東漢時代447 献帝(百二十九) 烏桓 南匈奴 216年(2)
するとある人がまた「毛玠が怨謗している」と報告しました。
桓階が事実を調査するように求めると、曹操はこう言いました「言事の者(告発した者)が言うには、毛玠は吾(わし)を謗っただけでなく、更に崔琰のために觖望(怨望、怨恨)した。これは君臣の恩義を捨てて妄りに死んだ友のために怨歎(怨恨悲嘆)することだ。(正式に調査したら)恐らく容認できることではない(殆不可忍也)。」
和洽が言いました「言事の者(告発した者)の言の通りなら、毛玠の罪過は深くて重いので、天地が覆載するところではありません(天地が許容できることではありません)。臣は毛玠のために理を曲げて大倫を損なおうとしているのではありません(臣非敢曲理玠以枉大倫也)。毛玠は年を経て長く寵を蒙り(歴年荷寵)、剛直・忠公(忠誠・公平)で、衆人に憚られているので(畏れられているので)、そのようなことはあるはずがありません(不宜有此)。しかし人情とは保つのが難しいので、考覈(審査)して双方(毛玠と告発者)から事実を検証するべきです(要宜考覈両験其実)。今、聖恩はこれを理(法官)に至らすのが忍びませんが(大臣が法によって裁かれるのは不名誉なこととされていました)、そのためにますます曲直の分を不明にしています(不忍致之于理,更使曲直之分不明)。」
和洽が言いました「もし毛玠に実際に謗主の言があったのなら、処刑して市朝(市場と朝廷)に曝すべきです(当肆之市朝)。もし毛玠にその言がなかったのなら、言事の者(告発した者)は大臣に誣(讒言)を加えて主の聴(耳)を誤らせたのです。検覈(審査)を加えなければ、臣は心中で不安を抱きます(臣竊不安)。」
結局、曹操は追及しませんでした。
毛玠は免黜(罷免)され、後に家で死にました。
当時は西曹掾・沛国の人・丁儀が権勢を握っており、毛玠が罪を獲た時も丁儀の力が関係していました。
群下は畏れて側目(横目で見ること。正視できないこと)するようになります。
丁儀は徐奕を讒言し、朝廷から出して魏郡太守にしようとしましたが、桓階の助けがあったため徐奕は免れることができました。
何夔が答えました「不義を為したらまさに自分の身を害すのに足りるものだ。どうして人を害せるだろう(為不義,適足害其身,焉能害人)。そもそも姦佞の心を抱いて明朝に立ちながら、久しくいられるだろうか(其得久乎)。」
すると崔林が言いました「大丈夫とは邂逅(出会い)があるかどうかだ(原文「大丈夫為有邂逅耳」。優れた大丈夫が身を守れるかどうかは、良い君主にめぐり逢えるかどうかにかかっている、という意味だと思います。誤訳かもしれません)。卿等諸人と同じようで、貴(貴人。尊敬されるべき人)とするに足りるのか(即如卿諸人良足貴乎)。」
魏王・曹操が丞相倉曹属・裴潜を太守に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、漢の公府には倉曹があり、掾と属がいました。倉穀に関する事務を担当します。
曹操が裴潜に精兵を授けようとしましたが、裴潜はこう言いました「単于は自ら放横(放縦横暴)の日が久しいことを知っているので、今、多くの兵を率いて向かったら、必ず懼れて境界で拒みます。(逆に)少数を率いれば懼れられません(不見憚)。計謀によってこれを図るべきです。」
こうして裴潜は単車で郡に向かいました,
それを聞いた単于は驚喜します。
「公主」は皇帝や諸侯王の娘です。曹操が王になったので、「公主」と呼ぶようになりました。
「湯沐邑」は、その地の主には実際の統治権がなく、徴収した賦税が主の収入になる邑です。
議者は戸口が増加してしだいに禁制(制御)が難しくなくなることを恐れ、あらかじめそれを防ぐべきだと考えました。
秋七月、南単于・呼廚泉が魏に入朝しました。
魏王・曹操はこの機に呼廚泉を鄴に留め、右賢王・去卑にその国を監督させることにしました。
『後漢書・孝献帝紀』は「秋七月、匈奴南単于が来朝した」と書いているので、単于が入朝したのは漢の朝廷のようにも思えます。しかし『三国志・魏書一・武帝紀』は「秋七月、匈奴南単于・呼廚泉がその名王を率いて来朝した。(曹操は)客礼を用いて待遇し、この機に魏に留め、右賢王・去卑にその国を監督させた」と書いているので、魏王国に入朝したようです。『資治通鑑』は「魏に入朝した(入朝于魏)」と明記しています。
あるいは、漢・魏双方に入朝したのかもしれません。
八月、魏が大理・鍾繇を相国にしました。
その後、孫権征討を開始しました。
十一月、曹操軍が譙に至りました。
この年、曹操が琅邪王・劉熙を殺し、国を廃しました。
次回に続きます。