東漢時代451 献帝(百三十三) 漢臣の謀反 218年(1)

今回は東漢献帝建安二十三年です。二回に分けます。
 
東漢献帝建安二十三年
戊戌 218
 
[] 『資治通鑑』からです。
魏王・曹操が丞相長史・王必に兵を管理させ、許中の事を監督させていました(典兵督許中事)
資治通鑑』胡三省注によると、曹操は漢の丞相のまま魏都・鄴に住んだため、王必を長史にして漢都・許を監督させました。
 
裴松之注が曹操の令を載せています(王必を長史に任命した時の令です。王必に対する曹操の評価が書かれています)
曹操はこう言いました「領長史・王必は、吾(私)が荊棘に身を置いていた時(困難な時。原文「披荊棘時」)の吏だ。その忠は職務に尽力することができ(忠能勤事)、心は鉄石のように固く(心如鉄石)、国の良吏である。蹉跌して久しく招聘しなかったが(原文「蹉跌久未辟之」。「蹉跌」は「物事がうまくいかないこと」「失敗」ですが、ここでは「今まで王必を招聘する機会がなかった」という意味だと思います)、騏驥(駿馬)を捨ててそれに乗らず、遑遑(慌ただしい様子)として改めて(人材を)求めることがあるだろうか(焉遑遑而更求哉)。よってこれを招聘させ(故教辟之)、相応しい場所に配置した(已署所宜)。以前と同じように、領長史として政事を統べさせる(便以領長史統事如故)。」
 
資治通鑑』に戻ります。
当時は荊州関羽が強盛でした。
京兆の人・金禕は漢祚(漢の帝位、政権)が移ろうとしているのを目撃し、少府・耿紀、司直・韋晃(『資治通鑑』胡三省注によると、丞相司直です)、太医令・吉本(『資治通鑑』胡三省注によると、吉氏は周尹・吉甫の後代です。漢代に漢中太守・吉恪がいました)、吉本の子・吉邈、吉邈の弟・吉穆等と共に王必殺害を謀りました。その後、天子を制御下において魏を攻撃し(挾天子以攻魏)、南の関羽を招いて外援にしようとします(南引関羽為援)
 
春正月、夜、吉邈等がその党千余人を率いて王必を攻め、門を焼きました。矢を射て王必の肩に命中させましたが、帳下督が王必を抱えて南城に奔ります。
ちょうど空が明るくなりました。
吉邈等の衆は潰滅し、王必が潁川典農中郎将・厳匡と共にこれを討って斬りました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、王必が奔った「南城」は許の南城です。潁川典農中郎将は許の屯田を管理していました。
 
この事件を『後漢書孝献帝紀』はこう書いています「春正月甲子、少府・耿紀、丞相司直・韋晃が兵を挙げて曹操を誅殺しようとしたが、克てず、三族を皆殺しにされた(夷三族)。」
 
三国志・魏書一・武帝紀』の記述はこうです「春正月、漢の太医令・吉本と少府・耿紀、司直・韋晃等が反して許を攻め、丞相長史・王必の営を焼いたが、王必と潁川典農中郎将・厳匡が討って彼等を斬った。」
 
以下、『三国志武帝紀』裴松之注からです。上述の『資治通鑑』の記述は主にここから取捨しています。
当時、京兆の人・金禕、字は徳禕という者がおり、自分は代々漢臣で、祖先の金日磾が莽何羅(馬何羅)を討ってから西漢武帝後元元年・前88年参照)、忠誠が顕著で名節が代を重ねていると思っていました。漢祚が移ろうとしているのを見て、季興(中興)するべきだと考え、長嘆発憤します(喟然発憤)
そこで、耿紀、韋晃、吉本、吉本の子・吉邈、吉邈の弟・吉穆等と謀を結びました。
耿紀は字を季行といい、若い頃から美名がありました。丞相掾になってから、曹操が甚だ敬異(敬重)し、侍中に遷して少府を守らせました(少府の職責を担当させました)
吉邈は字を文然といい、吉穆は字を思然といいます。
彼等は金禕が慷慨(感慨、憤慨)として金日磾の気風があり、また王必と関係が良いため、それによって隙を伺い(因以閒之)、王必を殺したら天子を制御下に置いて魏を攻撃し(欲挟天子以攻魏)、南の劉備を招こうとしました(南援劉備
当時は関羽が強盛で、曹操は鄴におり、王必を留めて兵を管理させ、許中の事を監督させていました(典兵督許中事)
そこで文然(吉邈)等が雑人(恐らく雑用を担当する身分が低い者)および家僮(奴僕)千余人を率い、夜、門を焼いて王必を攻めました。
金禕が人を送って内応させ、王必に矢を射て肩に命中させます。
王必は攻撃した者が誰か分からず、かねてから金禕と仲が良かったため、走って金禕に投じました。夜、「徳禕!」と叫びます。すると金禕の家の者はそれが王必だと知らず、文然等が来たと思い、誤って「王長史はもう死んだのですか。卿等の事は成功したでしょう(王長史已死乎。卿曹事立矣)」と応えました。
王必は路を変えて奔りました。
 
