東漢時代443 献帝(百二十五) 合肥の戦い 215年(5)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
劉備が公安から帰り、曹操が漢中から帰還してから、孫権も陸口から引き揚げて、途中で合肥を征討しました。
 
八月、孫権が十万の衆を率いて合肥を包囲しました。
この時、張遼、李典、楽進が七千余人を率いて合肥に駐屯していました。
 
曹操張魯を征討する時、教(指示書)を作って合肥護軍・薛悌に与えました。函(書信、書簡)の端に「賊が至ったら開け(賊至乃発)」と書かれています。
孫権軍が来たため教(指示書)を開くと、こう書かれていました「もし孫権が至ったら、張・李将軍が出て戦い、楽将軍が守れ。護軍は戦いに参加するな(勿得與戦)。」
資治通鑑』胡三省注が解説しています。曹操張遼と李典が勇鋭だったため戦いを命じ、楽進が持重(慎重)だったため守りを命じました。薛悌は文吏だったため、戦いに参加させませんでした。
 
諸将は兵力の差が大きすぎるため敵わないと思い、曹操の指示(敢えて出撃するという内容)を疑いました(衆寡不敵疑之)
張遼が言いました「公は遠征して外にいる。救援がここに至るまでに彼孫権が我々を破るのは必至だ(比救至彼破我必矣)。だから敵が集結する前に乗じて逆撃(迎撃)するように教指(指示)したのだ(是以教指及其未合逆撃之)。その盛勢を折ることで衆心を安定させれば、その後、守ることができる。」
楽進等が何も言わないため、張遼が怒って言いました「成敗の機はこの一戦にかかっている(成敗之機在此一戦)。諸君がもし疑うのなら、遼(私)は独りで(勝敗を)決しよう。」
李典は以前から張遼と不睦(不和)でしたが、慨然として(憤激して)言いました「これは国家の大事なので、君の計が如何であるかを顧みるだけだ。吾(私)が私憾(個人的な怨恨)によって公義を忘れることができるか。君に従って出撃することを請う。」
 
張遼は夜の間に敢従の士張遼に従う勇敢な士)を募り、八百人を得ました。牛を殺して宴を開き、彼等を慰労します(椎牛犒饗)
 
明旦(翌早朝)張遼が甲冑を着て戟を持ち、率先して敵陣を落としました(先登陷陳)。数十人を殺し、二大将を斬り、自分の名を大呼し、営塁に突入して孫権の麾下(将帥旗の下)に至ります。
孫権は大いに驚いてどうするべきか分からず、走って高冢(「冢」は墳墓の意味ですが、この「高冢」は「山頂」だと思います)に登り、長戟で自分を守りました。
張遼孫権を叱咤し、下りて戦わせようとしましたが、孫権は動くことができません。
しかし孫権は遠くを眺めて張遼が率いる兵衆が少ないのを見ました。そこで兵を集めて張遼を数重に包囲させます。
張遼は包囲網を急撃して切り開き、麾下(部下)数十人を率いて出ることができました。しかし余衆(包囲の中に残された者達)が「将軍は我々を棄てるのですか!」と号呼しました。
張遼はまた戻って包囲を突破し(『資治通鑑』では「復前突囲」ですが、『三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』では「復還突囲」です。ここは『三国志』に従いました)、余衆を脱出させました。
孫権の人馬は皆披靡(潰滅)し、張遼に当たろうとする者がいません。
戦いは旦(早朝)から日中(正午)におよび、呉人が士気を奪われました。
 
張遼は帰還して守備を修めました。こうして合肥の衆心が安定しました。
 
資治通鑑』は張遼についてしか書いていませんが、李典も出撃しているはずです。『三国志武帝紀』は「張遼、李典が撃破した」、『三国志・魏書十八・二李臧文呂許典二龐閻伝』は「(李典が)衆を率いて張遼と共に孫権を破って走らせた」と書いています。
 
