東漢時代453 献帝(百三十五) 夏侯淵 219年(1)
己亥 219年
夏侯淵は今まで戦をしてしばしば勝ってきましたが、魏王・曹操が常に戒めてこう言いました「将となったら怯弱(臆病)な時があるべきで、勇に恃むだけではならない。将とは勇をもって本とするが、行動においては智計をもってするものだ(または「行動する時は智によって計るものだ」。原文「将当以勇為本,行之以智計」)。ただ勇に任せることを知っているだけなら、一匹夫に敵うだけだ(一匹夫と同等だ。原文「但知任勇一匹夫敵耳」)。」
劉備は陽平から南に向かって沔水を渡り、山に沿って少し前進し、定軍山に営を構えます。
「定軍山に営を構えた」という部分は、『三国志・蜀書二・先主伝』では「定軍山に営を造る姿を見せた(勢作営)」、『蜀書七・龐統法正伝(法正伝)』では「定軍・興勢に営を造った(於定軍、興勢作営)」と書かれています。
本文に戻ります。
法正が「撃てます(夏侯淵に勝てます。原文「可撃矣」)」と進言したため、劉備は討虜将軍・黄忠に命じ、高地に乗じて鼓譟(戦鼓を敲いて喚声を上げること)して攻撃させました。夏侯淵軍が大敗し、夏侯淵と曹操が任命した益州刺史・趙顒等が斬られます。
しかし『三国志・魏書』の記述は少し異なります。
まずは『諸夏侯曹伝』です。
夜、劉備が夏侯淵の営を囲む鹿角(軍営を守る防御物です。木で作られており、鹿の角に似ているので「鹿角」と呼ばれました)を焼きました。夏侯淵は張郃に東囲(営の東の囲い)を守らせ、自ら軽兵を率いて南囲を守ります。
次は『張楽于張徐伝』です。
その後、劉備は走馬谷で都囲(恐らく営塁の囲みで、上述の「鹿角」を指します。「都」は「大」の意味です)を焼きました。夏侯淵が消火するため他の道から向かいましたが(原文「淵救火従他道」。誤訳かもしれません)、劉備と遭遇して交戦します。短兵(剣等の短い武器)が刃を接し(短兵接刃)、夏侯淵がついに没しました。
本文に戻ります。
張郃が兵を率いて広石から陽平に還りました。
当時は元帥を失ったばかりだったため、軍中が擾擾(混乱の様子)としてどうすればいいか分かりませんでした。
そこで督軍・杜襲(漢中の政務を監督しています。建安二十年・215年参照)と夏侯淵の司馬で太原の人・郭淮が散卒(四散した兵士)を招集し、諸軍に号令しました「張将軍(張郃)は国家の名将で、劉備に憚られている(懼れられている)。今日の事は急であり(逼迫しており)、張将軍でなければ安んじることができない。」
二人は臨時に張郃を推して軍主にしました。
しかし郭淮がこう言いました「それは弱(我が軍の弱勢)を示すことで、敵を挫くには足らないので、算(計)ではありません(此示弱而不足挫敵,非算也)。水(川)から遠く離れて陣を構えるべきです(不如遠水為陳)。(敵を)誘って到らせ、半分渡った後に撃てば(引而致之半済而後撃之)、劉備を破ることができます。」
二月壬子晦、日食がありました。
次回に続きます。