東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[] 『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月庚子、劉備が自ら漢中王を称しました。
沔陽に壇場を設け、兵を並べて陣を布き(陳兵列衆)、群臣が陪位(同席)し、奏(上奏文)を読み終えてから、(劉備の臣が)劉備に王冠を進めました(『三国志・先主伝』の原文は「御王冠于先主(王冠を先主に進めた)」です。『資治通鑑』は「劉備が)璽綬を拝受し、(臣下が)王冠を進めた(拝受璽綬御王冠)」と書いています)
 
劉備は漢中王になったので、駅馬を使って上奏文を朝廷に送り、今まで授かっていた左将軍・宜城亭侯の印綬を返上しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、沔陽県は漢中郡に属します。
王冠は遠遊冠です。
左将軍と宜城亭侯はかつて曹操が上表して劉備に授けた官爵です。
 
三国志・蜀書二・先主伝』に群臣や劉備の上表が記載されています。別の場所で紹介します。

東漢時代 漢中王劉備(1)

東漢時代 漢中王劉備(2)


劉備は子の劉禅王太子にしました。
 
牙門将軍・義陽の人・魏延を抜擢して鎮遠将軍に任命し、漢中太守を兼任させ(領漢中太守)、漢川を鎮守させました。
これは『資治通鑑』の記述で、『三国志・先主伝』は「魏延を抜擢して都督にし、漢中を鎮めさせた」と書いています。『三国志・蜀書十・劉彭廖李劉魏楊伝』では「先主劉備魏延を抜擢して督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守にした」です。
 
資治通鑑』胡三省注によると、牙門将軍、鎮遠将軍とも劉備が置いた将軍号のようです。
義陽は魏文帝の時代になってから南陽郡を分けて義陽郡が設けられ、更に義陽郡下に義陽県が置かれました。魏延を「義陽の人」としていますが、史書は後の地名を使っているようです。
 
劉備は還って成都を治めました成都が漢中王国の都になりました)
三国志・先主伝』裴松之注に「劉備が館舍を建てて亭障を築いた。成都から白水関に至る四百余区(備於是起館舍築亭障。従成都至白水関,四百余区)」と書かれていますが、後半は理解が困難です。
「館舍」は宿泊施設や駅舎、「亭障」は堡塁です。成都から白水関までを四百余区に分け、館舍を建てて亭障を築いたという意味だと思われます。
 
劉備許靖を太傅に、法正を尚書令に、関羽を前将軍に、張飛を右将軍に、馬超を左将軍に、黄忠を後将軍に任命し、その他の者もそれぞれの状況に応じて位を進めました。

劉備益州前部司馬・犍為の人・費詩を荊州に派遣し、現地で関羽に前将軍の印綬を授けました。
しかし関羽黄忠の位が自分と並んでいると聞き、怒ってこう言いました「大丈夫とは間違っても老兵と同列にはならないものだ(大丈夫終不與老兵同列)!」
関羽が任命を受けようとしないため、費詩が言いました「王業を立てる者が用いるのは単一の人材ではありません(夫立王業者所用非一)。昔、蕭・曹(蕭何と曹参)は高祖と年少時からの旧友で(少小親旧)、陳・韓(陳平と韓信(楚から)亡命して(蕭何・曹参よりも)後に至りましたが、班列(序列)を論じたら韓信が最も上にいました韓信は王になりましたが、蕭何と曹参は侯でした)。しかし蕭・曹がこれによって怨んだとは聞いたことがありません。今、漢中王は一時の功によって漢升黄忠の字)を隆崇(尊崇、重用)しましたが、意(心中)の軽重がどうして君侯関羽と等しいでしょう(一時の功によって黄忠関羽と同列にしましたが、心中の軽重においては関羽が上に違いありません。原文「然意之軽重寧当與君侯斉乎」。関羽は漢寿亭侯に封じられたため、「君侯」と言っています)。そもそも王と君侯は一体と同じで(譬猶一体)、美を同じくして憂いを等しくし(原文「同休等戚」。悲喜や苦楽を共にするという意味です)、禍福を共にしています。愚見によるなら(愚謂)、君侯は官号の高下(高低)や爵禄の多少を計って意とするべきではありません。僕(私)は一介の使、銜命の人(命を受けた人)に過ぎないので、君侯が拝(任命)を受けないのなら、これで還ります(如是便還)。ただこの挙動を惜しいと思うだけであり、恐らく(あなたは)後悔することになります(但相為惜此挙動恐有後悔耳)。」
関羽は大いに感悟し、すぐに任命を受け入れました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
献帝が詔を発し、魏王・曹操の夫人・卞氏を王后にしました。
 
 
 
次回に続きます。