東漢時代441 献帝(百二十三) 漢中平定 215年(3)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、魏公・曹操が陽平に至りました。
張魯は漢中を挙げて曹操に降ろうと欲しましたが、弟の張衛が納得しなかったため、張衛と将・楊昂等に衆数万人を率いさせ、陽平関で曹操軍を拒んで堅守させました。張衛は山上を横切って十余里にわたる城を築きます。
 
以前、曹操涼州従事および武都の降人(投降した者)による「張魯は攻め易く、陽平は城下の南北の山が互いに遠いので、守ることができない」という言葉を受けて、その通りだろうと信じました。
しかし実地の考察に行くと、聞いていた状況と異なったため、嘆息してこう言いました「他人の商度(推量)とは、人意に及ぶことが少ない(満足させることが少ない。原文「少如人意」)。」
 
曹操が陽平山上の諸屯を攻撃しましたが、山が髙くて険しく、登るのが困難なため、すぐには攻略できませんでした。士卒で傷夷(負傷)した者が多くなり、軍食も尽きそうになります。
曹操は意気消沈し、営を引き払って山路を断ってから帰還しようと欲しました(原文「欲抜軍截山而還」。「抜軍」は「撤退」です。「截山」は『資治通鑑』胡三省注によると「追撃を防ぐこと」を意味します)
そこで大将軍・夏侯惇、将軍・許褚を派遣して山上の兵を呼び戻させました。
ところがちょうど前軍が夜道に迷い、誤って張衛の別営に入ってしまいました。張衛の営中が大いに驚いて退散します。
侍中・辛毗、主簿・劉曄等が(迷った)兵の後ろにおり、夏侯惇許褚に言いました「官兵が既に賊の要屯(重要な駐屯地)を拠取(占拠)し、賊は既に散走(離散敗走)した。」
夏侯惇許褚はこれを信じず、夏侯惇自ら前に進んで見に行きました。(状況を確認してから)戻って曹操に報告し、兵を進めて張衛を攻めます。
張衛等は夜の間に遁走しました。
 
以上、陽平関の戦いの経緯は『資治通鑑』を元にしました。この戦いは異なる記述も残されています。
まずは『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
曹操は陽平関を攻めましたが、攻略できなかったため、軍を率いて還りました。
(張魯)は大軍が退くのを見て守備を解散させました。
すると曹操は秘かに解𢢼、高祚等を派遣し、険阻な地形を利用して夜襲させ(または「険阻な地形に登って夜襲させ」。原文「乗険夜襲」)、これを大破しました。張魯軍の将・楊任を斬り、進んで張衛を攻めます。張衛等は夜の間に遁走し、張魯は巴中に潰奔(敗走)しました。
 
次は『三国志・魏書十四・程郭董劉蒋劉伝』からです。
曹操張魯を征討する時、劉曄を主簿にしました。漢中に至ると、山が峻険で登るのが困難なうえ、軍食も頗る乏しかったため、曹操(略)自ら兵を率いて帰還することにしました。劉曄に命じて後ろの諸軍を監督させ、順次脱出させます。
しかし劉曄張魯に克てると判断しました(曄策魯可克)。しかも糧道が続かないので、たとえ脱出しても軍を完全に守ることはできないと考え、馳せて曹操に会いに行き、「攻撃を加えるべきです(不如致攻)」と言いました。
そこで曹操は兵を進め、多くの弩を出して張魯の営を射ちました。
張魯は奔走し、漢中が平定されました。
 
三国志・魏書八・二公孫陶四張伝』を見ると、本文は「曹操が)陽平関に至った。張魯は漢中を挙げて降ろうと欲したが、弟の張衛が同意せず、衆数万人を率いて関で拒み、堅守した。太祖曹操がこれを攻めて破り、遂に蜀(恐らくここでは漢中を指します)に入った」という簡単な記述だけですが、裴松之注が郭頒の『世語』と『魏名臣奏』の記述を引用して戦いの詳細を書いています。
 
