東漢時代449 献帝(百三十一) 太子曹丕 217年(2)

今回は東漢献帝建安二十二年の続きです。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
魏が五官中郎将・曹丕を太子にしました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
魏王・曹操はかつて丁夫人を娶りましたが、丁夫人には子ができず、妾の劉氏が曹昂を生み、卞氏曹丕曹彰曹植曹熊の四子を生みました。
そこで曹操は丁夫人に母として曹昂を養わせました。ところが曹昂が穰で死ぬと(建安二年・197年参照)、丁夫人は哭泣して節がなくなりました。曹操は怒って丁夫人を出し、卞氏を継室(後妻)にします。
 
曹植は性格が機警(機智鋭敏)で芸能(芸技才能)が多く、才藻敏贍(聡明で文才が豊富なこと)だったため、曹操に愛されました。
ある時、曹操が娘を丁儀に嫁がせようとしました。しかし丁儀は片目が不自由だったため(原文「目眇」。『資治通鑑』胡三省注は「眇は一目(片目)が小さいこと」と解説しています。片目が見えなかったのかもしれません)曹丕が諫めて止めさせました。
この件があったため、丁儀は曹丕を怨み、弟の黄門侍郎・丁廙および丞相主簿・楊脩と共にしばしば臨菑侯・曹植の才を称えるようになりました。曹操に対して曹植を後嗣に立てるように勧めます。
楊脩は楊彪(建安二年・197年参照)の子です。
 
資治通鑑』胡三省注によると、給事黄門侍郎は秦の官で、漢以後も踏襲しました。侍中と共に門下(宮門内)の書事を管理しました。元々は員数を定めていませんでしたが、晋代になって四人置くことになります。
 
曹操は函(封をした手紙)を使って秘かに外の者に意見を訊ねました。
尚書・崔琰(崔琰は前年に死にました。以前の出来事をここでまとめて述べています)が露版(封をしていない文書)で答えました「『春秋』の義においては、子は長をもって立てるものです(後嗣は年長者を立てるものです。原文「立子以長」)。加えて五官将曹丕は仁孝かつ聡明なので、正統を継承するのに相応しく(宜承正統)、琰(私)は死をもってこれを守ります。」
曹植は崔琰の兄の娘壻でしたが、崔琰は曹丕を推しました。
 
尚書僕射・毛玠が言いました「最近では袁紹が嫡庶を分けなかったため、宗族を転覆させて国を滅ぼしました(覆宗滅国)。廃立の大事は、(我々が)聞くべきことではありません(廃立という大事はあってはならないことです。原文「廃立大事非所宜聞」)。」
 
東曹掾・邢顒が言いました「庶庶子によって宗(大宗。正統)に代えるのは、先世が戒めにしたことです。殿下が深くこれを察する(考察する)ことを願います。」
 
曹丕が人を送って太中中夫・賈詡に自固の術(自分の地位を守る術)を問いました。
賈詡はこう言いました「将軍(五官将)が徳度(道徳法度)を大いに発揚し(恢崇徳度)、素士(身分が低い士人)の業を自ら行い(躬素士之業)、朝から夕(夜)まで孜孜(勤勉な様子)とし、子の道に違えないことを願います。ただこうするだけです(如此而已)。」
曹丕はこれに従い、深く砥礪(鍛錬。修身)しました。
 
後日、曹操が人払いをして賈詡に意見を求めましたが、賈詡は黙ったまま何も答えませんでした。
曹操が問いました「卿に話をしたのに答えないのは何故だ(與卿言而不答,何也)?」
賈詡が言いました「思うことがあったので、すぐには答えなかったのです(属有所思故不即対耳)。」
曹操が問いました「何を思っていたのだ(何思)?」
賈詡が言いました「袁本初袁紹と劉景升劉表の父子のことを思っていたのです。」
曹操は大笑しました。
 
以前、曹操が出征した時、曹丕曹植が路側(道の傍ら)で共に曹操を見送りました。
曹植曹操の功徳を称賛し、言葉を発したらそれが文章になったため(原文「発言有章」。弁舌が流暢で文章のように美しいという意味です)、左右の者が注視して曹操も悦びました。
曹丕は悵然自失(絶望して自分を失うこと、困惑すること)します。
すると済陰の人・呉質が耳打ちしました「王が行く時、涙を流せばいいだけです(王当行,流涕可也)。」
やがて、別れを告げる時になると、曹丕は涙を流して曹操を拝しました。曹操も左右の者も皆すすり泣きます(歔欷)
この事があってから、皆、曹植は華辞(美辞)が多いものの、誠心が曹丕に及ばないと思うようになりました。
 
