東漢時代440 献帝(百二十二) 荊州分割 215年(2)

今回は東漢献帝建安二十年の続きです。
 
[(続き)] 呂蒙が出征して長沙と桂陽に書を送ると、どちらも動静を聞いて帰服しました(望風帰服)
しかし零陵太守・郝普だけは城を守って降ろうとしません。
 
荊州の動きを聞いた劉備は自ら蜀を発ち、五万の兵を率いて公安に至りました。更に関羽を派遣して三郡を争うために益陽に進ませます。
 
孫権は飛書(緊急の文書)を送って呂蒙等を招きました。零陵を捨てて急いで帰還し、魯粛を助けさせます。
しかし書を得た呂蒙はこれを隠し、夜、諸将を集めて方略を授けました。
(早朝)呂蒙が零陵を攻撃しようとした時、顧みて郝普の故人(旧友)である南陽の人・鄧玄之にこう言いました「郝子太(子太は郝普の字です)は世間の忠義の事を聞いたので、(自分も)またそのように為そうと欲しているが、時(時勢)を知らない。今、左将軍劉備は漢中にいて夏侯淵に包囲されており、関羽は南郡にいて至尊孫権が自らこれに臨んでいる(身自臨之)。彼等は上も下も危機に陥り、互いに死(命)を救おうとしても間に合わない(首尾倒縣救死不給)。どうしてここを営む(救う)余力があるだろう(豈有余力復営此哉)。今、吾(私)は力を量ってよく考えてからこれを攻めるので(計力度慮而以攻此)、日を移すことなく城は必ず破れ、城が破れたら、その身は死んでしまう。事において何の益があるのだ(何益於事)。しかも百歳の白髪の老母に誅を受けさせて、どうして心を痛めないのだ(令百歳老母戴白受誅豈不痛哉)。この家(郝普)を推測するに、外問(外の情報)を得られず、援軍に頼ることができると思っているからここに至っているのだ(今まで抵抗しているのだ。原文「謂援可恃故至於此耳」)。君は彼に会い、彼のために禍福を述べるべきだ。」
鄧玄之は郝普に会いに行き、呂蒙の意を詳しく伝えました。
懼れた郝普は城を出て投降します。
呂蒙は郝普を迎え入れ、手を取って共に船を下りました呂蒙は船で郝普を迎えに行ったようです)
談話が終わってから呂蒙が書孫権が零陵を捨てるように命じた書)を出して示し、手を叩いて大笑しました(拊手大笑)
郝普は劉備が公安におり、関羽も益陽にいると知り、地に入りたいほど慚愧悔恨しました(慙恨入地)
 
こうして呂蒙が三郡の将守(諸将・太守)を全て得ました。
呂蒙は孫河を留めて後事を委ね、即日、軍を率いて引き還し、孫皎潘璋および魯粛と共に兵を進め、益陽で関羽を拒みます
 
尚、孫河は献帝建安九年204年)に殺されています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「あるいは他の者が同姓同名だった(他に同姓同名の者がいた)」と解説しています。
また、『資治通鑑』胡三省注によると、益陽県は長沙郡に属し、益水の陽(北)に位置します。益陽城は魯粛が築いたようです。
 
双方が戦う前に、魯粛関羽との会談を欲しました。
諸将は変事が起きることを恐れ疑い、行くべきではないと建議しました。
しかし魯粛はこう言いました「今日の事は開譬(教え諭して道を開くこと)するべきだ。劉備は国に背いたが、是非はまだ決していない。関羽がどうして命を犯すことを敢えて重ねて欲するだろう劉備孫権に背いたが、結論は出ていない。今の時点で関羽がこれ以上、命に背くことはない。原文「劉備負国是非未決,羽亦何敢重欲干命」)
 
魯粛関羽を招いて会見しました。それぞれ百歩の外に兵馬を留め、将軍には単刀(一本の刀)だけを持って会に参加するように請います(『三国志・呉書九・周瑜魯粛呂蒙伝』は「但請将軍単刀俱会」と書いています。魯粛関羽に単刀での参加を要求したという意味だと思います。『資治通鑑』は「請将軍」ではなく「但諸将軍単刀俱会」としています。この場合は、魯粛関羽および双方の諸将が単刀だけで会に赴いたという意味だと思います)
 
魯粛はこれを機に三郡を返還しないことについて関羽を譴責しました。
関羽が言いました「烏林の役赤壁の戦いにおいて左将軍劉備は身が行間(軍中)にあり、尽力して敵を破った(戮力破敵)。どうしていたずらに労すだけで一塊の土地もないままでいられるだろう(豈得徒労,無一塊土)。それなのに足下は地を収めよう(回収、没収しよう)と欲して来たのか。」
魯粛が言いました「それは違います(不然)。始め、豫州劉備と長阪で覲(会見)した時(建安十三年・208年)豫州の衆は一校(一営。一部隊)にも当たらず、(劉備)計が尽きて考えが極まり(計窮慮極)、士気形勢が挫折衰弱し(志勢摧弱)、遠くに逃げようと図り(原文「図欲遠竄」。劉備呉巨に投じようとしていました)、望みはここに及びませんでした(今日のようになるとは望んでいませんでした。原文「望不及此」)主上孫権豫州の身に処所(置き場)がないことを矜愍(憐憫、同情)したので、土地や士民の力を愛さず(惜しまず)、身を守る場所を有すようにさせて患いを解決させました(使有所庇蔭以済其患)。ところが豫州は自分勝手に情を飾り(自分を正当化して同情を求めているという意味だと思います。原文「私独飾情」)、徳を失って友好を破壊しました(愆徳墮好)。今、既に西州益州において孫権の)手を借り孫権の助けがあったおかげで益州を取ることができ。原文「藉手於西州」)、また、荊州の土(土地)も翦并しようと欲していますが荊州の地も割いて兼併しようとしていますが)、これは凡夫(平民)でも行うのが忍びないことです。人物(人や物)を整領(統領)する主ならなおさらです。」
関羽は返す言葉がありませんでした。
 
ちょうどこの時、魏公・曹操が漢中を攻めようとしているという情報がありました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。
三国志・先主伝』は「この年、曹公曹操が漢中を定め、張魯巴西に遁走した。先主劉備がそれを聞いた」と書き、『三国志・呉主伝』は「ちょうど曹公が漢中に入った」と書いています。
しかし曹操が漢中に入るのは七月の事なので(下述します)、『資治通鑑』は「魏公操将攻漢中曹操が漢中を攻めようとした)」に書き換えています。
 
本文に戻ります。
劉備益州を失うことを懼れ、使者を送って孫権に和を求めました。
孫権諸葛瑾に命じて報命(回答)させ、改めて盟好を重ねます(原文「更尋盟好」。この「尋」は「重ねる」の意味です)
こうして荊州が分けられ、湘水が境界になりました。長沙、江夏、桂陽以東は孫権に属し、南郡、零陵、武陵以西は劉備に属します。
資治通鑑』胡三省注によると、長沙、桂陽、零陵、武陵の四郡は湘水で分けられ、南郡と江夏はそれぞれの郡境が境界になりました。
 
諸葛瑾は使者の命を奉じて蜀に行っても、いつも弟の諸葛亮とは公務の会において会うだけで、退出してから個人的に会うことはありませんでした。
 
劉備は軍を率いて江州に還りました。
 
 
 
次回に続きます。