東漢時代447 献帝(百二十九) 烏桓 南匈奴 216年(2)

今回は東漢献帝建安二十一年の続きです。
 
[(続き)] 尚書僕射・毛玠は崔琰の無辜(無罪)に悲傷し、心中で悦びませんでした。
するとある人がまた「毛玠が怨謗している」と報告しました。
曹操は毛玠も逮捕して獄に下します。侍中・桓階や和洽が毛玠のために道理を述べましたが、曹操は聴きません。
桓階が事実を調査するように求めると、曹操はこう言いました「言事の者(告発した者)が言うには、毛玠は吾(わし)を謗っただけでなく、更に崔琰のために觖望(怨望、怨恨)した。これは君臣の恩義を捨てて妄りに死んだ友のために怨歎(怨恨悲嘆)することだ。(正式に調査したら)恐らく容認できることではない(殆不可忍也)。」
和洽が言いました「言事の者(告発した者)の言の通りなら、毛玠の罪過は深くて重いので、天地が覆載するところではありません(天地が許容できることではありません)。臣は毛玠のために理を曲げて大倫を損なおうとしているのではありません(臣非敢曲理玠以枉大倫也)。毛玠は年を経て長く寵を蒙り(歴年荷寵)、剛直・忠公(忠誠・公平)で、衆人に憚られているので(畏れられているので)、そのようなことはあるはずがありません(不宜有此)。しかし人情とは保つのが難しいので、考覈(審査)して双方(毛玠と告発者)から事実を検証するべきです(要宜考覈両験其実)。今、聖恩はこれを理(法官)に至らすのが忍びませんが(大臣が法によって裁かれるのは不名誉なこととされていました)、そのためにますます曲直の分を不明にしています(不忍致之于理,更使曲直之分不明)。」
曹操が言いました「追及しないのは毛玠と言事の者(告発した者)の双方を保全したいからだ(所以不考欲両全玠及言事者耳)。」
和洽が言いました「もし毛玠に実際に謗主の言があったのなら、処刑して市朝(市場と朝廷)に曝すべきです(当肆之市朝)。もし毛玠にその言がなかったのなら、言事の者(告発した者)は大臣に誣(讒言)を加えて主の聴(耳)を誤らせたのです。検覈(審査)を加えなければ、臣は心中で不安を抱きます(臣竊不安)。」
結局、曹操は追及しませんでした。
毛玠は免黜(罷免)され、後に家で死にました。
 
当時は西曹掾・沛国の人・丁儀が権勢を握っており、毛玠が罪を獲た時も丁儀の力が関係していました。
群下は畏れて側目(横目で見ること。正視できないこと)するようになります。
しかし尚書僕射・何夔と東曹属・東莞の人・徐奕(『資治通鑑』胡三省注によると、東莞県は琅琊国に属します。春秋時代の鄆邑です。晋代になって東莞郡が置かれます)だけは丁儀に従いませんでした。
丁儀は徐奕を讒言し、朝廷から出して魏郡太守にしようとしましたが、桓階の助けがあったため徐奕は免れることができました。
 
尚書・傅選が何夔に言いました「丁儀は既に毛玠を害した。子(あなた)も少し下になるべきだ。」
何夔が答えました「不義を為したらまさに自分の身を害すのに足りるものだ。どうして人を害せるだろう(為不義,適足害其身,焉能害人)。そもそも姦佞の心を抱いて明朝に立ちながら、久しくいられるだろうか(其得久乎)。」
 
崔琰の従弟・崔林はかつて陳群と共に冀州の人士について論じた時、崔琰を称えて首(筆頭)にしました。しかし陳群は崔琰の才智が自分の身を守ることができないと判断して軽視しました(以智不存身貶之)
すると崔林が言いました「大丈夫とは邂逅(出会い)があるかどうかだ(原文「大丈夫為有邂逅耳」。優れた大丈夫が身を守れるかどうかは、良い君主にめぐり逢えるかどうかにかかっている、という意味だと思います。誤訳かもしれません)。卿等諸人と同じようで、貴(貴人。尊敬されるべき人)とするに足りるのか(即如卿諸人良足貴乎)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
代郡烏桓の三大人が皆、単于を称しました。三人は力に頼って驕恣(驕慢放縦)だったため、太守には治められませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、代郡烏桓単于は一人を普盧、もう一人を無臣氐といいますが、三人目の名はわかりません。
 