孫権合肥を包囲して十余日が経ちましたが、城を攻略できなかったため、撤兵して還りました。
全ての兵が帰路に就き、孫権が諸将と共に逍遙津北(『資治通鑑』胡三省注によると、合肥の東に逍遙津がありました)にいた時、張遼が覘望(観察、眺望)してそれを知ります。
そこで張遼はすぐに歩騎を率いて出撃し、突然、孫権軍に迫りました。
甘寧呂蒙凌統等が力戦して敵に抵抗し、命懸けで孫権を守りました。凌統が親近の兵を率いて孫権を抱きかかえ、包囲から脱出させます(扶権出囲)。その後、凌統はまた戻って張遼と戦い、左右の者が全て死んで自身も傷を負いましたが、孫権が危機を脱した頃を見計らってから、やっと還りました。
 
孫権は駿馬に乗って逍遙津の橋に上りました。ところが橋の南が撤去されており、一丈余にわたって板がありません。
親近監・谷利(『資治通鑑』胡三省注によると、「親近監」は官で、谷が氏、利が名です)孫権の馬の後ろにいました。谷利は孫権に馬の鞍をつかんで手綱を緩めさせ(持鞍緩控)、馬が勢いをつけるのを助けるために後ろから鞭で打ちました(利於後著鞭以助馬勢)
そのおかげで孫権は飛び越えることができました。
賀斉が三千人を率いて逍遙津の南で孫権を迎えたため、孫権は難から免れられました。
 
三国志・呉書二・呉主伝』裴松之注はこの時の事をこう書いています(後半の一部は重複します)
張遼が呉の降人(投降者)に問いました「以前、紫髯(赤みがある髭)の将軍がおり、上半身が長く脚が短くて、乗馬が得意で射術を善くしたが、あれは誰だ(向有紫髯将軍,長上短下便馬善射,是誰)?」
降人は「それは孫会稽孫権です」と答えました。
張遼楽進に会ってからこう言いました「早くにそれを知ることができなかった。急追すれば間違いなく得られた(早く知っていれば、急追して得ることができた。原文「不早知之,急追自得」)」。
張遼等は軍を挙げて歎恨(嘆息・後悔)しました。
孫権が駿馬に乗って逍遙津の橋に上りましたが、橋の南が既に撤去されており、一丈余にわたって板がありませんでした。
谷利が孫権の馬の後ろにおり、孫権に馬の鞍をつかんで手綱を緩めさせ、馬が勢いをつけるのを助けるために後ろから鞭で打ったため、孫権は飛び越えることができました。
孫権は難を免れてから谷利を都亭侯にしました。
谷利は孫権の左右に仕える給使でしたが、謹直だったため親近監に任命されました。その性格は忠果亮烈(忠誠果敢かつ快朗公正)で、適当な発言をしなかったため(言不苟且)孫権に愛信されました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
孫権が大船に入って酒宴を開きました。
すると賀斉が席から離れて涙を流し、こう言いました「至尊な人主は常に持重(慎重)であるべきです。今日の事は危うく禍敗をもたらすところであり(幾致禍敗)、群下は天地がなくなったように震怖しました。これを終身(終生)の誡(教訓)とすることを願います。」
孫権は自ら前に進んで賀斉の涙をぬぐい、「大いに慚愧し(大慙)、謹んで既に心に刻んだ。紳に書いただけではない(謹已刻心,非但書紳也)」と言いました。
「紳」は「帯」です。『論語』に子張が孔子の言葉を紳に書いて忘れないようにしたという故事があり、そこから「紳に書く(書紳)」は教えや教訓を心に留めるという意味になりました。
孫権は「子張は孔子の言葉を紳に書いて忘れないようにしたが、私は今回の失敗を更に大切な教訓として深く心に刻んでいる」という意味で、賀斉に「紳に書いただけではない」と答えました。
 
 
 
次回に続きます。