東漢時代448 献帝(百三十) 周泰 217年(1)

今回は東漢献帝建安二十二年です。三回に分けます。
 
東漢献帝建安二十二年
丁酉 217
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
春正月、魏王・曹操が居巣に駐軍しました。孫権は濡須を守ります。
 
資治通鑑』胡三省注によると、居巣県は廬江郡に属します。春秋時代の巣国です。曹操が呉を攻めた時に城を築きましたが、功なく退いたため、「無為城」と呼ばれるようになりました。濡須水の岸に臨んでいます。
三国志・呉書二・呉主伝』は前年冬に「曹公(曹操)が居巣に駐軍し、その後、濡須を攻めた」と書いています。『資治通鑑』は『三国志・魏書一・武帝紀』に従って本年に書いています。
 
以前、孫権の右護軍・蒋欽が宣城に駐屯していた時、蕪湖令・徐盛が蒋欽の屯吏(駐屯地の官吏)を逮捕し、上書して斬りました(表斬之)
資治通鑑』胡三省注によると、宣城県と蕪湖県は丹陽郡に属します。蕪湖は春秋時代・呉の鳩茲の地です。
 
孫権が濡須に至った時、蒋欽と呂蒙が諸軍の節度(指揮権)を持ちました(持諸軍節度)
蒋欽がいつも徐盛の善を称えたため、孫権がこれについて問うと、蒋欽はこう言いました「徐盛は忠臣であり、しかも勤強(勤勉)で、膽略(勇気・智謀)と器用(才能)を有し(忠而勤強有膽略器用)、優秀な万人の督(将帥)です(好万人督也)。今は大事がまだ定まっていないので、臣()は国を助けて才を求めるべきです。どうして私恨を抱いて賢人を隠すことができるでしょう(豈敢挾私恨以蔽賢乎)。」
孫権は蒋欽を称賛しました。
 
二月、曹操が進攻して江西の郝谿に駐屯しました。
三国志武帝紀』はここで「孫権が濡須口に城を築いて拒守(抵抗・守備)した」と書いていますが、濡須に塢(防御用の堡塁)が造られたのは建安十七年212年)のことです。
 
曹操が濡須口を守る孫権を逼攻(強攻)すると、孫権は退走しました。
 
三月、曹操が軍を率いて還りました。伏波将軍・夏侯惇を留め、曹仁張遼等二十六軍を都督(統領)して居巣に駐屯させます。
 
資治通鑑』胡三省注が「都督」について書いています。
東漢光武帝が四方を征伐した時、始めて督軍御史を置いて軍を監督させましたが、任務が終わったら免除しました。順帝時代、御史中丞・馮赦が九江賊を討伐した際、揚徐二州の軍事を監督し(督揚徐二州軍事)、今回、曹操夏侯惇に二十六軍を都督させました(都督二十六軍)
この後、「都督」は軍を統領する者の官号として頻繁に使われるようになります。
 
孫権が都尉・徐詳に命じて曹操を訪ねさせ、投降を請いました。曹操は使者に答えて修好し、婚姻関係を重ねることを誓いました。
 
孫権は平虜将軍・周泰を留めて濡須を統領させました(督濡須)
資治通鑑』胡三省注によると平虜将軍は孫氏が置いたようです。
 
朱然、徐盛等は周泰の部下になりましたが、周泰が寒門(貧民、微賤)の出身だったため不服でした。
そこで孫権は諸将を集めて大いに酣楽(飲酒遊楽に耽ること。ここでは酒宴を指します)を為し、周泰に命じて衣服を解かせ、孫権自らの手で創痕(傷痕)を指さしながら傷の由来を問いました。周泰はかつて戦闘があった場所を全て覚えており、孫権の問いに一つ一つ答えます。全て答え終ってから、孫権がまた周泰に服を着させました。
三国志・呉書十・程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝』によると、孫策が六県の山賊を討った時、孫権は宣城に駐留していました。士卒に自衛させましたが、兵は千人もいません。しかし孫権は心中で状況を軽んじ(意尚忽略)、囲落(防壁・防備)を築きませんでした。
そこに山賊数千人が突然至ります。
孫権がやっと馬に乗ることができた時には、賊の鋒刃(鋭利な武器)が既に左右で交わっており、ある者が馬鞍を斬って命中しました(斫中馬鞍)。衆兵で自分を落ち着かせられる者はいません(衆莫能自定)。しかし周泰だけは奮激し、身を投じて孫権を守りました。周泰の膽気(胆力・勇気)は人の倍もあり、左右の兵も周泰のおかげでそろって戦えるようになります(左右由泰並能就戦)
賊が解散した時、周泰の身は十二創()を負っており、久しくしてやっと目を覚ましました(良久乃蘇)。もしこの日、周泰がいなかったら、孫権は危機に陥るところでした(権幾危殆)
孫策周泰を深く徳とし(感謝し)、春穀長に任命しました。
資治通鑑』胡三省注は「孫権が宣城に駐留していた時、軽んじて囲落を築かなかった(忽略不治囲落)。山賊が突然至ってから、孫権はやっと馬に乗ったが、賊の鋒刃が既に交わっていた。周泰が身を投じて孫権を守り、その身に十二創()を負った。この日、周泰がいなかったら、孫権は危機に陥いるところだった(幾危)。また、(周泰)黄祖討伐に従い、曹公(曹操)を拒み、曹仁を攻め、全て功があったので、孫権が重任を)委ねた」と書いています。
 