あるいはこうとも言われています。
王必は金禕に投じようとしましたが、帳下督が王必に「今日の事は誰の門か全くわからないのに(「どの家が行ったのか分からないのに」。または「どの門が安全か分からないのに」)、投じて入るのですか(今日事竟知誰門而投入乎)」と言い、抱えて南城に奔りました。
 
ちょうど天が明るくなり、王必がまだ健在だったため、文然等の衆は離散して失敗に終わりました。
しかし十余日後に王必も傷が元で死んでしまいました。
 
耿紀、韋晃等を逮捕して斬ろうとした時、耿紀が魏王の名を呼んでこう言いました「恨むのは、吾(私)が自ら謀ったのではなく、群児のために誤らされてしまったことだ(群児の言うことを聞いて失敗してしまったことだ。原文「恨吾不自生意,竟為群児所誤耳」)。」
韋晃は頓首して顔を打ち、死に至りました(頓首搏頰以至於死)
 
王必が死んだと聞いた曹操は激怒し、漢の百官を召して鄴に至らせました。消火に協力した者は左に、消火しなかった右は行かせます。
衆人は消火した者が必ず無罪になると思い、皆、左に寄りました。しかし曹操は「消火しなかった者が乱を助けたのではない。消火した者こそが本当の賊だ(不救火者非助乱,救火乃実賊也)」と言って全て殺してしまいました(消火した者は現場に居たのだから、反乱に参加したはずだ、という意味だと思います)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、孛星(異星。彗星の一種)が東方に現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
曹洪呉蘭を撃とうとしました。
しかし張飛が固山に駐屯し、「軍曹洪軍)の後ろを断とうと欲している」と公言したため、曹洪や諸将は衆議において狐疑(猜疑・躊躇)しました。
騎都尉・曹休(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢武帝が三都尉を置きました。騎都尉はその内の一つです)が言いました「賊が実際に道を断つのなら、伏兵を潜行させるはずです。今、先に声勢(大言)を張ったので、それができないのは明らかです(此其不能明矣)。まだ集結する前に、急いで呉蘭を撃つべきです(宜及其未集促撃蘭)呉蘭が破れたら、張飛は自ずから走ります。」
曹洪はこれに従って進軍し、呉蘭を撃破して斬りました。
 
三月、張飛馬超も走りました。
曹休は魏王・曹操の族子です(族子は祖父の兄弟の曾孫で、曹操の下の世代の親族です)
 
三国志・蜀書二・先主伝』は本年に「先主(劉備)が諸将を率いて漢中に兵を進めた。将軍・呉蘭雷銅等を分けて派遣し、武都に入らせたが、皆、曹公曹操の軍に滅ぼされた(皆為曹公軍所沒)」と書いています。恐らく、劉備が漢中に進出したのは前年、呉蘭雷銅等が敗れたのは本年の事です(前年にも述べました)
 
また、『三国志・魏書一・武帝紀』はこう書いています「曹洪呉蘭を破り、その将・任夔等を斬った。三月、張飛馬超が漢中に走り、陰平氐の強端が呉蘭を斬ってその首を曹操に)送った。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月、代郡と上谷の烏桓・無臣氐等が反しました。
 
以前、魏王・曹操が代郡太守・裴潜を召して丞相理曹掾に任命し、裴潜が代を治めた功績を賛美しました。
裴潜が言いました「潜(私)は百姓に対しては寛(寛大)でしたが、諸胡に対しては峻(厳格)でした。今、(私を)継ぐ者は必ず潜(私)の治め方が厳しすぎたと考えて政事に寛恵を加えます(必以潜為治過厳而事加寛恵)。彼等は元から驕恣(驕慢放縦)なので、寛大過ぎたら必ず弛緩してしまい(過寛必弛)、既に弛緩してから法を用いて治めようとしたら、それが怨叛を生む原因になります(既弛,将攝之以法,此怨叛所由生也)。勢(形勢)によってこれを料るに、代は必ずまた叛します。」
曹操は裴潜を還らせるのが速かったことを深く悔いました。
 
数十日後、果たして三単于が叛したという報せが届きました。
曹操は子の鄢陵侯・曹彰に驍騎将軍を代行させて(行驍騎将軍)討伐を命じました。
資治通鑑』胡三省注によると、驍騎将軍は西漢武帝が李広を任命したのが始めです。
 
曹彰は若い頃から射御が得意で、膂力(筋力・腕力)が卓越していました(膂力過人)
曹操曹彰を戒めて言いました「家にいたら父子の関係だが、事(命)を受けたら君臣になる(居家為父子,受事為君臣)。行動する時は、王法によって事を行え(動以王法従事)。汝はこれを戒めとせよ(爾其戒之)。」
 
三国志・魏書一・武帝紀』は「夏四月、代郡と上谷の烏桓・無臣氐等が叛した。曹操は)鄢陵侯・曹彰を派遣し、これを討って破った」と書いていますが、『資治通鑑』では九月に曹彰烏桓を破ります(下述)
 
 
 
次回に続きます。