まずは郭頒の『世語』からです。
張魯が五官掾を派遣して曹操に降りましたが、弟の張衛が山を横切って陽平城を築き、それによって拒んだため、王師が進めなくなりました。張魯は巴中に走ります。
曹操は軍糧が尽きたため、引き還そうとしました。しかし西曹掾・東郡の人・郭諶がこう言いました「いけません(不可)張魯は既に降り、使者を留めてまだ反していません(留使既未反)。張衛は張魯と)同じではありませんが(または「張衛は投降に同意していませんが」。原文「衛雖不同」)、単独で離反しているので、攻めることができます(攻めれば必ず勝てます。原文「偏攜可攻」)。縣軍(軍を深くに進めること)して深入りしたら、進めば必ず克ちますが、退いたら必ず(難から)免れられません(縣軍深入以進必克,退必不免)。」
曹操は躊躇しました。
夜、数千の野麋(鹿の一種)が張衛の営に突進して破壊しました。軍が大いに驚きます。
(恐らく同じ日の夜です)、高祚(魏将)等が誤って張衛の衆に遭遇しました。高祚等は多くの鼓角を鳴らして衆を集めます。張衛は懼れて大軍に襲われたと思い、遂に投降しました。
 
もう一つは『魏名臣奏』の楊曁の上表です「武皇帝曹操が始めて張魯を征した時、十万の衆をもって自ら戦地に臨み(身親臨履)、方略を指授(伝授)し、民の麦を得て軍糧にしました(因就民麦以為軍糧)。張衛の守りは、語るに足りませんでしたが(張衛之守蓋不足言)(陽平関は)地が険しくて守り易いので、精兵虎将がいても発揮できる形勢ではありませんでした(勢不能施)。そのため、三日間兵を対峙させてから、軍を引いて還ろうと欲しましたが(対兵三日欲抽軍還)(略)天が大魏を助け(天祚大魏)張魯の守りが自壊したので、それによって(漢中を)定めました。」
 
裴松之注は『魏名臣奏』から董昭の上表も紹介しており、『資治通鑑』はこれを採用しています曹操軍が撤退しようとしたら前軍が誤って張衛の営に入ってしまい、張衛軍が驚いて退散したという上述の内容とほぼ同じです。再述は避けます)
 
本文に戻ります。
張魯は陽平が陥落したと聞き、投降を欲しました。
閻圃が言いました「今、逼迫したために行ったら、功(功績)が必ず軽くなります(今以迫往功必軽)。杜濩を頼って朴胡に赴くべきです。共に曹操を)拒み、その後、委質(臣服)すれば功が必ず多くなります。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、杜濩は賨邑侯で、朴胡は巴七姓の夷王です。板楯蛮の渠帥に羅・朴・督・鄂・度・夕・龔の七姓があり、朝廷に租賦を納める必要がありませんでした。これが七姓の夷王です。それ以外の家は毎年一人四十銭の税を納めました。これを賨銭といいます(これらの人々は賨人、賨民と呼ばれました。賨邑侯(または賨侯)は賨人の長だと思います)
 
張魯は進言を聞いて南山に奔り、巴中に入りました。
左右の者が宝貨(宝物)や倉庫を全て焼き捨てようとしましたが、張魯は「本来は国家に帰命(帰順)しようと欲したのに、まだ意を達すことができない。今、走って鋭鋒を避けるのは、悪意があってのことではない。宝貨・倉庫は国家が有すものだ」と言い、倉庫に封をして去りました。
 
曹操は南鄭(『資治通鑑』胡三省注によると、南鄭県は漢中郡の治所です)に入って張魯の府庫の珍宝を全て得ると、甚だ張魯の判断を称賛しました。また、張魯には元々善意(朝廷に帰順しようという気持ち)があったので、人を送って慰喩(慰撫説得)しました。
 
三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注によると、曹操軍は武都山から千里を行軍し、険阻な地を上り下りしたため、軍人が労苦しました。
そこで、曹操は大饗(大宴。酒食で慰労すること)を設けて軍人を慰労します。
軍人で労苦を忘れない者はいませんでした。
 
三国志・魏書一・武帝紀』からです。
こうして巴・漢が全て曹操に降りました。
(朝廷は)漢寧郡を漢中に戻しました。
また、漢中の安陽と西城を分けて西城郡とし、太守を置きました。
錫と上庸を分けて上庸郡とし、都尉を置きました(原文は「分錫、上庸郡,置都尉」ですが、意味が通じないので『三国志集解』を元に訳しました)
 
 
 
次回に続きます。