本文に戻ります。
孫権周泰の臂()を握って涙を流し、こう言いました「幼平周泰の字です)よ、卿は孤()の兄弟のために熊虎のように戦い、躯命(身体と生命)を惜しまず、数重の傷を負い(被創数十)、皮膚が刻画(彫刻・絵画。刀で刻まれた様子です)のようになった(膚如刻画)。孤()もどうして骨肉の恩をもって卿を待遇することなく、卿に兵馬の重(重任)を委ねずにいられるだろう(原文「孤亦何心不待卿以骨肉之恩,委卿以兵馬之重乎」。「何心」は「どのような心で」という意味だと思いますが、訳しませんでした)。」
宴の後も孫権は濡須に留まりました(住駕)
三国志・程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝』によると、宴の翌日、孫権周泰に御蓋(車の傘。帝王の儀仗に使います)を授けました。
 
孫権が濡須を去る時は、周泰に兵馬を率いて道従(導従。先導と後衛)を指揮させました。鼓角を鳴らし、鼓吹を為して軍営を出ます(鼓角、鼓吹とも軍楽です)
この後、徐盛等も周泰に服すようになりました。
 
以下、『晋書・巻一・高祖宣帝紀』からです(『資治通鑑』は建安二十四年・219年に書いていますが、『晋書・高祖宣帝紀』は司馬懿太子中庶子になる前の事としているので、ここで書きます。再述します)
曹操孫権を討伐した時、司馬懿も従いました。曹操孫権軍を破って軍を還します。
孫権曹操に使者を派遣して投降を乞い、上表して臣を称し、天命を陳述しました曹操に天命があることを説き、帝位に即くように勧めました)
曹操はこう言いました「こいつは(原文「此児」。若者を指す言葉です)(わし)を爐炭(炉中の炭火)の上に坐らせたいのか(此児欲踞吾著爐炭上邪)。」
司馬懿が言いました「漢の命運はもうすぐ終わり(漢運垂終)、殿下は天下を十分してその九を有しているのに、漢に仕えています(殿下十分天下而有其九以服事之)孫権が臣を称したのは天人(天と人)の意です。虞(舜)、夏、殷(商)、周が(天子の地位を)謙譲しなかったのは天を畏れて命を知ったからです。」
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、献帝が詔を発し、魏王・曹操に天子の旌旗を設けさせ、出入りする際は警蹕させました(設天子旌旗,出入称警蹕)
「警蹕」は外出する帝王を守るために道を清めて交通を規制することです。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。
五月、(魏が)泮宮(学府。学校)を造りました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、魏が軍師(『孝献帝紀』では「丞相軍師」、『三国志・魏書一・武帝紀』『資治通鑑』では「軍師」です)・華歆を御史大夫にしました。
 
三国志武帝紀』裴松之注によると、この頃、魏が始めて衛尉の官を置きました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。
秋八月、曹操が令を発しました「昔、伊摯(伊尹)、傅説(商代の賢臣)は賎人から出て、管仲桓公の賊(敵)だったが、皆、これを用いることで興った。蕭何、曹参は県吏であり、韓信、陳平は汙辱の名を負って見笑の恥(人から笑われるような恥)が有ったが、最後は王業を成就し、声(名声)を千載(千年)に著しくさせることができた。呉起は将軍の地位に貪欲で呉起貪将)、妻を殺して自分の誠信を表し(殺妻自信)、金を散じて官を求め、母が死んでも(故郷に)帰らなかったが、(彼が)魏にいたら秦人は敢えて東に向かわず、楚にいたら三晋が敢えて南を謀ることができなかった。今、天下には、民間に放たれている至徳の人、および果勇(果敢勇猛)で顧みず、敵に臨んで力戦する者がいないのか(天下得無有至徳之人放在民間及果勇不顧臨敵力戦)。もし文俗の吏(文書を管理する平凡な官吏)でも、高才異質で、あるいは将守の任に堪えられる者や、汙辱の名を負って見笑の行いがあり、あるいは不仁不孝でも、治国・用兵の術がある者がいたら、それぞれ知っている者を推挙せよ。遺漏があってはならない(若文俗之吏,高才異質,或堪為将守,負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治国用兵之術,其各挙所知勿有所遺)。」
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、献帝が命を発しました。魏王・曹操の冕(冠)を十二旒にし、金根車に乗って六馬に牽かせ、五時副車を設けさせます。
「旒」は冠の前後に垂らす玉の飾りで、「十二旒(十二本の旒)」は天子の冠です。
「金根車」は黄金で装飾した「根車」で、「根車」は自然に曲がった樹木を車輪にした車です。
「五時副車」は五色(青・赤・黄・白・黒)の副車(帝王の車に従う車)で、五時安車(座って乗る車)と五時立車(立って乗る車)があり、合わせて十輌になります。
 
 
 
次回に続きます。