魏王・曹操が丞相倉曹属・裴潜を太守に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の公府には倉曹があり、掾と属がいました。倉穀に関する事務を担当します。
 
曹操が裴潜に精兵を授けようとしましたが、裴潜はこう言いました「単于は自ら放横(放縦横暴)の日が久しいことを知っているので、今、多くの兵を率いて向かったら、必ず懼れて境界で拒みます。(逆に)少数を率いれば懼れられません(不見憚)。計謀によってこれを図るべきです。」
こうして裴潜は単車で郡に向かいました,
それを聞いた単于は驚喜します。
裴潜が恩威(恩徳と威信)を併用して宣撫すると、単于は讋服しました(畏怖して服従しました)
 
三国志・魏書一・武帝紀』は「代郡烏丸行単于・普富盧とその侯王が来朝した」と書いています。
「行単于」の「行」は「代行」の意味だと思います。「普富盧」は『資治通鑑』胡三省注では「普盧」となっています(上述)
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
献帝が命じて王女を公主にし、湯沐邑を与えてその収入を得させました(食湯沐邑)
 
三国志集解』によると、王女は魏王・曹操の三女・曹華を指します。曹華も献帝後宮に入ることになりましたが、若年だったため魏国で待機していました(建安十八年・213年参照)
「公主」は皇帝や諸侯王の娘です。曹操が王になったので、「公主」と呼ぶようになりました。
「湯沐邑」は、その地の主には実際の統治権がなく、徴収した賦税が主の収入になる邑です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
南匈奴が塞内で生活して久しくなり南匈奴光武帝建武二十六年・50年に移住しました)、編戸(戸籍に登録された民)とほとんど同じになりましたが、貢賦は納めていませんでした。
議者は戸口が増加してしだいに禁制(制御)が難しくなくなることを恐れ、あらかじめそれを防ぐべきだと考えました。
 
秋七月、南単于・呼廚泉が魏に入朝しました。
 
魏王・曹操はこの機に呼廚泉を鄴に留め、右賢王・去卑にその国を監督させることにしました。
単于には毎年、綿・絹・銭・穀を与えて列侯と同等にし、子孫がその号を伝襲世襲することを許します。
また、南匈奴の衆を五部に分け、それぞれの貴人を立てて帥にしました。漢人を選んで司馬に任命し、匈奴人を監督させます。
資治通鑑』胡三省注によると、南匈奴は左・右・前・後・中の五部に分けられ、并州諸郡に置かれました。監国する者は平陽に住みました。
 
後漢書孝献帝紀』は「秋七月、匈奴単于が来朝した」と書いているので、単于が入朝したのは漢の朝廷のようにも思えます。しかし『三国志・魏書一・武帝紀』は「秋七月、匈奴単于・呼廚泉がその名王を率いて来朝した。曹操は)客礼を用いて待遇し、この機に魏に留め、右賢王・去卑にその国を監督させた」と書いているので、魏王国に入朝したようです。『資治通鑑』は「魏に入朝した(入朝于魏)」と明記しています。
あるいは、漢・魏双方に入朝したのかもしれません。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月、魏が大理・鍾繇を相国にしました。
 
三国志武帝紀』裴松之注によると、この頃、魏が始めて奉常(漢の「太常」です)と宗正の官を置きました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、魏王・曹操が治兵(練兵、閲兵の儀式)を行いました。
三国志武帝紀』裴松之注によると、魏王自ら金鼔を持って進退の令を発しました。
 
その後、孫権征討を開始しました。
十一月、曹操軍が譙に至りました。
 
三国志・呉書二・呉主伝』は本年冬に「曹公(曹操)が居巣に駐軍し、その後、濡須を攻めた」と書いています。『資治通鑑』は『三国志・魏書一・武帝紀』に従って濡須の戦いを翌年に書いています。
 
[十一] 『後漢書孝献帝紀』からです。
この年、曹操が琅邪王・劉熙を殺し、国を廃しました。
 
琅邪王は光武帝の子・劉京(孝王)の家系です。献帝初平四年193年)に順王・劉容が死に、一時、国が途絶えましたが、建安十一年206年)に劉容の子・劉熙が曹操によって王に立てられました。
しかし本年、劉熙が長江を渡ろうと謀ったため曹操支配下から逃れようとしたため)、罪を問われて誅殺され、国が廃されました(建安十一年・206年参照)
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代448 献帝(百三十) 周泰 217年(1)