東漢時代444 献帝(百二十六) 劉備の巴中進出 215年(6)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、巴・賨の夷帥少数民族の首領)・朴胡、杜濩、任約がそれぞれ巴夷や賨民を挙げて朝廷曹操に来附(帰順)しました。
朝廷は巴郡を分けて朴胡を巴東太守に、杜濩を巴西太守に、任約を巴郡太守に任命し、全て列侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注は「後に三人とも劉備に破られる」と解説しています。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』本文と裴松之注からです。
曹操は外で任務を負担しており、臨事の賞(事に当たっての賞。曹操が外にいる時の論功行賞)には迅速にするべきものもあるため、献帝曹操に命じて承制(天子の代わりに命を出すこと)によって諸侯や守相を封拝(封爵・任命)できるようにしました。
献帝が詔を発しました「軍の大事とはその賞罰にある(在茲賞罰)。勧善懲悪は時を移すべきではない(原文「宜不旋時」。意訳しました)司馬法が『賞は日を越えない(賞不逾日)』といっているのは、民が善を為した利を速やかに目撃することを欲するからである(善を為して得る利(賞)を速やかに民に見せたいからである。原文「欲民速覩為善之利也」)。昔、(光武帝)中興の際、鄧禹が関に入り、承制によって軍祭酒・李文を河東太守に拝した(任命した)。来歙もまた承制によって高峻を通路将軍に拝した。それらの本伝(列伝)を察すると(調べると)、皆、先に請うたのではなく、明らかに事に臨んで印を刻んだのである(二人が先に任命の申請をしたのではなく、必要に応じて独断で印を与えたのである)。これは世祖(光武帝)が神明で、権臨機応変な態度)が損益に達していたからであり(利害の道理に通じていたからであり。原文「権達損益」)、それ(承制)を用いることで速やかに威懐を示し、鴻勳(大業。大きな勲功)を明らかにしようとしたのである。『春秋』の義においては、大夫が疆(国境)を出たら専命(専断・独断)の事があるものだ。とりあえずそれによって社稷を利し、国家を安んじるだけのことである(とりあえず社稷・国家のためになるのなら専命も許される。原文「苟所以利社稷安国家而已」)。そもそも君(曹操)は二伯(周公と召公)の任を持ち(秉任二伯)、九州の長として治め(原文「師尹九有」。意訳しました。「師」は「長」「首領」、「尹」は「治理」、「九有」は「九州」です)、実に夷夏(異民族と漢族。辺境と中原。国内外)を征している。軍が藩甸の外(支配地の外。遠方。「藩」は辺境の地、「甸」は京師周辺です)に行った時、失得は斯須の間にあり(得失とは短時間で決まってしまうことであり)、賞を停めて詔を待つことによって世務(治世に必要な事務)を滞らせるのは、もとより朕が図るところ(目的とすること)ではない。よって、今から後は、事に臨んで調査をした結果(臨事所甄)、寵号を加えるべき者がいたら、すぐに印章を刻んで仮に授けよ。皆が忠義を互いに奨励できるようにし(咸使忠義得相奨励)、疑いをもたせてはならない(人々に善行に対して躊躇・疑念させてはならない。原文「勿有疑焉」)。」
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、始めて名号侯封地がない名号だけの侯位)から五大夫に至る爵位を設け、旧列侯、関内侯と合わせて六等とし、それによって軍功を賞しました。
 
三国志武帝紀』裴松之注が解説しています。
名号侯の爵は十八級、関中侯の爵は十七級あり、全て金印・紫綬(「綬」は印に繋ぐ紐です)を授けました。
関内外侯は十六級あり、銅印・亀紐(「紐」は印璽の上の装飾で、綬を繋ぐ部分です。「亀紐」は亀の彫刻がされた「紐」です)・墨綬を授けました。
五大夫は十五級あり、銅印・環紐(円形の「紐」です)と、関内外侯と同じ墨綬を授けました。
全て封邑から得る租税(収入)はありません(皆不食租)
名号侯、関中侯、関内外侯、五大夫と従来の列侯、関内侯を合わせて六等になります。
裴松之は「今東晋南宋の虚封封地がなく爵位だけ与えること)はここから始まったのであろう」と書いています。
 
[十一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、張魯が家属や余衆を率いて巴中から出て来ました。曹操に投降します。
曹操張魯を出迎えて鎮南将軍に任命し、客礼で遇して閬中侯に封じました。邑は一万戸です。
張魯の五子および閻圃等も皆、列侯に封じられました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
程銀、侯選、龐(龐徳)張魯に従って曹操に降りました。
資治通鑑』胡三省注が解説しています。程銀と侯選は関中の部帥(一勢力の帥)で、龐馬超の将でした。渭南・冀城の敗戦後、皆、張魯に奔っていました。
 
曹操は程銀と侯選の官爵を元に戻し、龐を立義将軍に任命しました。
 
[十三] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。
張魯が巴中に走った時、黄権劉備に言いました「もし漢中を失ったら三巴(巴東・巴西・巴郡)が振るわなくなります。これは蜀の股臂(四肢)を割くことになります。」
劉備黄権を護軍に任命し、諸将を率いて張魯を迎えさせました。
しかし張魯が既に曹操に降ったため、黄権は朴胡、杜濩、任約を撃って破りました。
 
朴胡は巴東太守、杜濩は巴西太守、任約は巴郡太守なので、劉備は三巴(巴東・巴西・巴郡)に勢力を拡大したことになります。
三国志・魏書一・武帝紀』は「劉備劉璋を襲って益州を取り、ついに巴中を占拠した。(曹操)張郃を派遣してこれを撃った(下述)」と書いています。
 
本文に戻ります。
魏公・曹操張郃に諸軍を監督させ、三巴を攻略してその民を漢中に遷そうとしました。
張郃が宕渠に進軍します。
資治通鑑』胡三省注によると、宕渠県は元々巴郡に属していましたが、当時は巴西郡に属します。宕渠城は漢の車騎将軍・馮緄が増修したため、俗名を車騎城といいました。
 
張郃がしばしば巴界を犯暴(侵犯)したため、劉備張郃を防ぐため、巴西太守・張飛に命じて宕渠に兵を進めさせました。
張飛は五十余日対峙してから、張郃を襲撃して瓦口で大破しました。
敗走した張郃は兵を集めて南鄭に還ります。
劉備成都に還りました劉備は江州にいました。江州は巴郡の治所です)
 
 
 
次回に続きます。