東漢時代450 献帝(百三十二) 陸遜 217年(3)
蜀の法正が劉備に言いました「曹操は一挙して張魯を降し、漢中を定めましたが、その勢いに乗じて巴・蜀を図らず、夏侯淵、張郃を留めて屯守させ、その身は急いで北に還りました。これはその智が及ばなかったのではなく、力が足りなかったのであり(此非其智不逮而力不足也)、必ず内に憂偪(憂患や緊迫した状況)があるからです。今、夏侯淵と張郃の才略を策すに(測るに)、国(蜀)の将帥に勝らないので、衆を挙げて討ちに行けば必ず克つことができます。これに克った日に、農事を広げて穀物を積み(広農積穀)、相手の弱点を観察して隙を伺えば(観釁伺隙)、上は(最もうまくいけば)寇敵を傾覆(転覆)して王室を尊奨(尊重・輔佐)でき、中は(最上ではなくても)雍・涼に蚕食(徐々に勢力を拡大すること)して境土を広拓(拡大)でき、下は(少なくとも)要塞を固守して持久の計を為すことができます。これは恐らく天が我々に与えたのであり、時(機会)を失ってはなりません。」
『資治通鑑』胡三省注によると、下辨県は武都郡に属します。
『三国志・蜀書二・先主伝』は翌年に「先主(劉備)が諸将を率いて漢中に兵を進めた。将軍・呉蘭、雷銅等を分けて派遣し、武都に入らせたが、皆、曹公(曹操)の軍に滅ぼされた(皆為曹公軍所沒)」と書いています。恐らく、劉備が漢中に進出したのは本年で、呉蘭、雷銅等が敗れたのが翌年です(再述します)。
呉で魯粛が死にました。
衆人が厳畯のために喜びましたが、厳畯は固辞してこう言いました「僕(私。『三国志・呉書八・張厳程闞薛伝』『資治通鑑』とも「樸」ですが、「僕」の誤りではないかと思われます)は元から書生なので、軍事に習熟していません(樸素書生不閑軍事)。」
その発言は懇惻(懇切)で、涙まで流しました。
人々は実(実直。または実情)によって地位を譲ることができた厳畯を称えました。
『資治通鑑』胡三省注は「虎威将軍は孫権が置いたものであろう(蓋孫権置)。沈約の『志』では、曹魏が四十号の将軍を置いており、虎威は第三十四位に当たる」と解説しています。この「孫権が置いた」というのは、「孫権が創設した」のではなく、「朝廷に代わって孫権が任命した」という意味だと思います。魏の于禁も虎威将軍になっています。
定威校尉・呉郡の人・陸遜(『資治通鑑』胡三省注によると、定威校尉は孫権が置いたようです)が孫権に言いました「今は敵に克って乱を静める時であり(克敵寧乱)、大軍がなければ成功できません(非衆不済)。しかし山寇が古くから悪を為し、深地に依って抵抗しています(または「山寇や以前から悪を為している者が深地に依って抵抗しています」。原文「山寇旧悪依阻深地」)。腹心(内部)を平定しなければ、遠くを図るのは困難です。(また、これらをを討伐すれば)大いに部伍(軍の編成)して精鋭を選ぶことができます(可大部伍取其精鋭)。」
ちょうど丹陽の賊帥・費棧が乱を起こし、山越を扇動しました。
陸遜は引き還して蕪湖に駐屯します。
陸遜が答えました「淳于式の意(意図)は民を養うことを欲しているので、遜(私)を告発したのです(是以白遜)。もし遜(私)も淳于式を誹謗して聖聴を乱すようなら(復毀式以乱聖聴)、このような事は長く続けられません(不可長也)。」
冬、孛星(異星。彗星の一種)が東北に現れました。
この年、大疫に襲われました。
次回に続きます。