東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)
秋七月庚子、劉備が自ら漢中王を称しました。
沔陽に壇場を設け、兵を並べて陣を布き(陳兵列衆)、群臣が陪位(同席)し、奏(上奏文)を読み終えてから、(劉備の臣が)劉備に王冠を進めました(『三国志・先主伝』の原文は「御王冠于先主(王冠を先主に進めた)」です。『資治通鑑』は「(劉備が)璽綬を拝受し、(臣下が)王冠を進めた(拝受璽綬御王冠)」と書いています)。
『資治通鑑』胡三省注によると、沔陽県は漢中郡に属します。
王冠は遠遊冠です。
東漢時代 漢中王劉備(1)
東漢時代 漢中王劉備(2)
これは『資治通鑑』の記述で、『三国志・先主伝』は「魏延を抜擢して都督にし、漢中を鎮めさせた」と書いています。『三国志・蜀書十・劉彭廖李劉魏楊伝』では「先主(劉備)が魏延を抜擢して督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守にした」です。
「館舍」は宿泊施設や駅舎、「亭障」は堡塁です。成都から白水関までを四百余区に分け、館舍を建てて亭障を築いたという意味だと思われます。
関羽が任命を受けようとしないため、費詩が言いました「王業を立てる者が用いるのは単一の人材ではありません(夫立王業者所用非一)。昔、蕭・曹(蕭何と曹参)は高祖と年少時からの旧友で(少小親旧)、陳・韓(陳平と韓信)は(楚から)亡命して(蕭何・曹参よりも)後に至りましたが、班列(序列)を論じたら韓信が最も上にいました(韓信は王になりましたが、蕭何と曹参は侯でした)。しかし蕭・曹がこれによって怨んだとは聞いたことがありません。今、漢中王は一時の功によって漢升(黄忠の字)を隆崇(尊崇、重用)しましたが、意(心中)の軽重がどうして君侯(関羽)と等しいでしょう(一時の功によって黄忠を関羽と同列にしましたが、心中の軽重においては関羽が上に違いありません。原文「然意之軽重寧当與君侯斉乎」。関羽は漢寿亭侯に封じられたため、「君侯」と言っています)。そもそも王と君侯は一体と同じで(譬猶一体)、美を同じくして憂いを等しくし(原文「同休等戚」。悲喜や苦楽を共にするという意味です)、禍福を共にしています。愚見によるなら(愚謂)、君侯は官号の高下(高低)や爵禄の多少を計って意とするべきではありません。僕(私)は一介の使、銜命の人(命を受けた人)に過ぎないので、君侯が拝(任命)を受けないのなら、これで還ります(如是便還)。ただこの挙動を惜しいと思うだけであり、恐らく(あなたは)後悔することになります(但相為惜此挙動恐有後悔耳)。」
関羽は大いに感悟し、すぐに任命を受け入れました。
次回に続きます。