東漢時代449 献帝(百三十一) 太子曹丕 217年(2)
魏が五官中郎将・曹丕を太子にしました。
以下、『資治通鑑』からです。
ある時、曹操が娘を丁儀に嫁がせようとしました。しかし丁儀は片目が不自由だったため(原文「目眇」。『資治通鑑』胡三省注は「眇は一目(片目)が小さいこと」と解説しています。片目が見えなかったのかもしれません)、曹丕が諫めて止めさせました。
尚書・崔琰(崔琰は前年に死にました。以前の出来事をここでまとめて述べています)が露版(封をしていない文書)で答えました「『春秋』の義においては、子は長をもって立てるものです(後嗣は年長者を立てるものです。原文「立子以長」)。加えて五官将(曹丕)は仁孝かつ聡明なので、正統を継承するのに相応しく(宜承正統)、琰(私)は死をもってこれを守ります。」
尚書僕射・毛玠が言いました「最近では袁紹が嫡庶を分けなかったため、宗族を転覆させて国を滅ぼしました(覆宗滅国)。廃立の大事は、(我々が)聞くべきことではありません(廃立という大事はあってはならないことです。原文「廃立大事非所宜聞」)。」
賈詡はこう言いました「将軍(五官将)が徳度(道徳法度)を大いに発揚し(恢崇徳度)、素士(身分が低い士人)の業を自ら行い(躬素士之業)、朝から夕(夜)まで孜孜(勤勉な様子)とし、子の道に違えないことを願います。ただこうするだけです(如此而已)。」
後日、曹操が人払いをして賈詡に意見を求めましたが、賈詡は黙ったまま何も答えませんでした。
賈詡が言いました「思うことがあったので、すぐには答えなかったのです(属有所思故不即対耳)。」
曹操は大笑しました。
すると済陰の人・呉質が耳打ちしました「王が行く時、涙を流せばいいだけです(王当行,流涕可也)。」
曹植は思いのまま行動して自分を飾りませんでしたが(任性而行不自雕飾)、五官将(曹丕)は権術によって自分を御し(または「権術によって曹操や曹植に対応し」)、真情を隠して自分を飾ったため(御之以術矯情自飾)、曹操の宮人や左右の者がそろって曹丕のために称説(発言。称賛・説得)しました。
そのおかげで曹丕がついに太子になりました。
左右の長御(宮女の長)が卞夫人を祝賀して言いました「将軍(曹丕)が太子を拝したので、天下で喜ばない者はいません。夫人は府藏を傾けて賞賜にするべきです(府内の財物を全て使って皆に慶賀の賞賜を与えるべきです)。」
しかし卞夫人はこう言いました「王は自ずから曹丕が年大(年長)なので用いて嗣(後嗣)にしたのです(年長の曹丕が後嗣になったのは当然なことです)。私はただ教導しなかった過りから免れられたことを幸とするだけです。どうしてまた賜遺(賜与。賞賜)を重くするべきなのでしょう(亦何為当重賜遺乎)。」
長御は還ってからこれを曹操に詳しく話しました。
辛毗がこれを娘の辛憲英に告げると、辛憲英は嘆いてこう言いました「太子とは君(国君)に代わって宗廟・社稷を主宰する者です。君に代わったら(国君の位を継いだら)憂慮・悲哀しなければならず(代君不可以不戚)、国を主宰したら懼れなければなりません(主国不可以不懼)。憂慮・悲哀して懼れなければならないのに(宜戚而懼)、逆に喜びとしました。どうして久しくできるでしょう(何以能久)。魏は興隆しないのではありませんか(魏其不昌乎)。」
久しくして、臨菑侯・曹植が車に乗ったまま馳道の中央を走り、司馬門を開いて出ました。
曹操は激怒しました。宮門を管理する公車令が罪に坐して死刑に処されます。
曹植の寵愛が日に日に衰えていきます。
『資治通鑑』胡三省注によると、当時は錦繡の服を着ることが禁じられていたようです。
司馬懿が曹操に言いました「昔、箕子は謀を述べて食を筆頭に置きました(以食為首)。今、天下には不耕の者(農耕に従事しない者)がおよそ二十余万おり、経国の遠籌(国を経営する遠望な計策)ではありません。戎甲はまだ巻かれていませんが(武器はまだしまわれていませんが。戦争は終わっていませんが。原文「戎甲未卷」)、農耕をしながら(国を)守るべきです(自宜且耕且守)。」
曹操はこの意見を採用しました。
次回に続きます。