東漢時代453 献帝(百三十五) 夏侯淵 219年(1)

今回は東漢献帝建安二十四年です。
 
東漢献帝建安二十四年
己亥 219
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、曹仁が宛を屠して(皆殺しにして)侯音を斬り、また樊に駐屯しました。
 
[] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。
夏侯淵は今まで戦をしてしばしば勝ってきましたが、魏王・曹操が常に戒めてこう言いました「将となったら怯弱(臆病)な時があるべきで、勇に恃むだけではならない。将とは勇をもって本とするが、行動においては智計をもってするものだ(または「行動する時は智によって計るものだ」。原文「将当以勇為本,行之以智計」)。ただ勇に任せることを知っているだけなら、一匹夫に敵うだけだ(一匹夫と同等だ。原文「但知任勇一匹夫敵耳」)。」
 
夏侯淵劉備と対峙して年を越えました。
劉備は陽平から南に向かって沔水を渡り、山に沿って少し前進し、定軍山に営を構えます。
 
「定軍山に営を構えた」という部分は、『三国志・蜀書二・先主伝』では「定軍山に営を造る姿を見せた(勢作営)」、『蜀書七・龐統法正伝(法正伝)』では「定軍・興勢に営を造った(於定軍、興勢作営)」と書かれています。
「興勢」は地名ですが、沔水や定軍山から離れているため、『三国志集解』および『資治通鑑』胡三省注とも誤りとしています。
三国志・蜀書六・関張馬黄趙伝黄忠伝)』は「漢中の定軍山で夏侯淵を撃った」と書いており、『資治通鑑』はこれを元に「定軍山に営を構えた(営於定軍山)」と書いています。
 
本文に戻ります。
夏侯淵が兵を率いて劉備と定軍山を争いました。
法正が「撃てます夏侯淵に勝てます。原文「可撃矣」)」と進言したため、劉備は討虜将軍・黄忠に命じ、高地に乗じて鼓譟(戦鼓を敲いて喚声を上げること)して攻撃させました。夏侯淵軍が大敗し、夏侯淵曹操が任命した益州刺史・趙顒等が斬られます。
 
この内容は『資治通鑑』と『三国志・蜀書』を元にしました。『蜀書』の『先主伝』『龐統法正伝(法正伝)』『関張馬黄趙伝黄忠伝)』とも、黄忠夏侯淵を破っています。
しかし『三国志・魏書』の記述は少し異なります。
『魏書』では、『武帝紀』が「夏侯淵劉備と陽平で戦い、劉備に殺された」と書いており、『魏書九・諸夏侯曹伝夏侯淵伝)』と『魏書十七・張楽于張徐伝張郃伝)』が詳述しています。
まずは『諸夏侯曹伝』です。
夜、劉備夏侯淵の営を囲む鹿角(軍営を守る防御物です。木で作られており、鹿の角に似ているので「鹿角」と呼ばれました)を焼きました。夏侯淵張郃に東囲(営の東の囲い)を守らせ、自ら軽兵を率いて南囲を守ります。
劉備張郃に戦いを挑み、張郃軍が不利になりました。そこで夏侯淵は自分が指揮する兵の半分を分けて張郃を助けさせました。しかし夏侯淵劉備に襲われて戦死しました。
 
次は『張楽于張徐伝』です。
劉備が陽平に駐屯し、張郃は広石に駐屯しました。
劉備は精卒一万余を十部に分け、夜、張郃を急攻します。しかし張郃が親兵を率いて搏戦(格闘。戦闘)し、劉備は克てませんでした。
その後、劉備は走馬谷で都囲(恐らく営塁の囲みで、上述の「鹿角」を指します。「都」は「大」の意味です)を焼きました。夏侯淵が消火するため他の道から向かいましたが(原文「淵救火従他道」。誤訳かもしれません)劉備と遭遇して交戦します。短兵(剣等の短い武器)が刃を接し(短兵接刃)夏侯淵がついに没しました。
 
本文に戻ります。
張郃が兵を率いて広石から陽平に還りました。
当時は元帥を失ったばかりだったため、軍中が擾擾(混乱の様子)としてどうすればいいか分かりませんでした。
そこで督軍・杜襲(漢中の政務を監督しています。建安二十年・215年参照)夏侯淵の司馬で太原の人・郭淮が散卒(四散した兵士)を招集し、諸軍に号令しました「張将軍張郃は国家の名将で、劉備に憚られている(懼れられている)。今日の事は急であり(逼迫しており)、張将軍でなければ安んじることができない。」
二人は臨時に張郃を推して軍主にしました。
張郃が出て来て、兵を整えて陣を巡視すると(勒兵按陳)、諸将は皆、張郃の節度(指示)を受け入れ、衆心がやっと安定しました。
 
翌日、劉備漢水を渡って攻めて来ようとしました。
諸将は多勢に無勢なので(衆寡不敵)、水(川)に依って陣を構え、劉備軍に対抗しようと欲します。
しかし郭淮がこう言いました「それは弱(我が軍の弱勢)を示すことで、敵を挫くには足らないので、算(計)ではありません(此示弱而不足挫敵,非算也)。水(川)から遠く離れて陣を構えるべきです(不如遠水為陳)(敵を)誘って到らせ、半分渡った後に撃てば(引而致之半済而後撃之)劉備を破ることができます。」
郭淮の言に従って魏軍が陣を構えると、劉備は疑って漢水を渡らなくなりました。
そこで郭淮は陣の守りを堅くし、還心(撤退の心)がないことを示しました。
 
郭淮が)この状況を魏王・曹操に報告すると、曹操は称賛して使者を派遣し、張郃に節(軍を指揮する符節)を授け、改めて郭淮張郃の司馬に任命しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月壬子晦、日食がありました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代454 献帝(百三十六) 漢中平定 219年(2)