東漢時代446 献帝(百二十八) 魏王曹操と崔琰 216年(1)

今回は東漢献帝建安二十一年です。二回に分けます。
 
東漢献帝建安二十一年
丙申 216
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、魏公・曹操が鄴に還りました。
 
三国志武帝紀』裴松之注からです。
辛未、有司(官員)が太牢(牛・羊・豕を犠牲に使う祭祀の規格)によって帰還を報告し、廟(宗廟)で勲功を策書に記録しました(策勳于廟)
 
甲午、始めて春祠(春の祭祀)を行いました。
曹操が祭祀に関する令を発しました「議者は祠廟(廟堂)に上殿する際は履物を脱ぐべきだと考えている(当解履)。しかし吾()は錫命(天子の命)を受け、剣を帯びて靴を脱がずに上殿している(帯剣不解履上殿)。今、廟において祭事があり、そのために履物を脱いだら(有事于廟而解履)、先公を尊んで王命に替えることになり、父祖を敬って君主を疎かにすることになる(敬父祖而簡君主)。よって吾()は敢えて履物を脱いで上殿することができないのである(不敢解履上殿也)
また、祭祀に臨んで(手を)洗う際は、手を水につけた真似をするだけで洗わないものだ(原文「臨祭就洗以手擬水而不盥」。「盥」は手や顔を洗うという意味です)。しかし洗うという行為は清潔をもって敬とするのだ(「手を洗うのは清潔にすることが重要な目的だ」という意味だと思います。原文「盥以絜為敬」)。まねるだけで洗わないという礼は聞いたことがない(未聞擬而不盥之礼)。そもそも『神を祀る時は神が実在しているようにせよ(祭神如神在)』という。だから吾()は自ら水を受けて洗うことにする(親受水而盥也)
また、降神の礼が終わったら、階(階段)を下りて幕に就いて立ち(恐らく、殿上から下りて四方を囲む幔幕の前に立つという意味だと思います。原文「就幕而立」)、奏楽(音楽の演奏)の畢竟(終了)を待つが、これでは烈祖を楽しませることができず、祭祀が速く終わらないことを遅いと思っているようだ(祭祀が速く終わることを願っているようだ。原文「似若不衎烈祖遅祭不速訖也」)。よって吾()は坐って楽闋(音楽の終わり)を待ち、神を送ってから起つことにする。
(祭祀で使う肉)を受け取ったら袖に納め、それを侍中に授けるものだが、これでは敬恭が実を全うしたことにならない(敬恭に実体・中身がない。原文「此為敬恭不終実也」)。古では自ら祭事を執り行った。よって吾()は自ら袖に納め、最後まで抱えて帰ることにする。
仲尼(孔子)は『衆人に違えることになるが、吾()は下に従う(雖違衆,吾従下)』と言った。この言は誠実である(誠哉斯言也)。」
最後の孔子の言葉は『論語・子罕篇』にあります。古の礼では殿下で主君に拝礼するものでしたが、孔子の時代は群臣の多くが殿上で主君に拝礼していました。孔子はそれが礼に外れた高慢な態度だとみなし、衆人の習慣に逆らって殿下で拝礼する古礼に従いました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
三月壬寅、曹操が自ら籍田を耕しました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。
有司(官員)(曹操)上奏しました「(今は)四時(四季)ごとに、農隙(農閑期)において講武(軍事訓練)をしていますが、漢は秦制を継承して三時(春夏秋)には講せず(訓練をせず)、ただ十月だけに車馬を都試(訓練、演習)し、長水南門に行幸し、五営の士を会し(集め)、八陣を為して進退し、その名を『乗之』と呼びました。今はまだ金革(武器)を置くことなく(戦争がまだ終わらず。原文「金革未偃」)、士民は普段から(軍事を)習っているので(素習)、これから後は四時の講武を無くすことができます。ただ立秋をもって立秋の期間に)吉日を択び、車騎を大朝(大朝会。集会)させ、号して治兵と呼べば、上は礼名に合い、下は漢制を継承したことになります。」
上奏は採用されました(奏可)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月己亥朔、日食がありました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
魏公・曹操の爵を進めて王にしました。
 
後漢書孝献帝紀』は「夏四月甲午、曹操が自ら号を魏王に進めた。五月己亥朔、日食があった」としています。
三国志武帝紀』と『資治通鑑』は曹操が魏王になったことを「五月」に書いています。
 
三国志武帝紀』裴松之注が献帝の詔を載せていますが、別の場所で紹介します。

東漢時代 魏王曹操


以下、『資治通鑑』からです(三国志・魏書十二・崔毛徐何邢鮑司馬伝』を一部参照します)
以前、中尉(『資治通鑑』胡三省注によると、中尉は秦が置いた官で、漢も踏襲しました。西漢武帝が執金吾に改めましたが、曹操が再び中尉を置きました。職責は漢の執金吾と同じです)・崔琰が鉅鹿の人・楊訓を曹操に推薦しました。
曹操は礼を用いて楊訓を招聘します。
 
曹操爵位を王に進めると、楊訓が表を発して(上表して)曹操の功徳を讃頌しました。
すると、ある人が楊訓の希世浮偽(「希世」は「世俗に迎合すること」、「浮偽」は「虚偽」「誠意がないこと」です)を笑い、崔琰の推挙を失敗とみなしました。
しかし崔琰は楊訓から表草(上書の下書き)を得て中身を見ると、楊訓に書を送ってこう伝えました「表(上書)を確認した。事は佳である(素晴らしい事だ)。時よ、時よ。変時(変化を生む時)があるのは当然だ(省表,事佳耳。時乎,時乎。会当有変時)。」
崔琰としては、論者が譴呵(譴責、批判)を好むだけで情理(世情や道理)に則っていないことを謗るというのが本意でした。
ところが以前から崔琰と不平(不和)の者がおり、「崔琰は傲慢で世の人々を見下しており、怨恨を抱いて誹謗している。その意旨(心意)は不遜である(傲世怨謗,意旨不遜)」と報告しました。
 
報告を受けた曹操は怒ってこう言いました「諺(民間でよく使われる言葉)に『生女耳(娘が生まれたに過ぎない)』とある。『耳』は佳語(良い言葉)ではない。『会当有変時(変時があるのは当然だ)』という言葉の意指(心意)は不遜である。」
崔琰は「事佳耳」と言いました。この「耳」は肯定を表す助詞として使われています。しかし「耳」には「~に過ぎない」という意味もあり、充分ではないことを表します。曹操が引用した「生女耳」は「息子が欲しかったのに願いがかなわなかった。娘が生まれたに過ぎない」という不満・不足を表しています。
曹操は崔琰の「事佳耳」を「曹操の事業に対する不満」と曲解しました。
 
怒った曹操は崔琰を逮捕して獄に繋げ、髠刑(髪を剃る刑)のうえ徒隷(労役を科された囚人)にしました(髠為徒隸)
 
すると崔琰を告発した者がまたこう報告しました「崔琰は徒(刑徒)になってから、賓客に対して髭を捲いて直視しており、憤怒するところがあるようです。」
原文は「対賓客虬須直視,若有所瞋」です。
「虬須」は「髭を捲くこと」、または「巻いた髭」です。不遜な態度を表すのかもしれません。「瞋」は怒って見開いた目で、ここでは「憤怒」を表します。
 
曹操は崔琰に死を賜りました(自殺を命じました)
 
 
 
次回に続きます。