関を出て河池に至りました。
氐王・竇茂の衆一万余人が険阻な地形に頼って服従しませんでした。
『資治通鑑』胡三省注によると、陳倉県は右扶風に属し、その西南に大散関がありました。河池県は武都郡に属します。
『資治通鑑』胡三省注によると、漢末に金城を分けて西平郡が置かれました。
韓遂は字を文約といい、かつては同郡の辺章と共に西州で名が知られていました。辺章は督軍従事になりました。
韓遂が奉計(計簿を提出すること。朝廷に地方の財政や政治に関する報告を行うこと)のため京師を訪ねた時、何進がかねてからその名声を聞いていたため、特別に会見しました。そこで韓遂は何進に諸閹人(宦官)を誅殺するように説得します。しかし何進が従わなかったので、韓遂は帰郷の許可を求めました。
ちょうど涼州の宋揚、北宮玉(北宮伯玉。霊帝中平元年・184年参照)等が反し、辺章と韓遂を主に挙げました。間もなくして辺章が病死しました(『資治通鑑』『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』では霊帝中平四年・187年に韓遂が辺章、北宮伯玉等を殺しています)。韓遂は宋揚等に脅されたため、やむなく兵に頼って乱を為しました(阻兵為乱)。それから(中平元年から)三十二年が経ち、ここに至って七十余歳で死にました。
辺章は一名を辺元といいます。
そこで孫権が使者を派遣し、劉備にこう言いました「劉璋は不武なので(武勇がないので)、自ら守ることができない。もし曹操が蜀を得たら荊州が危うくなる。今、先に劉璋を攻めて取り、次に張魯を取ろうと欲する。南方を一統(統一)すれば、たとえ十操(十人の曹操)がいたとしても憂いることはない(『三国志・蜀書二・先主伝』裴松之注では「一統呉楚,雖有十操,無所憂也」ですが、『資治通鑑』は「一統南方」としています)。」
劉備が答えました「益州は民が豊かで地が険しいので、劉璋は弱いとはいえ、自らを守るに足りています。今、蜀・漢に師(軍)を曝して万里に転運(輸送)させ、戦に勝って攻め取り、事を挙げて利を失わないようにしようと欲しても(欲使戦克攻取挙不失利)、それは孫・呉(孫子・呉子)でも難しいことです。議者は曹操が赤壁で利を失ったのを見て、その力が屈し(挫折し)、再び遠念(遠志)を抱くことはなくなったと言っています。しかし今、曹操は既に三分した天下の二分を有しているので(三分天下已有其二)、やがて滄海で馬に水を飲ませ、呉会(呉と会稽)で観兵(閲兵。兵力を顕示すること)することを欲するようになります。どうして甘んじてこれ(現状)を守り、坐したまま老いを待つことがあるでしょうか(何肯守此坐須老乎)。それなのに同盟が故(理由)なく互いに攻伐したら、曹操に枢(扉の軸)を貸し、敵をして隙に乗じさせることになるので、長計ではありません。そもそも備(私)と劉璋は宗室に身を置き(託為宗室)、威霊に頼って漢朝を匡す(正す)ことを望んでいます。今、劉璋が左右(孫権の近臣)の罪を得たので、備(私)は独り悚懼(恐れおののくこと)しています。敢えて(指示を)聞くことはできません。寛貸(寛恕)が加えられることを願います(この「寛貸」は孫権の指示を聞けない劉備に対しての寛恕とも、孫権の近臣の罪を得た劉璋に対しての寛恕とも取れます。原文「非所敢聞,願加寛貸」)。」
『資治通鑑』胡三省注によると、秭帰県は南郡に属します。
しかし関羽がこれを全て駆逐します。
次回に続きます。