東漢時代448 献帝(百三十) 周泰 217年(1)
丁酉 217年
蒋欽がいつも徐盛の善を称えたため、孫権がこれについて問うと、蒋欽はこう言いました「徐盛は忠臣であり、しかも勤強(勤勉)で、膽略(勇気・智謀)と器用(才能)を有し(忠而勤強有膽略器用)、優秀な万人の督(将帥)です(好万人督也)。今は大事がまだ定まっていないので、臣(私)は国を助けて才を求めるべきです。どうして私恨を抱いて賢人を隠すことができるでしょう(豈敢挾私恨以蔽賢乎)。」
孫権は蒋欽を称賛しました。
二月、曹操が進攻して江西の郝谿に駐屯しました。
『資治通鑑』胡三省注が「都督」について書いています。
東漢光武帝が四方を征伐した時、始めて督軍御史を置いて軍を監督させましたが、任務が終わったら免除しました。順帝時代、御史中丞・馮赦が九江賊を討伐した際、揚徐二州の軍事を監督し(督揚徐二州軍事)、今回、曹操が夏侯惇に二十六軍を都督させました(都督二十六軍)。
この後、「都督」は軍を統領する者の官号として頻繁に使われるようになります。
『資治通鑑』胡三省注によると平虜将軍は孫氏が置いたようです。
そこで孫権は諸将を集めて大いに酣楽(飲酒遊楽に耽ること。ここでは酒宴を指します)を為し、周泰に命じて衣服を解かせ、孫権自らの手で創痕(傷痕)を指さしながら傷の由来を問いました。周泰はかつて戦闘があった場所を全て覚えており、孫権の問いに一つ一つ答えます。全て答え終ってから、孫権がまた周泰に服を着させました。
『三国志・呉書十・程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝』によると、孫策が六県の山賊を討った時、孫権は宣城に駐留していました。士卒に自衛させましたが、兵は千人もいません。しかし孫権は心中で状況を軽んじ(意尚忽略)、囲落(防壁・防備)を築きませんでした。
そこに山賊数千人が突然至ります。
孫権がやっと馬に乗ることができた時には、賊の鋒刃(鋭利な武器)が既に左右で交わっており、ある者が馬鞍を斬って命中しました(斫中馬鞍)。衆兵で自分を落ち着かせられる者はいません(衆莫能自定)。しかし周泰だけは奮激し、身を投じて孫権を守りました。周泰の膽気(胆力・勇気)は人の倍もあり、左右の兵も周泰のおかげでそろって戦えるようになります(左右由泰並能就戦)。
『資治通鑑』胡三省注は「孫権が宣城に駐留していた時、軽んじて囲落を築かなかった(忽略不治囲落)。山賊が突然至ってから、孫権はやっと馬に乗ったが、賊の鋒刃が既に交わっていた。周泰が身を投じて孫権を守り、その身に十二創(傷)を負った。この日、周泰がいなかったら、孫権は危機に陥いるところだった(幾危)。また、(周泰は)黄祖討伐に従い、曹公(曹操)を拒み、曹仁を攻め、全て功があったので、(孫権が重任を)委ねた」と書いています。
本文に戻ります。
孫権は周泰の臂(腕)を握って涙を流し、こう言いました「幼平(周泰の字です)よ、卿は孤(私)の兄弟のために熊虎のように戦い、躯命(身体と生命)を惜しまず、数重の傷を負い(被創数十)、皮膚が刻画(彫刻・絵画。刀で刻まれた様子です)のようになった(膚如刻画)。孤(私)もどうして骨肉の恩をもって卿を待遇することなく、卿に兵馬の重(重任)を委ねずにいられるだろう(原文「孤亦何心不待卿以骨肉之恩,委卿以兵馬之重乎」。「何心」は「どのような心で」という意味だと思いますが、訳しませんでした)。」
この後、徐盛等も周泰に服すようになりました。
司馬懿が言いました「漢の命運はもうすぐ終わり(漢運垂終)、殿下は天下を十分してその九を有しているのに、漢に仕えています(殿下十分天下而有其九以服事之)。孫権が臣を称したのは天人(天と人)の意です。虞(舜)、夏、殷(商)、周が(天子の地位を)謙譲しなかったのは天を畏れて命を知ったからです。」
「警蹕」は外出する帝王を守るために道を清めて交通を規制することです。
五月、(魏が)泮宮(学府。学校)を造りました。
秋八月、曹操が令を発しました「昔、伊摯(伊尹)、傅説(商代の賢臣)は賎人から出て、管仲は桓公の賊(敵)だったが、皆、これを用いることで興った。蕭何、曹参は県吏であり、韓信、陳平は汙辱の名を負って見笑の恥(人から笑われるような恥)が有ったが、最後は王業を成就し、声(名声)を千載(千年)に著しくさせることができた。呉起は将軍の地位に貪欲で(呉起貪将)、妻を殺して自分の誠信を表し(殺妻自信)、金を散じて官を求め、母が死んでも(故郷に)帰らなかったが、(彼が)魏にいたら秦人は敢えて東に向かわず、楚にいたら三晋が敢えて南を謀ることができなかった。今、天下には、民間に放たれている至徳の人、および果勇(果敢勇猛)で顧みず、敵に臨んで力戦する者がいないのか(天下得無有至徳之人放在民間及果勇不顧臨敵力戦)。もし文俗の吏(文書を管理する平凡な官吏)でも、高才異質で、あるいは将守の任に堪えられる者や、汙辱の名を負って見笑の行いがあり、あるいは不仁不孝でも、治国・用兵の術がある者がいたら、それぞれ知っている者を推挙せよ。遺漏があってはならない(若文俗之吏,高才異質,或堪為将守,負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治国用兵之術,其各挙所知勿有所遺)。」
「旒」は冠の前後に垂らす玉の飾りで、「十二旒(十二本の旒)」は天子の冠です。
「金根車」は黄金で装飾した「根車」で、「根車」は自然に曲がった樹木を車輪にした車です。
「五時副車」は五色(青・赤・黄・白・黒)の副車(帝王の車に従う車)で、五時安車(座って乗る車)と五時立車(立って乗る車)があり、合わせて十輌になります。
次回に続きます。