東漢時代454 献帝(百三十六) 漢中平定 219年(2)
『資治通鑑』胡三省注が解説しています。斜谷の道が険しいため、曹操は劉備に邀撃されることを恐れ、先に軍を派遣して要害の地を遮り(要地を守って劉備軍が通れないようにし)、その後、本営を進めて漢中に臨みました。
劉備が言いました(『資治通鑑』では「劉備曰」ですが、『三国志・先主伝』では「先主遥策之曰」です。「遙策」は「離れた地で予測する」または「後の事を予測する」という意味だと思います)「曹公が来たが何も為すことができない(無能為也)。我(私)が必ず漢川を有すことになる。」
曹操軍が北山の下で米を運びました。
黄忠が米を奪おうとして、兵を率いて出撃しましたが、約束した時間になっても還らないため、翊軍将軍・趙雲(『資治通鑑』胡三省注によると、翊軍将軍は劉備が置いた将軍です)が様子を探るために数十騎を率いて営を出ました。
官属は意味が分かりませんでしたが、主簿・楊脩はすぐに帰還の準備を始めて荷物をまとめました(便自厳装)。
ある人が驚いて楊脩に問いました「なぜこれ(撤兵)を知ったのですか(何以知之)?」
楊脩が言いました「雞肋とは、棄てるのは惜しいが食べようとしても得る(食べる)ところがない(棄之如可惜,食之無所得)。これによって漢中と比したのであり(王は漢中の比喩として「雞肋」と言ったのであり)、(そこから私は)王が帰還を欲していると知ったのだ。」
本文に戻ります。
こうして劉備が漢中を占有します。
『資治通鑑』胡三省注によると、武都は本来、白馬氐の地です。
曹操が雍州刺史・張既に意見を求めると、張既はこう言いました「(氐人に)北に出て食糧を求めるように勧めれば、賊を避けられます(可勧使北出就穀以避賊)。先に至った者に対してその寵賞(賞賜)を厚くすれば、率先した者が利を知り、後の者が必ず羨みます(前至者厚其寵賞則先者知利後必慕之)。」
曹操はこれに従い、張既を武都に向かわせました。氐の五万余落を出して扶風と天水の界内に住ませます。
武威の顔俊、張掖の和鸞、酒泉の黄華、西平の麴演等がそれぞれの郡で割拠し、自ら将軍を号して互いに攻撃し合いました。
曹操が張既に意見を求めると、張既はこう言いました「顔俊等は外は国威(朝廷の権威)を借りながら内では傲悖(驕慢叛逆)を生んでおり、もし計が定まって勢が足りたら(勢力が強大になったら)、その後、すぐに反します。今はまさに蜀平定に従事しているので(方事定蜀)、暫くは(彼等の勢力を)両存(並存)して闘わせ、卞荘子が虎を刺したように、坐してその敝(疲弊した獲物)を収めるべきです。」
一年余り経ってから、和鸞が顔俊を殺し、武威の王祕がまた和鸞を殺しました。
卞荘子の故事は『戦国策』に見られます。卞荘子が虎を刺し殺そうとしましたが、ある人が「二頭の虎がちょうど牛を食べようとしており、必ず争うことになるので待つべきです」と言いました。果たして虎は牛を争って闘い、一頭が死んでもう一頭も怪我を負いました。卞荘子は怪我をした虎を刺して二頭とも得ました。
房陵県は本来、漢中郡に属しました。胡三省は「この郡は恐らく劉表が置いて蒯祺に守らせたはずだ。そうではないとしたら、蒯祺が自立したのだろう(蒯祺は劉表によって太守に任命されたか、自ら太守を名乗ったのだろう)」と書いています。
上庸県は漢中郡に属します。申耽は以前、西城と上庸の間におり、数千家の衆を集めて張魯と通じ、また曹操にも使者を送りました。曹操は号を加えて将軍とし、上庸都尉(『資治通鑑』本文では「上庸太守」です)を担当させました(領上庸都尉)。
西城県も漢中郡に属しましたが、劉備が郡にして申儀に授けました。
次回に続きます。