曹植は思いのまま行動して自分を飾りませんでしたが(任性而行不自雕飾)、五官将曹丕は権術によって自分を御し(または「権術によって曹操曹植に対応し」)、真情を隠して自分を飾ったため(御之以術矯情自飾)曹操の宮人や左右の者がそろって曹丕のために称説(発言。称賛・説得)しました。
そのおかげで曹丕がついに太子になりました。
 
左右の長御(宮女の長)が卞夫人を祝賀して言いました「将軍(曹丕)が太子を拝したので、天下で喜ばない者はいません。夫人は府藏を傾けて賞賜にするべきです(府内の財物を全て使って皆に慶賀の賞賜を与えるべきです)。」
しかし卞夫人はこう言いました「王は自ずから曹丕が年大(年長)なので用いて嗣(後嗣)にしたのです(年長の曹丕が後嗣になったのは当然なことです)。私はただ教導しなかった過りから免れられたことを幸とするだけです。どうしてまた賜遺(賜与。賞賜)を重くするべきなのでしょう(亦何為当重賜遺乎)。」
長御は還ってからこれを曹操に詳しく話しました。
曹操は悦んでこう言いました「怒っても容(顔色)を変えず、喜んでも節を失わない。本来これが最も難しいことだ(怒不変容,喜不失節,故最為難)。」
 
一方、太子になった曹丕は議郎・辛毗の頸(首)に抱きついてこう言いました「辛君に私の喜びが分かるか(辛君知我喜不)?」
辛毗がこれを娘の辛憲英に告げると、辛憲英は嘆いてこう言いました「太子とは君(国君)に代わって宗廟・社稷を主宰する者です。君に代わったら(国君の位を継いだら)憂慮・悲哀しなければならず(代君不可以不戚)、国を主宰したら懼れなければなりません(主国不可以不懼)。憂慮・悲哀して懼れなければならないのに(宜戚而懼)、逆に喜びとしました。どうして久しくできるでしょう(何以能久)。魏は興隆しないのではありませんか(魏其不昌乎)。」
 
久しくして、臨菑侯・曹植が車に乗ったまま馳道の中央を走り、司馬門を開いて出ました。
「馳道」は天子が通る道です。「司馬門」は宮門で、『資治通鑑』胡三省注によると、漢代は車馬から下りれば司馬門を通ることができましたが、魏の制度では車駕(帝王)が出る時だけ門が開かれたようです。
 
曹操は激怒しました。宮門を管理する公車令が罪に坐して死刑に処されます。
この後、曹操は諸侯の科禁(禁令)を重くしました。
曹植の寵愛が日に日に衰えていきます。
 
ある時、曹植の妻(恐らく崔琰の兄の娘です)が刺繍の服を着ていました。曹操は台に登ってそれを見つけ、制命(命令)に違えたという理由で、曹植の妻を家(実家)に還らせて死を賜りました(自殺を命じました)
資治通鑑』胡三省注によると、当時は錦繡の服を着ることが禁じられていたようです。
 
[] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』からです。
魏国が建国されてから、司馬懿が太子中庶子になりました(魏王国の建国は前年の事ですが、太子が置かれたのは本年なので、司馬懿が太子中庶子になったのも本年のはずです)
司馬懿はいつも大謀に参与し、常に奇策があったため、太子・曹丕に信重(信用・重視)され、陳群、呉質、朱鑠と共に四友と号されました。

司馬懿は後に軍司馬になりました(詳しい時間はわかりません。本年は建安二十二年・217年で、建安二十四年・219年には丞相軍司馬になっているので、二年程の間に太子中庶子から軍司馬になったようです)
司馬懿曹操に言いました「昔、箕子は謀を述べて食を筆頭に置きました(以食為首)。今、天下には不耕の者(農耕に従事しない者)がおよそ二十余万おり、経国の遠籌(国を経営する遠望な計策)ではありません。戎甲はまだ巻かれていませんが(武器はまだしまわれていませんが。戦争は終わっていませんが。原文「戎甲未卷」)、農耕をしながら(国を)守るべきです(自宜且耕且守)。」
曹操はこの意見を採用しました。
農業に務めて穀物を蓄えたため、国用(国の物資)が豊贍(豊富)になります。
 
 
 
次回に続きます。