東漢時代454 献帝(百三十六) 漢中平定 219年(2)

今回は東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、魏王・曹操が衆を挙げて南征を開始しました。長安を出発して斜谷を出ます。軍が要地を遮って漢中に臨みました(軍遮要以臨漢中)
 
資治通鑑』胡三省注が解説しています。斜谷の道が険しいため、曹操劉備に邀撃されることを恐れ、先に軍を派遣して要害の地を遮り(要地を守って劉備軍が通れないようにし)、その後、本営を進めて漢中に臨みました。
あるいは、「遮要」は地名ともいいます。その場合は「曹操長安を出発し、斜谷を出て、遮要に駐軍して漢中に臨んだ」という意味になります。
 
劉備が言いました(『資治通鑑』では「劉備曰」ですが、『三国志・先主伝』では「先主遥策之曰」です。「遙策」は「離れた地で予測する」または「後の事を予測する」という意味だと思います)「曹公が来たが何も為すことができない(無能為也)。我()が必ず漢川を有すことになる。」
 
曹操陽平に至りましたが、劉備は兵衆を集めて険阻な地で曹操軍を拒み、一向に交鋒(交戦)しませんでした。
 
曹操軍が北山の下で米を運びました。
黄忠が米を奪おうとして、兵を率いて出撃しましたが、約束した時間になっても還らないため、翊軍将軍・趙雲(『資治通鑑』胡三省注によると、翊軍将軍は劉備が置いた将軍です)が様子を探るために数十騎を率いて営を出ました。
ちょうどこの時、曹操が大軍を挙げて出撃しました(揚兵大出)。突然、魏軍に遭遇した趙雲は、前に進んで敵陣に突撃し、闘いながら退却します。
魏兵は散開したもののまた集合し(散而復合)趙雲を追って営下に至りました。
趙雲は営に入ると門を更に大きく開き、旗を倒して戦鼓を止めさせます(偃旗息鼓)
魏兵は趙雲が伏兵を置いていると疑って引き還しました。すると趙雲が戦鼓を打って天を震わせ雷鼓震天)、勁弩(強弩)だけを使って魏兵を後ろから射ました。
魏兵は驚駭(驚愕)して互いに押しあい踏みあい(自相蹂踐)漢水に堕ちて死んだ者が非常に大勢いました。
 
翌早朝、劉備が自ら趙雲の営を訪ね、前日戦った場所を視て言いました「子龍趙雲の字)は一身全て膽(胆)である(原文「子龍一身都為膽也」。「全身が胆でできている」「胆が大きい」という意味です)。」
 
曹操劉備と対峙して月を重ねました。魏の多くの軍士が逃亡します。
 
以下、『三国志武帝紀』裴松之注からです。
この時、曹操は帰還しようと欲し、軍令を出して「雞肋鶏肋」と言いました。
官属は意味が分かりませんでしたが、主簿・楊脩はすぐに帰還の準備を始めて荷物をまとめました(便自厳装)
ある人が驚いて楊脩に問いました「なぜこれ(撤兵)を知ったのですか(何以知之)?」
楊脩が言いました「雞肋とは、棄てるのは惜しいが食べようとしても得る(食べる)ところがない(棄之如可惜,食之無所得)。これによって漢中と比したのであり(王は漢中の比喩として「雞肋」と言ったのであり)(そこから私は)王が帰還を欲していると知ったのだ。」
 
本文に戻ります。
夏五月、曹操が漢中諸軍を全て率いて撤退し、長安に還りました。
こうして劉備が漢中を占有します。
 
曹操劉備が更に北進して武都氐を取り、関中を逼迫することを恐れました。
資治通鑑』胡三省注によると、武都は本来、白馬氐の地です。
 
曹操が雍州刺史・張既に意見を求めると、張既はこう言いました「(氐人に)北に出て食糧を求めるように勧めれば、賊を避けられます(可勧使北出就穀以避賊)。先に至った者に対してその寵賞(賞賜)を厚くすれば、率先した者が利を知り、後の者が必ず羨みます(前至者厚其寵賞則先者知利後必慕之)。」
曹操はこれに従い、張既を武都に向かわせました。氐の五万余落を出して扶風と天水の界内に住ませます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武威の顔俊、張掖の和鸞、酒泉の黄華、西平の麴演等がそれぞれの郡で割拠し、自ら将軍を号して互いに攻撃し合いました。
 
顔俊が使者を派遣し、母と子を魏王・曹操に送って質(人質)にすることで救援を求めました。
曹操が張既に意見を求めると、張既はこう言いました「顔俊等は外は国威(朝廷の権威)を借りながら内では傲悖(驕慢叛逆)を生んでおり、もし計が定まって勢が足りたら(勢力が強大になったら)、その後、すぐに反します。今はまさに蜀平定に従事しているので(方事定蜀)、暫くは(彼等の勢力を)両存(並存)して闘わせ、卞荘子が虎を刺したように、坐してその敝(疲弊した獲物)を収めるべきです。」
曹操は「善し(善)」と言いました。
一年余り経ってから、和鸞が顔俊を殺し、武威の王祕がまた和鸞を殺しました。
 
荘子の故事は『戦国策』に見られます。卞荘子が虎を刺し殺そうとしましたが、ある人が「二頭の虎がちょうど牛を食べようとしており、必ず争うことになるので待つべきです」と言いました。果たして虎は牛を争って闘い、一頭が死んでもう一頭も怪我を負いました。卞荘子は怪我をした虎を刺して二頭とも得ました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
劉備が宜都太守・扶風の人・孟達を派遣し、秭帰から北に向かって房陵を攻めさせました。孟達は房陵太守・蒯祺を殺します。
資治通鑑』胡三省注によると、宜都郡は劉備が南郡を分けて置いた郡で、夷道、狠山、夷陵の三県を管轄します。
房陵県は本来、漢中郡に属しました。胡三省は「この郡は恐らく劉表が置いて蒯祺に守らせたはずだ。そうではないとしたら、蒯祺が自立したのだろう(蒯祺は劉表によって太守に任命されたか、自ら太守を名乗ったのだろう)」と書いています。
 
劉備はまた養子の副軍中郎将・劉封を派遣し、漢中から沔水を下らせ、孟達軍を統領させました。
劉封孟達と合流してから上庸を攻めると、上庸太守・申耽が郡を挙げて降りました。
劉備は申耽に征北将軍を加えて上庸太守を兼任させ(領上庸太守)、申耽の弟・申儀を建信将軍・西城太守にしました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、劉封は羅侯(地名)・寇氏の子で、長沙・劉氏(名は不明)の甥でしたが、劉備荊州に入った時、まだ継嗣(後嗣)がいなかったため、養子にしました。
上庸県は漢中郡に属します。申耽は以前、西城と上庸の間におり、数千家の衆を集めて張魯と通じ、また曹操にも使者を送りました。曹操は号を加えて将軍とし、上庸都尉(『資治通鑑』本文では「上庸太守」です)を担当させました(領上庸都尉)
西城県も漢中郡に属しましたが、劉備が郡にして申儀に授けました。
 
三国志・蜀書二・先主伝』は「劉備が)劉封孟達、李平等を派遣して上庸で申耽を攻めた」と書いています。
蜀の李厳が後に「李平」に改名しますが、上庸を攻めた「李平」は同名の別人のようです。または誤りかもしれません。『資治通鑑』は「李平」を省いています。
 
 
 
次回に続きます。